Monthly Archives: 10月 2022

【92】「猶予付き死刑囚」との自覚──小説『新・人間革命』第23巻「敢闘」の章から考える/10-31

●臨終の事を習いきったのかとの自問

 1976年(昭和51年)夏、男女青年部の結成25周年を迎え、伸一は中部指導に赴きます。その際に三重県白山町の三重研修道場で開かれた第一回青春会総会(7月23日)で、女子部に対する根源的な指導をしました。ここでは「宿命」について次のように語られています。(289-292頁)

  「人生には生老病死の四苦がつきまとっています。生まれてくること、生きること──そこにも、常に苦しみがあります。生を受けても、経済的に豊かな家に生まれる人もいる。反対に、食べていくことさえ大変な、貧しい家に生まれる人もいる。(中略) そこに宿命という問題がある。これは学問や科学では割り切れない問題です。既成の宗教でも解決できません。日蓮大聖人の大仏法にしか、この問題を解決し、乗り越えていく道はありません」と述べ、女性の一生に即して、結婚による嫁と姑、夫の仕事や病、死別、出産した子どもの先天的な病、自身の難病など細かく例を挙げ、信心が宿命を乗り越えていくためのものであると、力説しています。

 私の身近なケースで言うと、姉の出産した子どもの病が最も難題でした。そこから夫婦間の齟齬が起き、家族生活の破綻の危機に直面しました。ですが、信仰の力で乗り切りました。また、私自身、最初に授かった子どもが重度の障害を持っていました。生まれ落ちると同時に、というか死産の状態でこの世に出てきたのです。入信前後に、こうした「宿命」について常に考えていただけに、見事なまでの一致に驚愕しました。あの子の生命力が強ければ、一緒に悩み暮らしたかもしれません。また、それを契機に力強い人生を歩んだかも分からないのです。妻も私も、重度身体障害の娘を授かると同時に死別したことの意味を深く考えたものです。

 続いて「老」と「死」について伸一が語っているところが注目されます。文豪ユゴーの『人間はみんな、いつ刑が執行されるかわからない、猶予づきの死刑囚なのだ』という言葉や、トインビー博士の「日本の仏法指導者であるあなたと、仏法を語り合いたかった。教えてもらいたかった」との発言が引用されています。

 若き日の私は、日蓮大聖人の「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(御書1404頁)のくだりを読み、心底同意して、懸命に祈り、考えました。そして、政治、法律、経済、文学などの諸学問を学習しました。様々な信仰上の体験、学問上の経験も一応型通り積ませていただきました。では、今全て盤石かどうか。残念ながらそうは言えない心許なさが76歳の今もつきまといます。今も日々我が生命の弱さと戦い続けているのです。

●長田耕作の話と明石の関わり

 一方、7月26日に同じ研修道場で中部学生部の夏期講習会があり、懇談会の場が持たれました。そこで神戸出身の長田耕作学生部長とのやりとりが注目されます。寿司職人であった彼の父親と母親の苦労が語られ、苦難を乗り越えて蘇生してゆく姿が描かれていきます。そこで、戸田城聖先生の生まれ故郷の「厚田村」とその歌にまつわる思い出が語られ、「学生部厚田会」が結成されていくのです。(312-320頁)

    実は、先年、この長田耕作のモデルとなった中部の幹部に私は直接電話をして、体験談を改めて少し聞き直したり、その背景などを聞きました。なぜかといいますと、長田家に「初信の功徳」が現れたとの記述のあとに「かつて面倒をみた知人が、兵庫県の明石にある店舗を貸すから、もう一度寿司店を開かないか」との連絡をくれたとあるからです。つまり、この一報から長田の家族に幸運がもたらされたのです。私は今、明石に住んでいます。明石の学会員同志は、この小説のこの箇所に出てくる「明石」の文字に伸一とのえにしを感じていると伺いました。この事を伝えて、お互いの信心の激励に供したかったのです。

●幹部の堕ちていくパターン

 8月25日には九州研修道場での「伸一会」の懇談会の模様が描かれています。そこでは幹部が退転していくケースについて、厳しい口調で次のように語られていく場面が印象に強く残ります。(368-371頁)

 「私は戸田先生の時代から、傲慢な幹部たちが堕ちていく姿を、いやというほど見てきました。地道な活動をせず、威張りくさり、仲間同士で集まっては、陰で、学会への批判、文句を言い、うまい儲け話を追い求める。そういう幹部の本質は、私利私欲なんです」とのくだりです。(369頁)

   実は私は伸一会メンバーなのですが、2期生ですので、こ場には臨んではいません。しかし、先輩幹部から口伝えで聞きました。この指導は全ては当たらずとも、部分的一致を感じ、〝当たらずといえども遠からず〟を戒めてきました。長く生きると「進まざるを退転という」事例に数多直面します。これではいけない、と我が身を叱咤激励するのです。(2022-10-31)

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【91】一念の大きな転換とその契機──小説『新・人間革命』第23巻「勇気」の章から考える/10-18

●田原薫の激励に奮い立った二部学生たち

 創価大学の通信教育部の開学式が行われた1976年(昭和51年)5月。創価学会学生部の二部(夜間部)に学ぶ男子学生による「勤労学生主張大会」も東京・江東公会堂で開かれました。二部学生の間には、伸一によって「飛翔会」という名の人材育成グループが前年8月に結成されていました。伸一直結の育成によって学内活動も活発化していました。この章では、二部学生に対する様々な指導、激励が記述されています。(197-237頁)

   「私も夜学に学んだ。二部学生は、皆、私の大切な後輩たちだ。二部学生は大事だよ。貴重な青春時代に、働きながら学ぶという逆境に身を置いて、自らを鍛え抜いている。そうした青年が、大人材に育たぬわけがない。学会の宝だよ」(200頁)

    飛翔会が結成された日に、田原薫学生部長の指導が強く胸を撃ちます。伸一の提案を伝えると共に「これで、私たちの大成の種子は植えられました。その種子が芽を出し、花を咲かせ、勝利の実りをもたらしていくかどうかは、ひとえに、今後の個々人の決意と実践にかかっております。断固、戦いましょう!」と述べ、二部学生こそ、歴代会長の精神を受け継いで、師弟不ニの直道を永遠に歩み抜いていこうと呼びかけたのです。意気天を衝くかのような学会歌の大合唱。参加者のどの目も光り輝き、どの頬も紅潮していた、とあります。

 【彼らの置かれた状況も、立場も何一つ変わったわけではなかった。しかし、会場を後にした時には、使命に生きる歓喜が脈打ち、世界のすべてが変わったように感じられた。自身の一念の大きな転換がなされたのだ】(210頁)──こうした経験は私も幾たびかしたことがあります。興奮の坩堝と化した会場で、必ずや自分の使命を果たすべく頑張ろうと誓い、自身の当面する課題解決へ戦う一念を定めました。人間は、色んな場面で出会った人の話を契機に、あるいは出会ったモノやコトによって、立ち上がっていくといえましょう。

●「人間革命」の歌の完成の背景

 ついで、場面は同51年7月18日昼過ぎ。新しい学会歌「人間革命の歌」の作曲に伸一が没頭するところに移ります。テーマはかの昭和31年の参院選大阪選挙区に起因する大阪事件での関西の壮絶な戦いに触れられていきます。「7-3」に事実無根の公職選挙法違反容疑で不当逮捕された伸一は、「7-17」に出獄しました。ちょうど20年を迎える「7-17」に、「人間革命」の歌を完成させ、18日の本部幹部会で発表することにしていたのです。(253頁)

 伸一が新しい歌を作って、会員同志を勇気づけようとしたのは、単に20年の節目だったからだけではありません。当時世界平和のために中国、ソ連の社会主義国を相次いで訪問する一方、日本共産党の委員長と会っていたことなどが背景にありました。学会は共産主義に接近しようとしているのでは、との偏狭な心からの警戒感が渦巻いてきていました。また、宗門の僧侶からも言われなき非難中傷を浴びせ始めてきていたのです。

 当時、私は中野区男子部幹部の一翼を担って日夜飛び回っていました。「人間革命」の歌の完成にもただただ喜び、襟を正し厳粛な思いで歌っておりました。背後の種々の複雑な動きなど分からぬ凡庸な弟子でしたが、中ソ関係への伸一の尽力や創共協定締結に、時代のうねりを直感し発奮したものです。

●山本有三の戯曲「同志の人々」から汲み取る

 「人間革命」の歌が制作される過程で、当初五行詞だったところを四行詞に削らざるを得ないというくだりが出てきます。最終的に、二行目の「同志」にまつわる箇所が削られるのですが、それに関連して、作家・山本有三の『同志の人びと』という戯曲への、若き日の伸一の共感が語られるのです。ここは、極めて興味深い輝きを放っているように思われます。(270-275頁)

   この戯曲は、幕末の文久2年(1862年)に京都・寺田屋で捕らえられた8人の薩摩藩士をめぐる事件での船の中が舞台となっています。幕府の反応を気にした藩の圧力を前に、藩士たちの心は揺れ動きます。仲間の公家の親子たち同志を殺してでも、生きのびようとすることに傾く皆の心。それに対して、是枝万介という藩士が真っ向から異を唱えます。犠牲をいとわず大義に生きる道を選ぶものと、同志を裏切ってでもその場を凌ごうとするもの。相反する二つの立場が対比されて描かれていきます。

 青年時代にこれを読み、「志を持った人間の生き方に、鋭い示唆をなげかける作品であると思った」と強い感慨に打たれます。私たち広宣流布に生きるものとしても、ときに直面するテーマだと、考えざるを得ません。伸一は「同志」という言葉をいれたくも歌詞の流れ上削らざる得ず、その分だけ、中身を詳しく紹介して、私たちに熟慮を促されているのです。(2022-10-18)

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【90】生涯が学習、生涯が勉強──小説『新・人間革命』第23巻「学光」の章から考える/10-12

●日々の粘り強い研鑽のなかにのみ

  「皆さん方は、〝創価教育体現の第一期生〟である」──1976年(昭和51年)5月16日、創価大学に集った通信教育部生を前に伸一は訴えました。この日、開学式に集った通教生はどんなに嬉しかったことでしょう。そのスピーチで、伸一は、牧口常三郎初代会長が提唱した「半日学校制度」に言及して、「生涯が学習である、生涯が勉強である。それが人間らしく生きるということ」だと強調しました。(108頁)

   伸一は、かつて戸田城聖二代会長の事業が窮地に陥り、それを支えるために自身の学問への道を断念せざるを得なかったこと。その代わり、戸田が直接様々な学問を直接講義してくれたことを、その場で語りました。「それは文字通り、人生の師と弟子の間に〝信〟を〝通〟わせた教育でありました」と。【伸一は、創価大学の通信教育の「通信」という意味も、郵便による伝達ということではなく、師と弟子が、互いに〝信〟を〝通〟わせ合う教育ととらえていたのである】(109頁)

   ここで展開されている「生涯教育論」は極めて大事なことです。義務教育の9年から高々プラス6年ぐらい学校に通って、それ以降は学ぶことから遠ざかってしまう人たちがもっぱらです。それではいけない。「学識を深める道は、日々の粘り強い研鑽のなかにのみあることを銘記していただきたい」と述べられいることは、誰にとっても重要な問題だと思われます。

 私は、若い時から出来るだけ本を読むこと、様々な媒体からその道の専門家の論述を吸収することを心がけてきました。それは、学生時代にあまり学問をしなかったことの反動かもしれません。年を取るにつれ、そのことを反省して、学び、吸収するインプットに力を入れるようにしてきました。一方、出来る限り、世に自身の考えを問いかけるアウトプットにも同じように努力を傾けてきています。

●何があっても負けない精神の核

   この章では、通教生のスクーリングでの伸一との出会い、学光祭、卒業式などでの語らい(105-145頁)などと共に、9人ほどのメンバーの体験談が紹介されていきます。それぞれ胸打つ感動的な内容です。(145-186頁)

   いずれも凄い体験ばかりですが、その通教生たちの熱い思いが、開設いらい毎年開かれてきた学光祭に集約されていきました。そのうち第5回学光祭に伸一は初めて出席したのです。そこで発表された愛唱歌「学は光」の三番がとりわけ胸をうちます。

 🎶重きまぶたを こすりつつ  綴りし文字に 夢馳せて 夜空の星の またたきは 微笑む 我が師の

瞳にも似て いざや王者の 道なれば 〝学は光〟と今もなお‥‥‥

【伸一には、通教生たちの苦闘が痛いほどわかった。彼自身、青春時代に、大世学院の夜学に通い、苦学してきたからだ。また、会長として、同志の激励に全国を東奔西走するなか、寸暇を惜しんで、リポートの作成に取り組んだこともあったからだ】

 そして、「皆さんは、他人との比較においてではなく、自分自身に根を張った人間の王道を、自分で見いだして、自分でつくり、自分で仕上げていっていただきたい。名誉や、有名であるといったことなどに、とらわれるのではなく、障害、勉学を深めながら、自分らしい、無名の王者の道を生きてください」と訴えました。(185-186頁)

   「悪名は無名に勝る」という諺が一番幅をきかせているのが政治の世界です。名前が知られていないということを最も恐れるがゆえに、悪名をとどろかす方がましだというわけです。かつて、「国会は魔の巣窟」ともいわれていました。普通の常識が通らない世界だということでしょう。そんな世界にいる人間は普段から、自身を磨き上げ、魔に負けない強い自己を築くことしかないと思いますが。

●「通教は創価大学の生命線」

  1999年(平成11年)7月に創価大学本部棟の落成式が行われました。その建物には、優先的に通信教育部の教員の研究室と事務室が入り、そこで行われる最初の授業は通教生の夏期スクーリングにすることを伸一は提案しました。これは、通教は、創価大学の生命線であるとの考えからでした。(194-195頁)

   その本部棟の前に立つ「学光の塔」。その塔には、伸一が、創価大学に学ぶ一人ひとりへの期待を込めて綴った一文が刻まれているのです。

 「『学は光、無学は闇。知は力、無知は悲劇』これ、創価教育の父・牧口常三郎先生の精神なり。この『学光』を以て永遠に世界を照らしゆくことが、我が創価の誉ある使命である」

 世界は今混沌としています。かつて差配した超大国は見る影もなく、片や国内分断に悩み、片や世界分断の元凶と成り下がっています。それに代わる勢力は未だ真実の姿を表していません。「創価の誉ある使命」の重大さを痛感するのです。(2022-10-12)

 

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【89】深刻な現代の子どもたちの悩み──小説『新・人間革命』第23巻「未来」の章から考える/10-4

●「未来の国から来た王子様と王女様」

 「吾々は未来に望を嘱して子孫の計を立てんのみ。今の処、誰が考えても教育以外に適当なる救済の道は見出し難かろうからである」──これは創価教育の父・牧口常三郎初代会長の言葉です。この章は冒頭にこの引用から始まり、伸一の【子どもを育成するということは、未来を建設することだ。ゆえに、教育は、最も大事な聖業となる】との記述に繋がります。1976年(昭和51年)4月16日に新たに開設された北海道・札幌創価幼稚園の入園式の模様から描かれていきます。(7頁-75頁)

 「入園式の日、創立者の山本先生が、迎えてくれたことを覚えています。『あっ、先生だ!』と指をさすと、『おいで!』と言って、膝の上に乗せてくださいました。幼稚園では、担任の先生から、いつも『あなたたちは、未来の国から来た、王子様、王女様なんだよ』と言われ、本当に大事にされていました。私は創価幼稚園に入るまで、近くの保育園に通っていましたので、子どもへの接し方の違いが、よくわかりました」──これはのちに同幼稚園の教員になった一期生の女性が当時を振り返った言葉として紹介されています。

 園児たちに接する伸一の姿勢はまた、深い感動を呼び覚まします。【伸一にとっても、園児たちは宝であり、その存在は生涯の誇りであった。互いに誇りとし合う、この魂の交流にこそ師弟がある。

  使命ある あの子 この児を 忘れまじ 来たる世紀の 主役なりせば 】(74頁-75頁)

 このところ小さな子どもたちを扱う大人たちの不注意や、無責任さが原因の悲しく痛ましい事故が相次いでおきています。また親の小児虐待も後をたちません。何かが狂っていると思わざるを得ない社会的現象に、我が身の周辺を戒めると共に、社会全体で子どもを育てるという意識の大事さに思いをいたします。

●札幌に続き、香港など世界各地に相次ぐ幼稚園の開園

    この後、 札幌に続いて、香港(1992年)、シンガポール(1995年)、マレーシア(1995年)、ブラジル(2002年)、韓国(2008年)と世界各地に創価幼稚園(韓国の名称は幸福幼稚園)ができていきます。伸一はそれぞれの開園式に訪問したり、メッセージを贈ったりしました。喜びを共有して励ます様子が綴られていて、微笑ましく、心和む思いになります。(75頁-101頁)

    香港では2003年(平成15年)に、新型肺炎(重症急性呼吸器症候群=SARS)が猛威をふるいました。そのニュースを聞くや、直ちに伸一は大量のマスクを購入し、届けます。その後、市中では子ども用マスクが品切れになり、園児や親たちはその配慮の深さに喜びました。その後、幼稚園は2ヶ月ほど休園に追い込まれますが、教員たちはビデオCDを自分たちで作り、各家庭に送ったのです。幼稚園のこの対応については、高い評価を受け、香港の新聞でも大きく報道されました。

 2006年には、香港の創価幼稚園は政府教育局などの視察の対象になりました。公表された評定リポートで「創立の主体となってる団体(SGI)は、教育に関する経験が豊富であり、国際的な視野を持っている」としています。さらに、「『人間主義の教育』を実践しており、バランスのとれたカリキュラム(教育課程)により、園児の体力、知力、外国語、情緒、美的感覚、集団行動等の能力が、全体的に向上するよう考慮されている」とし、最終的に、教職員、保護者が緊密な連携をとりあっていて、園児たちも幼稚園生活を楽しんでいる様子が絶賛されています。(86頁-87頁)

   香港の創価幼稚園は開園から30年。当時の園児たちも最長で30代後半の歳頃です。激動する香港でどのような生活を送っているのか気になります。真相を知りたいとの思いが募ってきます。

●牧口先生の今に伝わる子どもたちへの思い

   初代会長の牧口常三郎先生は『創価教育学体系』第一巻を1930年(昭和5年)11月18日に発刊しました。この日は創価学会創立記念日ですが、同時に「創価教育原点の日」でもあります。伸一は、2008年(平成20年)のこの日に世界6カ国の幼稚園に新たな指針を贈りました。

 「何があっても 負けない人が 幸福な人」「みんな仲良く 僕たち家族」「父母を大切にする人が 偉い人になる」【彼は、最も大切な幸せへの道を、人間としての生き方を、清らかな子どもたちの生命に、あらためて打ち込んでおきたかったのである】(102頁)

   「児童や生徒が修羅の巷に喘いでいる現代の悩みを、次代に持ち込ませたくないと思うと、心は狂せんばかり」──『創価教育学体系』の発刊に寄せた牧口先生の思いです。

 時代は変わりました。だが、世界の巷には修羅が続いているように見えます。この牧口先生の思いをどう受け止めるべきでしょうか。事はより深刻です。(2022-10-5)

 

 

 

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