Monthly Archives: 4月 2023

【116】「非暴力、不服従」の道─小説『新・人間革命』第29巻「源流」の章から考える/4-26

●「非暴力、不服従」というガンジーの生き方

 1979年(昭和54年)2月3日に伸一は鹿児島空港を立ち、香港を経てインドに向かいます。デリー大学での図書贈呈式に出席する一方、首相や外相ら要人との会見と共に、会員の激励に全力を込めていきました。その合間に、ニューデリー郊外のラージ・ガートに行き、遺体が荼毘に付された地で、ガンジーに想いを馳せます。

 【 人類の歴史が明白に示しているように、不当な侵略や支配、略奪、虐殺、戦争等々の暴力、武力がまかり通る弱肉強食の世界が現実の世の中であった。そのなかで、マハトマ・ガンジーが非暴力、不服従を貫くことができたのは、人間への絶対の信頼があったからだ。さらにそこには「サティヤーグラハ」(真理の把握)という、いわば宗教的確信、信念があったからだ。】(397-398頁)

    【敷地内の一角に「七つの罪」と題したガンジーの戒めが、英語とヒンディー語で刻まれた碑があった。──「理念なき政治」「労働なき富」「良心なき娯楽」「人格なき知識」「道徳なき商業」「人間性なき科学」「献身なき祈り」いずれもガンジーのいう真理に反するものであり、「悪」を生み出し、人間を不幸にしていく要因を、鋭くえぐり出している。伸一は、「献身なき祈り」を戒めている点に、ことのほか強い共感を覚えた。行為に結びつかない信仰は、観念の遊戯にすぎない。信仰は人格の革命をもたらし、さらに人びとの幸福を願う献身の行為になっていくべきものだからだ。】(399-400頁)

   伸一は、この地で、非暴力の象徴としての「対話の力」で、人類を結び、世界の平和を築くべく、その生涯を捧げようと深く心に誓いました。ガンジーの思いにも、伸一の誓いにも反する動きが、残念ながら今もなお横行して止むことがありません。あくなき挑戦を諦めずにし抜くことこそ、後に続く我々に課せられた使命と思います。

●ICCR のカラン・シン副会長の言葉

 様々な交流のなかでも、印象に残るものの一つが、訪印団の招聘元であるICCR(インド文化関係評議会)のカラン・シン副会長との会談であったと私には思われます。2月8日のニューデリーでの答礼宴で、同副会長は、人類が核戦争の危機に直面していることを取り上げ、その要因は人間の内面にあると強調。その危機を打破するために、〝人類はすべて一つの家族〟との理念に立ち返るべきだと訴えたのです。加えてインドが世界に誇る古代文明のなかから釈尊が登場し、その教えを基調とした創価学会の思想と目的の素晴らしさを賞賛したのです。(403-404頁)

【学会は、この招待の返礼として、翌1980年(昭和55年)10月、シン副会長を日本に招き、さらに友情を深めていった。来日の折、伸一との語らいで対談集の発刊が合意され、88年(同63年6月)、『内なる世界──インドと日本』が上梓される。ヒンズー教と仏教という違いを超えて、両者の底流にあるインドの精神的伝統を浮かび上がらせ、その精神文明が現代の危機を克服する力となることを訴えるものとなった。】

 釈尊によって誕生した仏教が数千年を経て、日本に伝来したという人類史を画する動きを、「内なる世界」の観点から掘り起す試みは極めて重要です。世界史における近代は、ヨーロッパのキリスト教を源流とする宗教からばかり見られがちですが、アジアにおける仏法の東遷から西遷への壮大な往還から見ることの大事さを、ここから学べるのです。

●思想、宗教を忘れることの悲しさ

 さらにこのあと、伸一は西ベンガル州のトリブバン・ナラヤン・シン知事と語らいます。ここでも重要なテーマが取り沙汰され、読むものの心を揺さぶっていくのです。

 伸一は、同知事に「インドの繁栄と平和のために献身されてきて一番悲しかったのは何ですか」と尋ねます。その答えは「イギリスの支配が終わって、インドが独立してわずか数年で、多くの人びとが、釈尊やガンジーなど、偉大なインドの思想家の教えや宗教を忘れてしまったことです。とりわけ宗教は人類にとって極めて重要であり、人類史に誇るインドの大きな遺産でした」とあるのです。(441頁)

   シン知事が釈尊の生み出した仏教の源であるインドが、今やその宗教を忘れ去った存在になってしまっていることを嘆いていることに思いが及びます。極東の地・日本で、米国との敗戦から占領を経て、創価学会が目まぐるしい進展をしていることに注目していることは、見逃せないことだと思えます。

 しかし、それを深く考えれば、日本における仏教の現状には歪なものがあり、決してインドから羨望の眼差しで見られるほどの存在ではないと言わざるを得ません。インドと日本──この仏教有縁の両国が今こそ、互いの立ち位置を自覚して、人類の平和に向けて協調し、立ち上がる時を迎えていると思えてならないのです。(2023-4-26)

 

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【115】内外の災難に立ち向かう勇気──小説『新・人間革命』第29巻「清新」の章から考える/4-19

●32年後の岩手・水沢

 1930年(昭和5年)の創立を起点に、7年ごとに節目を刻んできた創価学会は、1979年(昭和54年)1月に新しい段階を迎えました。伸一は清新の息吹で、この新しい年を東北から出発します。宮城から岩手・水沢へと足を運びました。この時に県下各地から駆けつけていた青年たちの32年後の姿(東日本大震災の被災)が語られると共に、同じく大震災を経験した兵庫始め全国からの真心の支援の交流が読むものの胸を撃ちます。(260-269頁)

    【 被災地の婦人が、九州から来た本部の青年職員に対し「あなたはこの惨状を目に焼き付けておいてください。そして、このなかで、私たちが何をし、どうやって復興し、五年後、十年後にどうなっていったかを、しっかりと見届け、歴史の証言者になっていってください」 自ら歴史を創ろうとする人は、いかなる試練にもたじろぐことはない。苦境を舞台に、人生の壮大なドラマを創りあげていく。】(268頁)

  【立正なき安国は空転の迷宮に陥り、安国なき立正は、宗教のための宗教になる。われらは、立正安国の大道を力の限り突き進む。東北の同志は立正安国の法理に照らし、「結句は勝負を決せざらん外はこの災難止みがたかるべし」(御書998頁)との御文を噛み締め、広宣流布への決意を新たにするのであった。】(269頁)

  絶望のどん底に陥りがちだった東北の民衆の中で、敢然と立ち上がった学会員たち。その心の奥にはこうした決意が漲っていたのです。単に諦めの境地に沈まず、災難を完全に断ち切るための戦いへと前進するしかないとの思いは心底から尊いものと思います。この法則は「大災害の時代」と言われる今日、一段と輝きます。

●「随方毘尼」と原理主義、教条主義

 このあと、伸一は青森へと移動して、秋田との合同幹部会などを開き、会員との交流を深めていきます。そして1月20日には東京・渋谷の国際友好会館でオックスフォード大学のウィルソン社会学教授と会談します。そこでは、宗教が担うべき使命を語り合うと共に、創価学会への意見を聞く場ともなったのです。(304-322頁)

 この中で、伸一は「同教授が、宗教が原理主義、教条主義に陥ってしまうのを憂慮し、警鐘を発していたことに共感を覚えた」とあり、仏法における「随方毘尼」という視座の欠落の危険性を指摘しています。

 「随方毘尼」というのは、「仏法の本義に違わない限り、各地域の文化、風俗、習慣や時代の風習に随うべきだというもの」で、「社会、時代の違い、変化に対応することの大切さを示すだけでなく、文化などの差異をむしろ積極的に尊重していくことを教えている」。この考え方が排除されることによって、「自分たちと異なるものを、一方的に『悪』と断じて、差別、排斥していくことになる」とあります。(310頁)

 ここからの数頁は、日蓮仏法における宗教的信念に基づく開かれた議論の重要性と、排他性、非寛容とは全く違うことが細かく繰り返し語られていきます。日蓮大聖人の教えや生き方を硬直的に捉えてしまいがちな伝統的仏教、そしてそれを鵜呑みにしてしまう世論。これらとの闘いは長く続いています。

 と同時に、日蓮宗や日蓮正宗など日蓮大聖人の流れを汲む各宗派にあっても、同じ誤りを犯していることを深く考えねばなりません。「対話あってこそ、宗教は人間蘇生の光彩を放ちながら、民衆のなかに生き続ける」との記述を噛み締める必要があるのです。

●平和への最大の関門

 今から40年前の世界は東西冷戦の暗雲に覆われていました。伸一は、その事態を打開するため、ソ連、中国、米国などの各国首脳と平和を願う仏法者として積極的に会談を重ねて、意見交換を繰り返してきました。ここでの論及は今にも通じる重要な指摘です。(316-322頁)

  【人類は、往々にして紛糾する事態の解決策を武力に求めてきた。それが最も手っ取り早く有効な方法と考えられてきたからだ。しかし、武力の行使は、事態をますます泥沼化させ、怨念と憎悪を募らせたにすぎず、なんら問題の解決にはなり得なかった。(中略)  ひとたび紛争や戦争が起こり、報復が繰り返され、凄惨な殺戮が恒常化すると、ともすれば、対話によって平和の道をひらいていくことに無力さを感じ、あきらめと絶望を覚えてしまいがちである。実は、そこに平和への最大の関門がある】(319-320頁)

  ウクライナ戦争が始まって1年2ヶ月。まさに、人類は平和への道を開くことにあきらめと絶望を感じかけています。アジア太平洋戦争での日本の敗戦の直後に生まれた私など、人生の晩年期を迎え、ようやく世界が平和な方向に向かうのでは、と思い込んでいました。それだけに失望感は大きいものがあります。しかし、それにへこたれず、いま一度世界に対話のうねりを起こさねばと決意しています。(2023-4-19)

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【114】人間中心から自然中心へ──小説『新・人間革命』第29巻「力走」の章から考える/4-12

●環境問題を軸に「地方の時代」で提言

 1978年(昭和53年)11月18日に開かれた本部幹部会は、創立48周年の本部総会の意義も込められていました。昭和5年から「7年を一つの節」にして刻んできた「7つの鐘」の歴史も、翌年で鳴り終える(7×7=49年。5+49=54年)ことになり、大きな意味がありました。総会の席上、伸一は今や人類的課題となった「環境問題」を中心に「地方の時代」などについて提言を行うことを予告。翌日付けの聖教新聞に発表されたのです。(123-130頁)

    そこでは、日本の近代は「消費文明化、都市偏重」によって「過密・過疎や環境破壊が進み」、「地方の伝統文化が表面的、画一的な中央文化に従属させられてきた」との認識のもと、創価学会の役割として、「一人ひとりが地域に深く信頼の根を下ろす」なかで、「地道な精神の開拓作業」をすることによってしか「真実の地域の復興もあり得ない」と訴えていました。

 また、環境問題については、西洋近代の「人間中心主義」が公害の蔓延に見るように既に破綻しており、「東洋の発想である自然中心の共和主義、調和主義へと代わらなければ、抜本的な解決は図れない」と捉えた上で、「〝内なる破壊〟が〝外なる破壊〟と緊密に繋がっているとすれば、〝内なる調和〟が〝外なる調和〟を呼んでいくこともまた必然である」と、人間の内なる変革、人間革命の必要性を結論づけていました。

 「環境問題」は、21世紀に入って一段とその重要性が語られてきており、2030年までに、差別、人権、貧困などの諸課題と共に、SDGS(持続可能な開発目標)の旗印のもとに、根本的な解決が目指されています。しかし、現実はコロナ禍で世界の相互依存、相互扶助が求められているにもかかわらず、ウクライナ戦争で世界各国は幾重にも分断状況が深まるばかりで、事態は混迷の度を増し続けています。さてこの時に人類はどう対応するのか。私は創価学会SGIによる人間変革の一大潮流を世界中に巻き起こすしかないと思うのですが。

●怨嫉についての深い考察

    伸一は各地での懇談で、信心をする中での種々の課題について語っています。そのうち、この年12月1日に三重県名張市で行われたドライブインでの懇談は「怨嫉」がテーマとなったとても印象深いものと思います。

 「実は怨嫉を生む根本には、せっかく信心をしていながら、我が身が宝塔であり、仏であることが信じられず、心の外に幸福を追っているという、生命の迷いがある。そこに、魔が付け込むんです。皆さん一人ひとりが、燦然たる最高の仏です。かけがえのない大使命の人です。人と比べるのではなく、自分を大事にし、ありのままの自分を磨いていくことです。また、自分が仏であるように、周囲の人もかけがえのない仏です。だから、同志を最高に敬い、大事にするんです。それが、創価学会の団結の極意なんです」(161-162頁)

    「怨嫉」が原因で信心から遠ざかる人を私も沢山見てきました。人間関係を危うくする最大のトラブル因かもしれません。金銭、病気などよりもむしろ厄介なものともいえます。人と自分との比較、人間相互の比較──好きか嫌いかが根っこにあって、理性が狂わされるケースは数多あるのです。これらを乗り越えるには、「ともかく、題目を唱えていけば、自分が変わります。自分が変われば、環境も変わる」との原理に立つしかないと思われます。

 神も仏もあるものか──ひとは逆境に立たされ、自分の思い通りにことが運ばないと、このセリフを吐きがちです。ここでいう「神も仏も」は、「自力」でなく「他力」の象徴表現です。「自分自身が仏だ」との核心的境地に立てば、周りの環境を動かすことができるのです。神(諸天善神)は環境であり、仏は自分自身であることに、気付かないことに根本原因があります。神も仏も紛れもなく存在する、あるのです。

●高知での師弟愛

 伸一は三重から、高知に飛び、支部結成22周年の記念幹部会に出席します。この地には2年前に県長として東京から、日本橋育ちの島寺義憲が派遣されていました。赴任時に35歳だった彼を伸一は激励します。その時の言葉、高知への思いが印象深く迫ります。(173-229頁)

 「心の底から皆を尊敬し、周囲の人があの県長を応援しようと思ってくれるリーダーになるんだよ。もう一つ大事なことは、一人ひとりと繋がっていくことです。皆さんのお宅を、一軒一軒、徹底して回って、友人になるんだ」などと懇切丁寧に語っていきます。

 この島寺のモデルは東京中央区の草創期からの信心強盛な一家の次男。実は長男が私の職場の上司で、若き日様々な影響を受けました。三男が男子部で一緒に戦った仲でした。伸一との縁も深く絆も強い関係であることを念頭に読み進めると、師弟愛の奥深さが伝わってきます。(2023-4-12)

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【113】「南北問題」の懸念的中──小説『新・人間革命』第29巻「常楽」の章から考える/4-5

●「南北問題」をめぐるガルブレイス博士との対談

 【対話は、人間の最も優れた特性であり、それは人間性の発露である。語り合うことから、心の扉は開かれ、互いの理解が生まれ、友情のスクラムが広がる】──「常楽」の章はこの一節から始まり、アメリカの経済学者で『不確実性の時代』などの著者として知られるハーバード大学のJ・K・ガルブレイス博士との対話が展開されます。  1978年(昭和53年)10月10日のこと。会談に同席していた出版社の社長(講談社の野間省一氏)の「『南北問題」に日本は何をすべきか』との問いに対する2人の答えが注目されます。(16-24頁)

 博士は①富の一部を貧しい国に資本のかたちで供与する②農業による貢献を挙げ、「貧しい国の人びとが本当に必要としているものは何かを考えることです」とした上で、山本会長に意見を求めました。同会長は、博士の主張に賛意を示す一方、「経済次元の物質や技術の一方的な援助をし続けていくだけでは、国と国とが単なる利害関係になったり、援助を〝する国〟と〝される国〟という上下関係になったりすることが懸念されます」と述べ、「相互の信頼関係を築いていくことが不可欠です」と答えています。

 山本会長は、「忍耐強く10年、20年、50年と行う以外に永続的な信頼の道は開けない」と思うが故に、「人間対人間を基調とした教育・文化の恒久的な交流の必要性」をずっと訴え続けてきたと強調。博士もこれに賛同の意を表明したのです。

 この時から45年。山本会長の懸念した通り、残念ながら南北問題は収束せずに、益々、援助国=北と、被援助国=南の格差は広がりを見せています。その背景には相互の信頼関係が築かれないばかりか、更なる怨念が重なり、問題は深刻化する傾向にあります。今これは「グローバル・サウス」と呼ばれていますが、本質は同じです。諦めずに、同会長の指摘通り「人間を基調にした相互の信頼関係」を進めていくべく、公明党が与党として自民党にもっと強く働きかけて、現在の歪な世界経済の構造を改める努力を続けるしかないと思われます。

●御本尊謹刻問題での謀略

 この頃、日蓮正宗の僧侶が学会批判を繰り返していました。伸一は、日蓮大聖人御在世の弘安2年(1279年)に起こった「熱原の法難」の歴史を振り返りつつ、「殉教」について思索を巡らせていきます。天台宗寺院の弾圧によって犠牲者が出た問題から、1978年当時の宗門による種々の難詰事件へと焦点は移動していきますが、現代の信仰を考える上で極めて重要な糸口になります。

 きっかけは、学会のご本尊謹刻問題でした。紙幅のご本尊を板御本尊にするという過去から行われてきたことについて、若手の僧侶が騒ぎ出し、謝罪要求を強く責めてきたのです。この背後には弁護士の山脇友政と宗門の悪僧との結託による謀略があったのです。

 学会は、総本山の大講堂で行われた代表幹部会の場で、争う姿勢を取らず僧俗和合の観点から宗門の要求に応じることにしました。伸一は不本意ではありましたが、自分が耐え忍ぶことで会員同志を守れるならばと、卑劣な僧侶の攻撃にピリオドを打つべく、次のように呼びかけました。

 「広宣流布は、万年への遠征であります。これからが、二十一世紀へ向けての本舞台と展望いたします。どうか同志の皆さんは、美しき信心と信心のスクラムを組んで、広々とした大海のような境涯で進んでいっていただきたい」(78頁)

   広宣流布とは流れそのものと頭では思っていても、現実には私はゴールを常に意識していました。「万年への遠征」「大海のような境涯で」との言葉に覚醒する思いを抱いたものです。

 ●加古川から姫路への〝激励行〟の余韻

 伸一は11月5日に落成したしたばかりの泉州文化会館での様々な激励指導を終えて、13日には兵庫の加古川文化会館、14日には姫路文化会館結成18周年記念勤行会に出席します。

 そこでは「これからは兵庫県が大事だ。兵庫が強くなれば、それに啓発されて大阪も強くなる。両者が切磋琢磨し合っていくならば、それが関西の牽引力になり、日本、世界の一大牽引力となる。また兵庫県を強くするには、これまで、あまり光の当たらなかった加古川などを強化していくことだ。それが、永遠なる常勝の王者・関西を築くポイントです」「あの姫路城のごとく、堂々たる信念の仏法者であってください!」と力説しました。(120-121頁)

 私が生まれ故郷の姫路に戻ったのは、1989年の暮れ。この訪問の時から10年余りが経っていました。播磨地域のどこへ行っても、この時の山本会長の〝激励行〟の余韻が強く残っていたことを明確に思い出します。さらに25年ほどが経った今、関西の中で、兵庫の占める位置がひときわ大きくなり、大阪との連携が一段と強まる一大牽引力となっていることを実感します。(2023-4-5)

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