【122】降りしきる雪の中での凱歌─小説『新・人間革命』第30巻下「勝ち鬨」の章から考える/6-5

●国連の活動への大いなる支援

 ソ連、欧州、北米への訪問から伸一が帰国して一週間ほど後に、会長の十条潔が心筋梗塞で他界しました。享年58歳。荒れ狂う宗門事件の激浪のなか、2年の会長職でした。十条は「(伸一にとり)広布の苦楽を分かち合った、信頼する〝戦友〟で」、「広宣流布に人生を捧げ抜き、自らの使命を果たし切って、この世の法戦の幕を閉じた」、海軍兵学校出身者らしい「桜花の散るような最期だった」と称えられています。そして、5代会長には、秋月英介が推挙されました。51歳。この人については、「冷静、沈着な秋月ならば、大発展した創価学会の中心軸として大いに力を発揮し、新しい時代に即応した、堅実な前進が期待できる」とあります。(60-62頁)

 北条浩、秋谷栄之助━━この2人の会長には言い尽くせぬ個人的思い出があります。北条会長には職員として、秋谷会長には議員の立場で、池田門下生かくあるべし、を教えていただきました。深く感謝しています。

 伸一は、8月17日には明石康国連事務次長とも会談しています。この人と伸一とは18回も会談を重ねることになったと、さりげなく書かれています。伸一が世界平和に向けて国連をどんなに重く考えていたかが分かります。創価学会は、国連と協力して「現代世界の核の脅威」展、「戦争と平和展」「現代世界の人権」展などを世界各地で開催。この後、1992年(平成4年)には、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の事務総長特別代表になっていた明石氏からの要請で、学会青年部は、28万台を越える中古ラジオの寄贈に貢献しました。

 内戦に苦しんだカンボジアへの国連平和維持活動(PKO)については、公明党が懸命の努力を続け、憲法の縛りを曲解した当時の一部の政党の理不尽な非難にもめげずに、成功裡に終えることができました。その背後にはこうした学会の大変な努力の賜物があったのです。当時、私自身は議員になる前夜、落選中のことでもあり、大いに気になりながら、いかんともし難く、遠くから悔しい思いで眺めていたことを記憶しています。

●四国での『紅の歌』と大分での『21世紀の広布の山を登れ』の作成

 反転攻勢━━宗門の理不尽極まる弾圧に、全国各地の学会員は苦しい戦いを強いられてきましたが、遂に立ち上がる時がきました。名誉会長になった伸一は、まず四国4県の同志と共に、続いて九州・大分県に飛び、苦労を重ねた会員への激励に渾身の力を注いでいくのです。その戦いの突破口は、学会歌『紅の歌』と、詩『青年よ21世紀の広布の山を登れ』の作成を通して、伸一と青年部との絆が結ばれていく共戦からでした。

 「広布のため、学会のために、いわれなき中傷を浴び、悔しい思いをしたことは、すべてが永遠の福運となっていきます。低次元の言動に惑わされることなく、仏法の法理のままに、無上道の人生を生き抜いていこうではありませんか!」弾けるように大きな拍手が轟く。徳島も、香川も、愛媛も、高知も立った。四国は反転攻勢の魁となったのである。(87頁)

    「我が門下の青年よ、生きて生きて生き抜くのだ。絶対不滅にして永遠の大法のために。また、この世に生を受けた尊き自己自身の使命のために」(120頁)

   『紅の歌』と詩『青年よ21世紀の広布の山を登れ』が作られていく背景にあって重要な役割を果たしたのは、四国青年部長の大和田興光と、大分出身の副男子部長・村田康治の2人です。このモデルになったのは、かつて中野区で私も共に戦った先輩でした。かつての雄姿を思い起こしながら、2人に遅れじと心に期しました。

●雪の中の秋田指導の写真

 1982年(昭和57年)1月10日。伸一は真冬の秋田に、約10年ぶりの指導に赴きます。正信会僧から激しい迫害を受けた「西の大分」「東の秋田」と言われた地域であったからです。

 秋田での県代表者会議の席上、伸一は数々の言葉を残しますが、信仰者の生き方について言及し、結論として次のように語っています。(182頁)

 「歪んだ眼には、すべて歪んで映る。嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、学会の真実を映し出すことはできない。ゆえにかれらは、学会を誹謗呼ばわりしてきたんです。悪に憎まれることは、正義の証です」(182頁)

 この秋田指導の最大のイベントとなったのは、1月13日に、氷点下2度を越す雪の中の大広場で、1500人の同志が伸一のもとに集まり、秋田大勝利の宣言として、『人間革命の歌』を大合唱したことでした。さらに、勝ち鬨を降りしきる雪の中で轟かせたのです。この場面は、高所作業車バケットからの聖教新聞カメラマンの手で写され、翌日1面を大きく飾りました。

 その写真には、私が高等部幹部として東北を担当した頃の高校生も秋田県女子部長と大きく成長した姿で写っていたのが確認できたのです。(2023-6-5)

 

 

 

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