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【100】人を見つけ育てることの大事さ──小説『新・人間革命』第25巻「人材城」の章から考える/12-25

●頭のなかにきざみつけること

 佐賀から、舞台は熊本へ。1977年(昭和52年)5月末のこと。伸一は、青年部の代表に対して、勉強すること、学ぶ姿勢について厳しい指摘をしたあと、学会の人材の要件とは何かについて、語っていきます。きっかけは、会館の由来が書かれた石碑文を、県青年部長が幾度かつまり、読み間違えたことでした。

 「碑文は事前に、よく読んで、しっかり、頭のなかにきざみつけておくんです。急に言われて、上がってしまったのかもしれないが、そういう努力、勉強が大事なんです。戸田先生の、青年に対する訓練は、本当に厳しかった。『勉強しない者は私の弟子ではない。私と話す資格もない』とさえ言われていた」(309頁)と。

 戸田先生の厳しい訓練は、池田先生が時に応じて、会長を含めてそばにいる幹部にされている様子を通じて、教えていただきました。また、最高幹部を経験した大先輩や聖教新聞社で池田先生から直接訓練を受けた同僚、仲間からも聞いてきました。その都度、そばにいて薫陶を受ける人は大変だなあ、と思ったものです。私は、先生の指導を聞き、勉強すること、本を読むことだけはせっせと積み重ねてきました。しかし、それがどれだけ身についているかと自問すると、疑問です。頭の中にきざみつけ、身体に覚えこませることは並大抵ではないと思います。生涯学習を続けていくしかないなと思うだけです。

 テレビでドラマを見るたびに、俳優が長いセリフを覚えていることに、感嘆します。また、スポーツの実況中継を見るにつけ、彼ら彼女らの身体に染み込んだ咄嗟の動きにも驚嘆します。いったい普通の人とどこが違うのか。弛まぬ練習、訓練の繰り返し、連続しかないと思い、老いの身は天を仰ぐのです。

●広宣流布の師弟の道に生き抜く人

     ついで、幹部との懇談会での様子が語られていきます。学会の人材の要件とは何かがテーマですが、根本的な要件として、〝労を惜しまず、広宣流布の師弟の道に生き抜く人〟とする一方、若い女性のあり方について、極めて大事なとらえ方が次のように示されていきます。

【かつて、女性は、幼い時は父母に従い、結婚してからは夫に従い、老いてからは子に従うべきであるとされていた。近代の女性たちは、そうした服従の綱を断ち、自立の道を歩もうとしてきた。(中略)  本当に一つ一つの物事を自分で考え、判断しているだろうか。周囲の意見や、流行、大勢などに従っていないか。それが、何をめざし、どこに向かっていくかを深く考えることもなく、ただ、みんなから遅れないように、外れないようにと、必死になって追いかけて、生きてはいないだろうか。】(316頁〜317頁)

    ここは、若い女性への指摘なのですが、年老いた世代が読むと違ったとらえ方をしてしまいます。前半については、近代以前は女性の立場は服従の側面が強かったといえましょう。私のような戦後第一世代は、しばしば民主主義の時代に、強くなったのは「女性と靴下」だと聞かされたものです。半ば揶揄ですが、今やすっかり遠い昔のことで、女性は強くなりました。しかし、まだ道半ばで「男女雇用機会均等」といっても、現実はまだ遠く、理想とは違います。

 後半部分は、女性というよりも、人間全体に言えると思われます。男も基本的には同じだと思えてなりません。自立していない男性も多いのです。私のような世代の男が集まると、結婚した時は嫁は妻だが、やがて妹から姉になり、さらに母親になり、そして看護師や介護師になるという風な言い方がしばしば聞かれます。半ば自嘲ですが、当たっているようにも思われます。高齢を迎えると、男女の関係が逆転するケースも多いようです。

●「裏込」こそ城の基盤

 熊本の代表幹部との懇談で、伸一は、多彩な人材の必要性を強調します。「人材とは、表に立って指揮をとる人のように考えてしまいがちだが、裏で黙々と頑張る人を見つけ、育てなければ、難攻不落の創価城は築けません」と、述べたあと、こう続けています。

 「堅牢な城の石垣は、表の大きな石の裏側に『裏込』といって、砕いた小石が、たくさん組み込まれているんです。この『裏込』が、石垣内部の排水を円滑にし、大雨から石垣を守る。表から見えないが、その役割は重要なんです。学会の組織にあっても、陰で頑張ってくださっている方々は、城でいえば『裏込』にあたります」(389頁)

   リーダーが、陰で頑張ってくれている人を心から尊敬して、大切にしてくれているか。それを〝自分のことを分かってもらえてる。有難いな〟と思って下さってこそ、力が発揮される──「人を見つけ、育てる」ことの大事さ。先輩に、見つけられ、讃えられ、励まされる。そしてまた、自分が後輩に同じことをする──この繰り返しから、揺るぎない堅固な組織が構築されていくことを改めて、学びました。(2022-12-25)

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【99】無理と諦めずに無我夢中の挑戦──小説『新・人間革命』第25巻「薫風」の章から考える/2022-12-18のあと

●個人会館は、弘教、発心、幸福、外交の城

 ついで、山口から九州に伸一は向かいました。この章は、北九州市、佐賀県での激励行が描かれていきます。時は、1977年(昭和52年)5月22日〜27日のこと。会合における「司会」のあり方から始まり、3人の歯科医学生への激励などが語られたあと、個人会館の重要性について触れられます。

 伸一は、峯子と共に小倉南区にある田部会館に向かう車中で、こう語ります。「個人会館は、いわば広宣流布という戦いの出城だ。人びとはそこで仏法の話を聞いて信心し、奮起し、人間革命、宿命転換の挑戦を開始していく。つまり、『弘教の城』であり、『発心の城』であり、『幸福の城』だ。またそこに集う同志の常識豊かで楽しそうな姿を見て周囲の人たちが、学会への理解を深めていく『外交の城』でもある」

 峯子は、笑みを浮かべながら「個人会館の果たす役割は、本当に大きなものがあります。また、会場を提供してくださる方のご苦労は、並々ならぬものがありますね。駐車や駐輪で近隣にご迷惑はかけていないか。会合の声が外に漏れていないか。皆さんの声が外に漏れていないか。皆さんの出入りの音がうるさくないか──と、気遣うことも本当に多いですしね。頭が下がります」と語っています。

    私の青年部時代の昭和50年代はまだまだ会館は少なく、私の妻の実家は中野区の閑静な住宅街にありましたが、ずっと会場として提供させて頂いていました。多い時は100人ほどの人々が出入りしていました。それなりに気遣ってはいましたが、ご近所にはさぞご迷惑だったろうと冷や汗かく思いです。その会場から数多くの人材が輩出されたことが何よりの喜びだと家族は語っていました。

●蒼蝿驥尾に附して万里を渡ってきた、との実感あり

    また、佐賀での懇談では、信心に励むうえで、最も大切な、極意は「師弟不ニ」にあるとしたあとに、次のように述べられています。「戸田先生は、不世出の、希有の大指導者だ。先生の一念は、広宣流布に貫かれている。その先生を人生の師と定め、先生の仰せ通りに、先生と共に、また、先生に代わって広宣流布の戦いを起こしていくんだ。(中略)  『立正安国論』に、「蒼蝿驥尾に附して万里を渡り」(御書26頁)という一節があるだろう。一匹のハエでも名馬の尾についていれば、万里を走ることができる。同じように、広宣流布の大師匠につききっていけば、自分では想像もしなかったような、素晴らしい境涯になれる」(280-281頁)

   ここは極めて大事なところに私には思えます。「先生の仰せ通りに、先生と共に、先生に代わって広宣流布の戦いを起こす」──これは普通の人間にとって、現実にはとても難しいことに思えます。ですが、そう決めてしまい、動くことをせずに、難しそうだからと最初から諦めてしまっては、事態は一歩も変わらず、「素晴らしい境涯」も望めません。

 大変でも、困難に見えていても、やろうと決めて祈って動くところから、名馬の尾についたハエになれることができるのだと確信します。ここでも「無我夢中」になることが大事だと思います。私自身の信仰体験でも、価値のない存在だったのに、遠くまでやってこれたようにしか思えないのは、結果を恐れず挑戦をしてきたからだとの実感があるのです。

●「創価」を貫く行動は「励まし」に次ぐ「励まし」

   佐賀文化会館の庭で伸一が会う人ごとに激励する場面が登場します。例えば、「何があっても、悠々と題目を唱え抜き、信心の炎を燃やし続けていくならば、どんな病にも、負けることは絶対にない。必ず幸せになれるんです!」なとといった情景の描写のあと、次のように書かれており、読むものの胸を打ちます。

 【もし、伸一の生涯を貫くものを一言で表現するなら、「広宣流布」であることは言うまでもない。さらに、彼を貫く行動を一言するなら、「励まし」にほかなるまい。出会った一人ひとりに、全精魂を注ぎ、満腔の期待と祈りを込めて激励し、生命を覚醒させていく──地味と言えば、これほど地味で目立たぬ作業はない。しかし、広宣流布は一人ひとりへの励ましによる、生命の開拓作業から始まるのだ。だから、伸一は必死であった。華やかな檜舞台に立つことなど、彼の眼中にはなかった。ただ、眼前の一人に、すべてを注ぎ尽くし、発心の光を送ろうと懸命であった。】(297-298頁)

   「励まし」につぐ「励まし」をされている池田先生の姿を見ました。かつ私自身も直接励ましを受けてきました。そのたびに、どんなに奮い立ったことでしょうか。それを今度は後輩たちや、仲間との交流のなかで、「励まし」をしようと決意し、実践をしてきました。また先輩や仲間から時に応じて励まされてもきました。このまごころの激励、励ましの応酬こそ、創価学会の凄さだと思えてなりません。(2022-12-17)

 

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【98】人生の総仕上げとはいかなる生き方か──小説『新・人間革命』第25巻「共戦」の章から考える/12-11

●山口開拓指導から20年の懇談会で

 「山口開拓」──こう呼ばれた山口県への指導(1956年10月、11月〜1957年1月)から20年が経っていました。伸一は、1977年(昭和52年)5月に山口文化会館の落成を記念する勤行会に出席しました。この章は、東京から関西・滋賀を経て、九州から山口に入った伸一の激励行が描かれていきます。三回にわたる「開拓指導」では、400世帯から4000世帯を超えるまでの大発展を遂げました。その戦いに触れられつつ懇談会が開かれます。

 そこでは、草創の同志たちに、人生の〝総仕上げ〟とはいかなる生き方を意味するのかについて語られているくだりが、深く印象に残ります。「第一に報恩感謝の思いで、命ある限り、広宣流布に生き抜き、信仰を完結することです」から「第二に、人生の総仕上げとは、それぞれが、幸福の実証を示していく時であるということです」「第三に、家庭にあっても、学会の組織にあっても、立派な広宣流布の後継者、後輩を残していくことです」まで、ユーモアを交えながら、極めて示唆に富む話が幾重にも展開されています。(149-160頁)

   ここからは計り知れないほどのヒントが得られます。例えば、戸田先生の「どこにいても、生きがいを感ずる境涯、どこにいても、生きている自体が楽しい、そういう境涯があるんです。腹のたつことがあっても、愉快に腹がたつ」との講演や、獄中からの牧口先生の「心ひとつで地獄にも楽しみがあります」と葉書の一節などが紹介されています。これらから、あらためて「境涯」というものの持つ意味を考えざるを得ません。

 昭和40年代半ばのこと。中野区鷺宮のとあるアパートの一室でひたぶるにいつもお題目を上げておられた80歳くらいの壮年がいました。楽しそうに、悠々とされたその喜びの表情が当時学生部員だった私の瞼に焼き付いています。と同時に、「豊かな『心の財』を得た幸福境涯というのは、内面的なものですが、それは表情にも、言動にも、人格にも表れます」(155頁)との言葉が思い起こされます。いつも難しい表情で、笑顔が乏しい自分の顔つきに恥じる気持が生じます。これではダメだと思いつつ、鏡に向かって作り笑いをする私なのです。

●世界広布の道がいかに険路であるか

 この後、山口市内の亀山公園のなかに宣教師フランシスコ・ザビエルの記念聖堂が立っていることを聞いた伸一は、かつて彼の書簡集を読んだことを思い起こします。そこから異郷の地での布教の厳しさが語られていきます。ザビエルの言動から、世界広布の道がいかに険路であるかが読むものに強く響くのです。(160-167頁)

   ザビエルの「説教にも、討論にも、最も激しい反対者であった者が、一番先に信者になった」との言葉や、後輩の宣教師への「あなたがたは全力を挙げてこの地の人びとから愛されるように努力しなさい」との助言が紹介されています。そして、恩師・戸田城聖から、伸一は「世界は広い。そこには苦悩にあえぐ民衆がいる。いまだ戦火に怯える子どもたちもいる。東洋に、そして、世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって」と託されたことが語られます。

 キリスト教の世界における布教がいかに凄まじい苦難のものであったかは、よく知られています。仏教でそうした歴史を持っているのは、日本発では創価学会SGIだけでしょう。宣教師や僧侶ではなく、普通の市民の手になる布教ゆえ、苦労の質も違います。先年、ヨーロッパを訪問した際に、ドイツ広布に後半生を捧げてきた壮年、婦人の日本人幹部に会いましたが、日本広布に比べてなお未だ草創期にあることを実感しました。

●「何があっても20年」を合言葉に

 さらに山口文化会館での勤行会で、伸一は20年前の当時を回顧しながら、こう訴えています。(175頁)

 「戸田先生は、よく『二十年間、その道一筋に歩んだ人は信用できるな』と言われた。二十年といえば、誕生したばかりの子どもが成人になる歳月です。信仰も、二十年間の弛まざる精進があれば、想像もできないほどの境涯になります。(中略) しかし、それには、人を頼むのではなく、〝自分が立つしかない〟と心に決め、日々、真剣に努力し、挑戦し抜いていくということが条件です。ともかく、『何があっても二十年』──これを一つの合言葉として、勇敢に前進していこうではありませんか!」と。

 私の信仰生活はやがて60年になります。自分自身の境涯を顧みれば、お寒い限りではありますが、この20年で、やり通したことといいますと、ネット上での「読書録」と、「政治評論」が挙げられます。まだまだ未熟ですが、それなりに努力してきたという自負はあります。20年前にはここまで続くとは思っていなかったのですが、「継続は力なり」を実感します。読者からの声が何よりの励みです。(2022-12-10)

 

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【97】大震災直後の執筆、掲載に深い意義──小説『新・人間革命』第25巻「福光」の章から考える/12-3

●「生涯青春」──もう一度草創期の思いで

 伸一は、1977年(昭和52年)3月11日に東京から福島に向かいます。新しく完成した福島文化会館の開館記念勤行会への出席が目的でした。ここで創価学会の組織、幹部のあり方に関する根源的な指導がなされていきます。ある意味で、この章は苦難、困難にどう立ち向かうかの観点から最も重要なことが書かれています。

 「人生で大事なのは、ラインの中心者を退いたあとなんです。その時に、〝自分の使命は終わったんだから、のんびりしよう〟などと考えてはいけません。そこから信心が破られてしまう。戦いはこれからですよ。(中略)  八十歳になろうが、九十歳になろうが、命ある限り戦い、人びとを励まし続けるんです。『生涯青春』でいくんですよ」(48頁)

   この章が聖教新聞紙上で連載が始まったのは2011年(平成23年)9月1日付けからです。その年には、あの東日本大震災が発生しました。その半年後に、最も被害が大きかった福島県について書かれた章なのです。「福光」のニ字に伸一の万感の思いが込められています。奇しくも34年前の「3-11」から書き起こされています。

 1995年(平成7年)の1月17日には阪神淡路大震災が起こっていました。あの日のことは兵庫県の人間として、命の底に焼き付いています。「大災害の時代」とも規定される今に生きる人間の宿命を感じつつ、「戦いはこれから」、「命ある限り戦い、人びとを励まし続ける」実践を誓うものです。伸一の「この7年間に何人の人に仏法を教えましたか」との問いかけに、1人も実らなかったと答えた草創の先輩幹部に対して、「もう一度草創期の思いで、戦いを起こしましょう」と呼びかけた逸話ほど胸に深く染み込むものはありません。

●「班十世帯の弘教」からの連想

 このあとも、草創期から戦ってきた2人の女性との様々な足跡が語られていきます。その中で、かつて彼女たちが所属していた文京支部の「班十世帯の弘教」にまつわるエピソードが胸を打ちます。これが提案されたのは昭和32年のことですが、当時支部長代理をしていた伸一によるものでした。この当時、戸田第二代会長が願業として掲げていた会員75万世帯の達成がもうひと息にまで迫っていました。

【〝この七十五万世帯達成の大闘争に加わるということは、広宣流布の前進に、燦然たる自身の足跡を刻むことになる。子々孫々までも誇り得る歴史となる。その意義は、どれほど大きく、尊いことであろうか‥‥〟そう思うと、一人でも多くの同志を、その戦列に加えたかった。そして、班十世帯の弘教を提案したのだ。特に、これまで折伏を実らせずにいた人や、新入会の同志などの、弘教の大歓喜の闘争史を創ってほしかったのである。】(59-60頁)

 これを読み、私が入会した昭和40年から4年の間に、次元は違いますが10世帯の個人折伏をしたことを連想します。姉から始まり母に至る4人の家族と、高校同期の仲間たち4人を含む10人です。その時の歓喜たるや、凄いものがありました。班長や班担当員さんが喜んでくれたものです。あれから50年余。我が胸中の闘争史は今もなお輝きは失っていませんが、新たな歴史を刻まねばと思うこと大なるものがあります。

●どんな状況にも壊されない〝心の財〟

 ついで、勤行会の後での代表幹部との懇談で、ある壮年幹部からの、常磐炭鉱の閉山で他の地域に移らねばならなくなるなどの厳しい生活状況に直面するメンバーをどう励ませばいいかとの質問を受けました。その際に伸一は、生活苦に喘ぐ同志たちに大事なアドバイスを渾身の思いを込めてしていきます。(85-90頁)

    「厳しい状況になればなるほど、磨き鍛えてきた生命という〝心の財〟は輝いていくんです。閉山だろうが、不況だろうが、〝心の財〟は壊されません。なくなりもしません。そして、〝心の財〟からすべてが築かれていきます。いわば、逆境とは、それぞれが、信心のすばらしさを立証する舞台といえます。人生の勝負は、これからです。最後に勝てばいいし、必ず勝てるのが信心です。苦闘している皆さん方に、『今の苦境を必ず乗り越えてください。必ず勝てます。勝利を待っております』と、お伝えください」(89-90頁)

 この箇所が掲載された当時の福島県に住む多くの人たちは、絶対絶命のピンチに立っていました。その際のこの伸一の伝言は、津波に家が押し流されようが、原発事故で住まいを奪われようが、〝心の財〟は壊されません、と響いたに違いありません。

 福島第一原発のあの事故から11年余り。岸田政権は、原発稼働へとこれまでの方針を切り替えようとしています。ウクライナ戦争の影響もあり、深刻な電力不足が背景にあるのでしょうが、安全未確認のままの原発回帰には反対です。今後の動向を注目したいと思います。(2022-12-3)

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