Monthly Archives: 6月 2023

【124】「魂の独立」からの出発━━小説『新・人間革命』第30巻下「誓願」の章から考える❷/6-17

●「魂の独立」後初の平和旅を終え、沖縄で

 伸一は、1992年(平成4年)「創価ルネサンスの年」の1月末に、アジア訪問へと旅立ちます。〝東西冷戦が終結した今こそ、世界に平和の橋を!〟との思いで、タイ、インドを訪れ、香港を経由して2月末には沖縄に向かいました。そこでは、第一回SGI アジア総会が3日間、恩納村の沖縄研修道場で開かれました。その際に、信仰の根本、一念の転換について以下のように語りました。(339-340頁)

 「信仰のことで、いたずらに、〝とらわれた心〟になって、窮屈に自分を縛る必要は全くありません。また、気持ちを重くさせ、喜びが失せてしまうような指導をしてもならない。勤行・唱題も、やった分だけ、自分の得になる。かといって、やらなければ〝罰〟が出るなどということはありません。それでは、初めから信仰しない人の方がよいことにさえなってしまう。

 妙法への信心の『心』に、一遍の唱題に、無量の功徳があると大聖人は仰せです──そう確信し、自ら勇んで、伸び伸びと、喜びの心をもって仏道修行に励んでいく一念によって、いよいよ境涯は限りなく開け、福運を積んでいくことができるんです。信心は、決して義務ではない。自身の最高の権利です。この微妙な一念の転換に信心の要諦がある」

 やがて信仰生活60年を迎えようとする私が、ここで語られた「信心の要諦」ほど大事に思えることはありません。一般的には、信心を──日々の唱題から活動に至るまで──すべて義務的に捉えてしまいがちです。それでは、人間として〝最高の自由を謳歌できる〟はずの信仰生活が、窮屈さに縛られてしまいます。ここに込められた深い意味が分かり、信心とは自分の持つ権利の行使だと皆が捉えることこそが最大に望まれるのです。

●パークス女史やアタイデ氏らとの会談

 翌1993年(平成5年)1月下旬から伸一は、北・南米 を訪問し、対話の輪を広げていきます。アメリカカリフォルニア州にあるクレアモント・マッケナ大学で「新しき統合原理を求めて」と題する特別講演を行ったあと、創価大学ロサンゼルス分校では〝人権の母〟ローザ・パークスと会談。また、2月には、コロンビアからブラジルに飛び、ブラジル文学アカデミーのアウストレジェジロ・デ・アタイデ総裁と会談をします。

 アフリカ系アメリカ人のパークス女史は、1955年(昭和30年)に、バスの座席まで差別されることに毅然と抗議。後にこれがバス・ボイコット運動の起点となったことで知られています。この時の伸一との会談で、同女史は『写真は語る』に掲載される一葉の写真に、伸一とのツーショットを選びたいと申し出ます。(350-351頁)

 後日届けられた本には「この写真は未来について語っています。わが人生において、これ以上、重要な瞬間を考えることはできません」。そして、文化の相違があっても、人間は共に進むことができ、この出会いは、「世界平和のための新たな一歩です」と書かれていました。「人権運動の母」の優しく美しい笑顔と共に。

 一方、伸一とアタイデ総裁との出会いでは、同総裁は「私は、94年間も会長を待っていた。待ち続けていたんです」と述べ、「会長は、この世紀を決定づけた人です。力を合わせ、人類の歴史を変えましょう!」と呼びかけました。それに対して、伸一は「総裁は同志です!友人です!総裁こそ、世界の〝宝〟の方です」と。

 私たちは世界の知性を代表する著名な人物が伸一を慕う実例をあまた知っています。そのことの凄さ、尊さを自分たち自身の人生の交流の中で、友人たちに語っていかねば、と心底から思うのです。

●2011-11-18の本部幹部会での獅子吼

 第30巻下の末尾には、2001年(平成13年)11月12日に開かれた、11-18「創価学会創立記念日」を祝賀する本部幹部会でのスピーチが胸にこだまします。(436頁)

 「どうか、青年部の諸君は、峻厳なる『創価三代の師弟の魂』を、断じて受け継いでいってもらいたい。その人こそ、『最終の勝利者』です。また、それこそが、創価学会が21世紀を勝ち抜いていく『根本の道』であり、広宣流布の大誓願を果たす道であり、世界平和創造の大道なんです。 頼んだよ!男子部、女子部、学生部! そして、世界中の青年部の皆さん!」

 この時から21年余。池田先生が築かれた壮大な広宣流布の軌跡、世界に構築された人材山脈は燦然と輝いています。20世紀のうちに全てを仕上げておくとの強い信念で、世界を駆けめぐってこられた深い意味が分かります。21世紀の地球は、あの「9-11」の米国の「同時多発テロ」以後、「ウクライナ戦争」に喘ぐ今に至るまで、まさに驚天動地の事件や歴史の逆転現象が相次いでいます。さて「どうする?」という、重要場面です。(完 2023-6-17)

※小説『新・人間革命』30巻全31冊を読み、どう考えるかについて、124回に渡り書いてきましたが、これにて終了します。長い間ご愛読いただき、感謝申し上げます。

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【123】「人間性社会主義」の体現━━小説『新・人間革命』第30巻下「誓願」の章から考える❶/6-14

●東西冷戦の終結への決断

 1982年(昭和57年)の創価学会は、全国各地での平和文化祭と、本格的な平和運動の展開を、二つの軸として活動を展開していきました。前者は、関西での青年平和文化祭(3月)を先駆けに、中部から全国へと広がり、後者は、国連本部での「現代世界の核の脅威展」(6月)の開催をピークに全国各地での「平和講座」開催や、「アジアの難民」救援募金の実施など、大きなうねりを示していきました。この章では、冒頭にこうした動きがまとめられています。そして、1983年(昭和58年)5月にSGIが国連経済社会理事会(ECOSOC)の、協議資格を持つNGOとして登録され、同年8月には、伸一に「国連平和賞」が贈られるのです。(209-239頁)

   ここから、記述のテンポが早まり、1984年から2001年までの17年間の歩みが凝縮して語られていきます。その中では、84年2月のブラジル、ペルー訪問、87年2月のドミニカ共和国、パナマ訪問などと共に、各国首脳との対話が進められていきます。ここで、ひときわ注目されるのが、第五次訪ソ(1990年7月)でのゴルバチョフ大統領との会談、同年10月のアフリカ民族会議のマンデラ副議長との会見です。

 ゴルバチョフ大統領と伸一との出会いは、のちに対談本『20世紀の精神の教訓』へと結実していきますが、その冒頭を飾るシーンは感動的です。(254-256頁)

 「会長は、ヒューマニズムの価値観と理想を高く掲げて、人類に大きな貢献をしておられる。私は深い敬意をいだいております。会長の理念は、私にとって、大変に親密なものです。会長の哲学的側面に深い関心を寄せています。ペレストロイカ(改革)の『新思考』も、会長の哲学の樹の一つの枝のようなものです」

「私もペレストロイカと新思考の支持者です。私の考えと多大な共通性があります。また、あるのが当然なんです。私も大統領も、ともに『人間』を見つめているからです。人間は人間です、共通なんです。私は哲人政治家の大統領に大きな期待を寄せています」

 伸一は東西冷戦の終結に果たしたゴルバチョフの役割について、【彼の決断と行動は、ソ連東欧に、自由と民主の新風を送り、人類史の転換点をつくった】と高く評価しています。そして、【新しき時代の地平を開くには、平和と民主と自由を希求してきた人びとの心を覆う、絶望を、シニシズム(冷笑主義)を、不信を拭い去らねばならない】(276-284頁)と強く戒めています。

 ゴルバチョフ氏の運命は波乱に富んだものでした。ソ連の最初の大統領を務めながらも、志半ばでその座を追われてしまいます。21世紀最初の20年は〝プーチンの逆襲〟による「歴史の逆転」に晒され、昨年、ウクライナ戦争の勃発の後に、深い憂いの中に死を迎えました。かつて伸一は「人間性社会主義」の理念を提唱しましたが、ゴルバチョフ氏こそその体現者だったように思われてなりません。

●宗門問題の決着

 第1次宗門事件の際に、会長を辞任した伸一は、〝もう一度、広宣流布の使命に生き抜く師弟の絆で結ばれた、強靭な創価学会を創ろう〟と行動します。「その中で後継の青年たちも見事に育ち、いかなる烈風にも微動だにしない、金剛不壊の師弟の絆で結ばれた、大創価城が築かれていった」のです。そして、その後も、伸一は一貫して、「僧俗和合への最大の努力を払い、宗門の外護に全面的に取り組んで」いきました。その結果、世界広布の潮流が広がっていくのですが、またも第2次宗門事件が起こります。そのピークとも言うべき出来事は、宗門からの創価学会への「解散勧告書」であり、「破門通告書」(11月28日付け)の送付でした。

 これに対して、「創価ルネサンス大勝利記念幹部会」の席上、伸一は「11月28日は、歴史の日となった。『十一月』は学会創立の月であり、『二十八日』は、ご承知の通り、法華経二十八品の『二十八』に通じる。期せずして、魂の〝独立記念日〟にふさわしい日付になったといえようか」と述べ(330頁)、以下のように結論づけています。

【振り返ってみれば、91年(平成3年)は、まさに激動の一年であったが、学会の「魂の独立」の年となり、新生・創価学会の誕生の年となった。そして、世界宗教への大いなる飛翔の年となったのである。今、人類の平和と幸福を創造しゆく大創価城は、厳とそそり立ったのだ。世界広宣流布の時代を迎え、「悪鬼入其身」と化した宗門は、魔性の正体を現し、自ら学会から離れていった。不思議なる時の到来であった。すべては御仏意であった】(335頁)

この年は、国際政治の上で、東西冷戦の決着となったソ連崩壊の年でもありました。東西冷戦の終結と宗門問題の経緯を対比させながらの約百頁の記述には、激動の時代を偉大な師と共に生き抜けた喜びを感じざるを得ません。(2023-6-14)

 

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【122】降りしきる雪の中での凱歌─小説『新・人間革命』第30巻下「勝ち鬨」の章から考える/6-5

●国連の活動への大いなる支援

 ソ連、欧州、北米への訪問から伸一が帰国して一週間ほど後に、会長の十条潔が心筋梗塞で他界しました。享年58歳。荒れ狂う宗門事件の激浪のなか、2年の会長職でした。十条は「(伸一にとり)広布の苦楽を分かち合った、信頼する〝戦友〟で」、「広宣流布に人生を捧げ抜き、自らの使命を果たし切って、この世の法戦の幕を閉じた」、海軍兵学校出身者らしい「桜花の散るような最期だった」と称えられています。そして、5代会長には、秋月英介が推挙されました。51歳。この人については、「冷静、沈着な秋月ならば、大発展した創価学会の中心軸として大いに力を発揮し、新しい時代に即応した、堅実な前進が期待できる」とあります。(60-62頁)

 北条浩、秋谷栄之助━━この2人の会長には言い尽くせぬ個人的思い出があります。北条会長には職員として、秋谷会長には議員の立場で、池田門下生かくあるべし、を教えていただきました。深く感謝しています。

 伸一は、8月17日には明石康国連事務次長とも会談しています。この人と伸一とは18回も会談を重ねることになったと、さりげなく書かれています。伸一が世界平和に向けて国連をどんなに重く考えていたかが分かります。創価学会は、国連と協力して「現代世界の核の脅威」展、「戦争と平和展」「現代世界の人権」展などを世界各地で開催。この後、1992年(平成4年)には、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の事務総長特別代表になっていた明石氏からの要請で、学会青年部は、28万台を越える中古ラジオの寄贈に貢献しました。

 内戦に苦しんだカンボジアへの国連平和維持活動(PKO)については、公明党が懸命の努力を続け、憲法の縛りを曲解した当時の一部の政党の理不尽な非難にもめげずに、成功裡に終えることができました。その背後にはこうした学会の大変な努力の賜物があったのです。当時、私自身は議員になる前夜、落選中のことでもあり、大いに気になりながら、いかんともし難く、遠くから悔しい思いで眺めていたことを記憶しています。

●四国での『紅の歌』と大分での『21世紀の広布の山を登れ』の作成

 反転攻勢━━宗門の理不尽極まる弾圧に、全国各地の学会員は苦しい戦いを強いられてきましたが、遂に立ち上がる時がきました。名誉会長になった伸一は、まず四国4県の同志と共に、続いて九州・大分県に飛び、苦労を重ねた会員への激励に渾身の力を注いでいくのです。その戦いの突破口は、学会歌『紅の歌』と、詩『青年よ21世紀の広布の山を登れ』の作成を通して、伸一と青年部との絆が結ばれていく共戦からでした。

 「広布のため、学会のために、いわれなき中傷を浴び、悔しい思いをしたことは、すべてが永遠の福運となっていきます。低次元の言動に惑わされることなく、仏法の法理のままに、無上道の人生を生き抜いていこうではありませんか!」弾けるように大きな拍手が轟く。徳島も、香川も、愛媛も、高知も立った。四国は反転攻勢の魁となったのである。(87頁)

    「我が門下の青年よ、生きて生きて生き抜くのだ。絶対不滅にして永遠の大法のために。また、この世に生を受けた尊き自己自身の使命のために」(120頁)

   『紅の歌』と詩『青年よ21世紀の広布の山を登れ』が作られていく背景にあって重要な役割を果たしたのは、四国青年部長の大和田興光と、大分出身の副男子部長・村田康治の2人です。このモデルになったのは、かつて中野区で私も共に戦った先輩でした。かつての雄姿を思い起こしながら、2人に遅れじと心に期しました。

●雪の中の秋田指導の写真

 1982年(昭和57年)1月10日。伸一は真冬の秋田に、約10年ぶりの指導に赴きます。正信会僧から激しい迫害を受けた「西の大分」「東の秋田」と言われた地域であったからです。

 秋田での県代表者会議の席上、伸一は数々の言葉を残しますが、信仰者の生き方について言及し、結論として次のように語っています。(182頁)

 「歪んだ眼には、すべて歪んで映る。嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、学会の真実を映し出すことはできない。ゆえにかれらは、学会を誹謗呼ばわりしてきたんです。悪に憎まれることは、正義の証です」(182頁)

 この秋田指導の最大のイベントとなったのは、1月13日に、氷点下2度を越す雪の中の大広場で、1500人の同志が伸一のもとに集まり、秋田大勝利の宣言として、『人間革命の歌』を大合唱したことでした。さらに、勝ち鬨を降りしきる雪の中で轟かせたのです。この場面は、高所作業車バケットからの聖教新聞カメラマンの手で写され、翌日1面を大きく飾りました。

 その写真には、私が高等部幹部として東北を担当した頃の高校生も秋田県女子部長と大きく成長した姿で写っていたのが確認できたのです。(2023-6-5)

 

 

 

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