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【42】〝臆病の岬〟の先を見据えてー小説『新・人間革命』第10巻「新航路」から考える/12-1

●西ドイツの炭坑で働きながら広布に活躍する青年たち

 1965年(昭和20年)10月19日、伸一はフランス、西ドイツ、イタリア、ポルトガルの4カ国に向かいます。この旅の目的は、文化交流を推進することで、民衆の心と心の結合による平和の礎を築くことでした。その前に、北海道、神奈川から10人の青年が、炭鉱で働きながらドイツ広布に人生をかけて闘うことに至る話が感動的に語られます。(227-272頁)

  世界広布に立ち向かう人々の戦いはこの小説の中で数々登場しますが、最も印象に残るのがこの炭坑夫たちのエピソードです。美しい満月の夜に夫が妻に「あのお月様は、日本のお母さんも見ているお月様だ。だから、雪子は、独りぼっちじゃないんだよ」と、炭坑夫として必死に頑張る仲間たちとの絆を語る場面は涙なしに読めないところです。「なかなか会えないが、ぼくの心はわかってくれるね」との夫の言葉に、妻は「黙って頷いた。その目に涙がひかり、やがて声をあげて泣き始めた」。「広布に生きる、温かい、夫の心に包まれている嬉しさに雪子は泣いたのである」と。(254頁)

   伸一はこのくだりの後に、「妙法広布のためにはいかなる苦労も引き受けようと決意し、青年たちが西ドイツに渡った瞬間に、既にドイツの広宣流布の大前進は決定づけられた」と述べています。「今の一念に、いっさいの結果が収まっている」との「因果倶時」の原理を知るにつけ、その確信を深めます。日本の私たちも様々な地域の広布を任され、その責任を担っています。一ブロックの担当であろうと、一行政区の議員であろうと、その原理は同じでしょう。愚痴や文句を言わずに頑張ろうと決意を新たにするばかりです。

   ●スカラ座招聘への民音責任者の懸命の祈り

 次に一行はイタリアのミラノに飛び、スカラ座の日本招聘に向けての交渉に当たっていきます。難しい交渉の成功に向けて担当した秋月青年部長の戦いへの伸一のまなざしが注目されます。前進の報告を受けて、伸一は「そうか。それはよかった。秋月君の一念だね」との言葉のあと、「秋月は、音楽・芸術の国際交流という民音の使命を果たすために、スカラ座の招聘が実現することを、ひたすら祈り、唱題し続けてきた」と述べられています。交渉の成就に向けて一念を込めた祈りの重要性がひしひしと伝わってきます。

 重要なことは勿論、些細なことであっても自身の責任に関わることには、ひたぶるな祈りを持って、事にあたろう。それを自ら身で示し、いつも教えてくれた尊敬してやまない私の今は亡き大先輩の言葉と姿が、耳と目に甦ってきます。

 「音楽・芸術には、国家や民族の違いを超えて、相互理解を深め、民衆と民衆の心を結ぶ力がある。音楽・芸術をもって、世界中の人々の心を結ぶことが、私の願いである」(281頁)ー我らが師匠・池田先生の凄さの一つはこの言葉に表れています。音楽・芸術の持つ力を知っている人は幾らでもいますが、皆観念にとどまっており、現実にそれを可能にすべく尽力してきた人は極めて稀なのです。

●エンリケ航海王子と「新航路」を開く勇気

 さらに一行はポルトガル・リスボンへ赴きます。世界史における大航海時代の覇者であるこの国について、戸田先生が「ポルトガル人の勇気は大したものだ」と讃えられたことを紹介した後、エンリケ航海王子の戦いについて具体的に語られていきます。(282-291頁)

   「ポルトガルの歴史は、臆病では、前進も勝利もないことを教えている。大聖人が『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』(御書1282頁)と仰せのように、広宣流布も臆病では絶対にできない。広布の新航路を開くのは、勇気だ。自身の心の〝臆病の岬〟を越えることだ」(290頁)

   「我事において後悔をせず」とは宮本武蔵の残した『独行道』21か条の中に出てくる名言ですが、常々自分に言い聞かせてきました。これについて小林秀雄は名著『人生について』で、「後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである」などと解説しています。

 臆病と後悔ーたびたび〝臆病の岬〟を越えられず、後悔したことがありますが、これからはそれを忘れて、ひたすら岬の向こうを見据えて、自分をごまかさず生きようと思っています。(2021-12-12 一部最修正)

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【41】異国の地で骨を埋めるー小説『新・人間革命』第10巻「幸風」の章から考える/11-24

●アメリカ広布にかける心意気

 1965年(昭和40年)8月14日から25日まで、伸一はアメリカ、メキシコ訪問の旅をします。ここでは、黒人の公民権運動やエチワンダ寺院の起工式などが描かれています。私が注目したのは、学会本部の職員の中で、初めて海外に派遣されることになった青年について書かれているくだりです。伸一は以下のように、彼に言います。(118-120頁)

  「ひとたび行く限りは、何年かしたら日本に帰ろうなどと考えるのではなく、同志に仕え、広布のために、アメリカに骨を埋める決意で行ってもらいたい。そうでないと、愚痴や文句が出たり、何かというと、〝日本に帰りたい〟と漏らすようになる。(中略) そうなれば、広宣流布のリーダーとしても職員としても失格です」(119頁)

 本部職員や聖教新聞の記者たちが、このような指導を受けて世界各地に飛び立つ様子を見聞きするたびに、キリスト教の宣教師たちのことを連想しました。日本の戦国時代前後に、ポルトガルやスペインから、日本にも布教にやってきました。史実として知るにつけ、使命感の重大さと布教の困難さに思いが至ります。現代にあっては、キリスト教を凌駕する勢いで、日蓮仏法の布教は世界で進んでいますが、原点を自覚するばかりです。

   今いるところではなく、どこか他のところに素晴らしき新天地があると思いがちなのが普通の人間でしょう。「足下を掘れ、そこに泉あり」(ニーチェ)との名言があります。まずは今いるところでいい仕事をし、足跡を残そうとの心がけが大事だと思われます。

●メキシコと戸田先生の夢

 一行は、カリフォルニア・ロサンゼルスからメキシコへと向かいます。この地は、恩師戸田城聖先生が「夢に見、訪問を念願した国」です。メキシコに戸田先生がことのほか関心を持っていたのはなぜでしょうか。「ラテンアメリカで最初の日本人の組織的な移住が行われたのがメキシコであったからかもしれない」とされています。師の強い関心の後を追いつつ、伸一はこの地の隅々にまでに新たな幸風を巻き起こしていきます。(144-177頁)

  イワダテ支部長がメキシコ在住40年になったことについて、最初は1-2年のつもりだったのが、「大好きになったから」と経緯を語ったのです。これに対して、伸一の次の言葉が印象深く残ります。「自分のいるところが好きにならなければ、そこで使命を果たし抜いていくことはできません。(中略)  自分が、そこを好きになれる〝良さ〟を見つけることから、価値の創造は始まっていくといえます」(158頁)

   「好きこそものの上手なれ」とは物事の基本ですが、良さの発見→好きになる→打ち込む、というパターンが人間がこの社会で生き抜く上でのカギを握っていると思えます。

●生命の底にともされた火としての記念撮影

 メキシコから帰国したのちに、伸一は全国各地への激励に走りますが、その際に「記念撮影」を通じて、会員との絆を強固なものにしていきます。この時から約10年間北海道から沖縄の離島まで全国各地で、最前線の同志たちとの記念撮影会が行われていきます。

 「伸一は激務のために、何度か、体調を崩したが、走り続けた。最愛の同志とともに、カメラに納まり、刹那に永劫をとどめんと、励ましの言葉を贈らんと」「伸一は、同志の心の暖炉に、永遠なる『誓いの火』を、『歓喜の火』を、『勇気の火』を、断じて、ともさねばならない、と決意していたのだ」「石と石とがぶつかり合うなかで、火は生まれる。広宣流布の火もまた、人間の魂と霊の触発のなかからしか生まれないことを、伸一は熟知していた」(191頁)

   この伸一の深く重い言葉の数々は、池田先生との記念撮影の場に臨み、臨機応変、変幻自在に繰り出されるその激励を受けた人なら、手にとるように分かるに違いありません。私も本当に得難いことに、昭和43年4月26日の第一回慶大会の開催時を始め、勿体なくも中野兄弟会、新宿兄弟会、伸一会など幾度となく、その座に連ねさせていただきました。今その幾葉もの写真を見るにつけ、師の魂によって、我が鈍感な命にも、誓いと歓喜と勇気の火が燃え上がったあの日、あの時の感激が、ありありと浮かんできます。

 その後、高等部や男子部幹部として、高校生、後輩を激励したりする時や、選挙に出た際にも選挙区内の各地の拠点で、支援者皆さんと、出来るだけカメラに収まりました。池田先生にしていただいたことの百万分の一でも真似ようと、絆を深める試みに挑みました。(2021-11-24)

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【40】映像、色彩を浮かばせる文章ー小説『新・人間革命』第10巻「言論城」から考える/11-17

●同志の死にたいする疑問を打ち破る激励

 1965年(昭和40年)は、小説『人間革命』の聖教新聞連載開始と共に幕をあけました。また、雑誌『言論』に『若き日の日記』の連載も始まることになりました。会長・山本伸一は全精魂を傾けてのメンバーへの激励と同時に、この年冒頭から怒涛の勢いで言論戦を展開していきます。

 その年の活動の始まる矢先に、二人の同志の死について触れられます。一人は、青年部の最高幹部を歴任した理事、もう一人は、鳥取県・米子市の支部長です。前者(49歳)は癌という病、後者(42歳)は、交通事故によるものでした。伸一の、遺された家族と、支部員たちへの渾身の激励が胸に強く迫ってきます。(16-35頁)

   「お父さんの一番の喜びは、君が広宣流布の指導者として、立派になっていくことだ。だから、一生涯、広布の使命に生き抜いていくんだよ」「生命は永遠です。ご主人は、すぐにまた生まれてきますよ。それを確信していくことです」「生命の深い因果というものは、宿命というものは、まことに厳しい。それゆえに、信心をしていても、さまざまな死があります。(中略) しかし、信心の眼をもって見るならば、そこには、深い、深い意味がある」「人は、生まれる時も、死んでいく時も一人である。三世にわたって自分を守ることができる力は妙法しかありません」

 私もこれまでの人生で、父と母、義父と実弟と嬰児の家族5人を亡くし、数限りないほどの友人、知人、同志を見送ってきました。抱いた思いもそれこそ千差万別ですが、上記のような激励を口にし、自身もその確信を深めてきました。人は例外なく死にます。生と死を、〝対立的次元〟で捉えると、死で終わることは最初から人生は悲劇と決まっています。そうではなくて、〝同一的次元〟で「生死不二」と捉えないといけません。「生も歓喜、死も歓喜」との名言を確信して、〝涙と笑いの悲喜劇〟を堂々と演じ切ることだと思います。

●聖教新聞の日刊化をめぐって

 新聞は毎日だされるものと、誰しも思うでしょうが、かつては違いました。聖教新聞も週三回の発刊という時代があったのです。昭和40年7月15日にそれが日刊化します。ここでは、その辺りの苦労談が描かれていきます。「聖教新聞がどうなっていくかは、諸君の双肩にかかっている。いっさいは人間で決まっていくものだ」と伸一は、聖教新聞の記者たちを前に語ります。(49-78頁)

 「自分の心に忍び寄る惰性と、挑戦を忘れた、あきらめの心であり、怠惰」が聖教新聞の発展を妨げる敵だとする伸一は、記者一人ひとりの人間が、「常に新鮮味溢れる自分自身となり、知性と勇敢なる人格をもった記者」たることを強調しています。(62頁)

  この時の懇談場に連なり、心構えから、様々な新聞作りのノウハウまでを池田先生から直接教わった先輩に、私も新聞制作のイロハを叩き込まれました。「君たち一人ひとりの人間の持つ力が、その日の新聞に表れる、それ以上でも以下でもない」、と。日に日に新たな自分になっていかない限り、人様に読んで貰える記事は書けないことを知りました。難しいことだけれど、それが新聞記者というものだ、と自覚したしだいです。

 伸一が展開している新聞評はまことに見事です。文章の書き出しで、どう人の心をつかむかについて、名言引用、結論の先だしなど、意表をつく、斬新な入り方の研究を提起しています。さらに、割り付け、文章論、写真論などについても。なかでも体験談の書き方で動作を描くことの重要性を具体的実例で示しているのは興味深いです。「悲しくて泣いた」との表現でなく、「泥にまみれた拳で、溢れる涙を拭った」とすると、映像も色彩も浮かんでくる、と。まるで、人気TV番組『プレバト』の俳句の先生を思い出しました。

 ●政治改革の原点としての東京都議選

 この年の7月に、予め予定されていた参院選に加えて、急きょ都議選が行われました。実は4月に都議会自民党において、議長選挙をめぐって、現職議長が贈賄容疑で逮捕されたのです。これに端を発し、議員から逮捕者が続出。それに対して都議会公明党が議会解散へのリコール運動を起こしたのです。その一部始終が語られていきます。(78-89頁)

 「最初、公明党が、党として総辞職を決めた時、皆心で喝采を送った。他党の議員が、解散し、選挙することを恐れ、自分のポストを守ることに汲々としている時に、ためらうことなく解散を主張し、都議会の信頼回復を第一義とした姿勢に、共感したのである」

 公明党なら、政治浄化、政治改革ができるとの生きた実例に全国の学会員は、感動したのです。そして清潔な党・公明党のイメージが世に定着する初デビューともなりました。あれから56年。断じて初心忘れるな、と党にも自分にも言い聞かせています。(2021-11-17)

 

 

 

 

 

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【39】公明党誕生とその時代ー小説『新・人間革命』第9巻「衆望」の章から考える/11-10

●1964東京オリンピックとその時代

 1964年(昭和39年)10月には、東京で初めてオリンピックが開かれました。ここでは様々な各国選手の活躍を追っています。当時、大学受験生だった私には懐かしい場面が蘇ってきます。それと共に、この時代背景が鮮やかに分析されているのです。(316-334頁)

  ここでは、フランス人ジャーナリストのロベール・ギランが、西欧で当時の日本の復興が「日本の奇蹟」と呼ばれたことについて、「民衆の不屈の勇気」が成功を築き上げたと、評価したことが紹介されています。著者はその点を踏まえて、「民衆の自主的な勤勉さ、向上への努力こそ、日本の復興の原動力であった」と捉え、「日本の経済成長は、創価学会が大発展しゆく時期と、符合している」と分析されています。(333頁)

   戦後日本の経済復興の目覚ましさについて、政権の経済運営の巧みさやら、単に日本人の勤勉さがもたらしたものと捉えられがちです。しかし、現実には、伝統的な日本人の美徳である「勤勉や努力」は戦後の荒廃の中で、次第に薄れていった時期であり、「資本家対労働者」という対立意識が色濃く、「労働者の勤労意欲も低下しがち」でした。

 ところが、当時500万世帯に達していた創価学会員は全国各地で「自分の仕事を通して、社会に貢献しよう、人格を磨こう、職場の勝利者になろう、と自ら懸命に働いた」のです。「仏法者としての誇りと信念と哲学が勤労の原動力」だとして、社会状況を大きく変えていったと見ることができます。このあたりの捉え方は、社会学の研究分析もまだまだ及んでいないようで、一般的には定着しているように見られないのは残念なことです。

 今年、57年ぶりに2回目の東京五輪が開かれました。コロナ禍中の開催ということで、二つの大会の背後の社会情勢を単純には比較できませんが、戦後の経済復興に貢献した草創期の先輩たちのエネルギーに負けない我々なのかどうか。自省する必要がありそうです。

●公明党誕生への深い思い

 この年11月17日。公明政治連盟(公政連)が発展的に解消し、公明党が誕生します。それまでの参議院議員主体から衆議院への進出が明確になります。生みの親としての著者は、その背景を詳しく書き起こしています。その必要性として、①日本の政治家における指導理念の欠落②腐敗と敢然と戦う清潔な党の出現③真実の大衆政党がないーの三つが挙げられています。「多様な大衆に深く根を下ろし、大衆の味方となり、仏法の慈悲の精神を政治に反映させゆく政党が今こそ躍り出るべきであろう。それが衆望」であると。(361頁)

   出発に際して「日本の柱 公明党」と、「大衆福祉の公明党」がスローガンとして掲げられました。「社会保障の不備、重い税負担、低い賃金‥‥。6、7人の家族が、一間のアパートで折り重なるようにして寝ている一家もあった。病気になっても、病院に行けない人もいた」ーこうした状況を前に、大衆福祉の確立こそ、大衆と共に語り、戦ってきた議員たちの「信念の叫び」だったと、語られている場面には胸揺さぶられます。(364頁)

    この数ヶ月後に、大学に入学すると共に、創価学会員、公明党員になった私は、まさに、学問を学ぶ中で、政治のあるべき姿と現実との乖離を実感していくのです。結党の日に上梓された『政治と宗教』が出版されるやいなや、読みふけったことを思い出します。「政治は大地に育つ千草万木のごとく変化の世界であり、相対的な世界である。宗教は大地のごとく政治・経済・教育等のあらゆる文化の本源であり、永久不変の哲理である。偉大なる宗教、偉大なる哲学のない政治は根無し草であり、権力の争奪、民衆の不幸を繰り返すのみである」(378頁)  大きな感動の中で日蓮仏法を実践することを誓ったものです。

 今、公明党結党57年を直前にして、我が胸を去来するものは多く、身が縮む思いです。原点に立ち返り、もう一度、「大衆と共に」語り、戦わねば、と。

   ●沖縄での小説『人間革命』執筆

 翌12月の1日、伸一は4度目の沖縄訪問に旅立ちます。そこで小説『人間革命』の執筆に着手することを深く心に期していたのです。「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命転換をも可能にする」ーこのテーマを描きゆくのは、「最も戦争の辛酸を舐め、人びとが苦悩してきた天地」である沖縄をおいて他にない、と。(386頁)

  文章は書き出しによって決まる、とは幾たびも聞いてきたフレーズですが、伸一のこの時の呻吟する様子は心底、胸を撃ちます。3頁にわたりその有様が綴られています。そして「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた‥‥」と、壮大な幕開けに繋がっていくのです。(2021-11-10)

 

 

 

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【38】社会主義と人間ー小説『新・人間革命』第9巻「光彩」の章から考える/11-5

●「一家和楽の信心」の重要性

 1964年(昭和39年)10月2日、伸一は東南アジア、中東、欧州への訪問に出発します。タイのバンコクの空港で、王大成地区部長夫妻と7人の子どもたちが出迎えました。その姿を見て、伸一は「一家和楽の信心」の大事さを強調します。

 「『一家和楽の信心』であれば、家族が共通の根本目的をもつことができる。それによって、家族が団結することができる。だから、一家が栄えていくんです。(中略) どんなに広宣流布が進んだように見えても、一代限りで終わってしまえば、未来への流れは途絶えてしまう。信心の継承こそが、広宣流布を永遠ならしめる道であり、一家、一族の永遠の繁栄の根本です。」(236頁)

 「 一家和楽の信心」はなかなか難しい課題です。私の家では、1965年(昭和40年)に私が入信していらい、二人の姉と弟が相次いで入会。4年の間に母親も。最後に残った父親も、母の死に至る病を治したい一心で、遂に入会。私が入ってからほぼ12年後のことでした。母の死と引き換えのように、一家和楽の信心の入口に到達しました。その後、今日までの40年余で、それぞれの家族も紆余曲折の末、我が家の一人娘夫婦を除いて、皆入信したのです。正確には、娘の夫が未入信の故、娘は信仰を続けられない、と言うのが実態です。

 今、「一代限り」で終わるかどうかの瀬戸際にあり、思いは複雑です。浄土真宗の信徒の立場を投げ捨てた父は、墓も「妙法蓮華経」のものに替えたというのに。「このままでは、わしがやらねば、死んでも皆拝んでくれない」と言った父に、会わす顔がないと言うのが私の本心です。あと10年のうちに、何としても娘夫婦に継承を、と考えています。

●ハンガリー・ブタペストでの深い洞察

  伸一一行は、この時の旅で東欧二カ国(チェコとハンガリー)を訪れます。10月11日に着いたブタペストは、8年前にハンガリー事件(ソ連軍の侵入)が起こった地です。市内視察で当時の弾痕の残る建物を見つめながら、社会主義について考えを巡らせます。(275-285頁)

  伸一は、共産主義を生み出すに至ったマルクスの理論構築の動機には、ヒューマニズムはあったものの、人間とは何かの正しい認識がなかったことを指摘します。「完全無欠な社会を想定し、そこに強引に、人間を当てはめようとしたこと」など、「イデオロギーの論理が優先し、権力で社会体制を抑え、維持することが第一の目的となってしま」ったと捉えます。そして「問われるべきは、社会主義の政治的、社会的側面というよりも、それが歴史を動かすすべてであるという錯覚ーつまり、『人間』という視点の欠落である」と結論づけています。このほか、この10頁には深い社会主義についての洞察が伺えるのです。

 とりわけ、「人間の真実を知る生命の哲学なきゆえの、根本的な人間不信が、次々と人間を分断していくことになる。私は、この分断こそが、最大の悪の要因であると断定したい。広宣流布は、一人ひとりの人間に『仏』を見て、人間と人間を、信頼で結び合う尊き運動」であり、「未聞の実験である」とのくだりは圧巻です。世界中に「分断」が広く民主主義国家群を襲う一方、国家の強権力で「分断」を押し潰そうとする動き。現代の混迷はまさに、ここで伸一が「最大の悪の要因」と断定した「分断」状況の蔓延にあると言わざるをえません。

 世界の混迷が続く中、「未聞の実験」は失敗の淵にあるとの見方もあるほど前途は多難です。しかし、断じてそれは許されないのです。どう乗り越えるか。その鍵は、皆が当事者意識を持続させ、〝連続革命〟への闘魂を燃やすしかない、そう私は思っています。

 ●ノルウエー・オスロでの人間の一生を描く彫刻像の前で

   伸一一行は、次にノルウエーのオスロを訪れます。そこで、フログネル公園を見学しました。そこは、ノルウエーが生んだ大彫刻家グスタフ・ビーゲランの「人間の一生」をテーマに、生々流転の様子を描いた彫刻群が見られる場所です。

 伸一は、「ビーゲランの作り上げた像は、特別な人間ではない。民衆であり、権威も権力もまとわぬ、裸の人間である」とし、彼は「民衆のなかに、人間の尊貴なる〝光彩〟を見いだしていた」と感慨を抱くのです。(310頁)

  実は私も現役当時にこの場に立ち寄ったことがあります。伸一はビーゲランの「真実を見抜く」眼に感嘆したとしています。私は、その時、生から死に至る人間存在の冷厳な事実を改めて認識しました。オスロでの奇妙で不思議な実感を抱いたことが今鮮やかに蘇ってくるのです。彫刻芸術の持つ不可思議な力に打ちのめされたことを。(2021-11-5)

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【37】高等部結成とその後ー小説『新・人間革命』第9巻「鳳雛」の章から考える/10-31

●高等部発足と高等部長との思い出

 1965 年(昭和40年)7月11日。日大講堂での第八回学生部幹部会の席上、高等部長として、上野雅也が任命されました。高等部の発足は既に前年に発表されており、これより本格的に同部の活動が開始されます。10月1日には学会本部での部旗授与式に伸一が出席して、重要な話をしました。

「私も諸君に対して、〝早く生いたて〟との思いでいっぱいです。私が会長である限り、諸君の道を開き、見事に広宣流布の総仕上げをさせてあげたい。どうか、今日、集まった高等部の第一陣の幹部の諸君は、十年先、三十年先、五十年先までも結束を固めていっていただきたい。そして創価学会を守っていただきたい。学会員を守っていただきたい。民衆を守っていただきたい」(153頁)

  この言葉を聞いた全国の高等部員は上野高等部長のもと、深い自覚と決意のもと、輝かしい戦いを展開していきます。私は当時入会したばかりの学生部員でしたが、高等部員たちの凄さは後年になって知ることになります。とりわけ上野雅也こと上田雅一高等部長には、大学の先輩として、大学会第一回総会(43-4-26)での出会いに始まり、数限りない激励を受けてきました。池田先生との出会いの直後、下宿先の母屋の方から「上田さんから電話ですよ」と言われ、学生部の仲間の上田某君と勘違いし「おお、上田君か」と電話口に出てしまいました。苛つく声で「本部の上田です」と言われたこと、赤面の極みでした。

 138頁から5頁にわたり彼の体験が語られていますが、若き日の苦闘を初めて知り、感動を新たにしました。「豪快だが心の優しい少年」との表現には、思わず笑みが浮かびました。確かに「豪快そのもの」の指導をされる青年幹部として、一時代を作った人だと思います。私とは4歳ほど兄貴分ですが、到底追いつけない〝でっかい境涯〟の先輩でした。

●鳳雛会メンバーのたくましさ

 高等部に結成された鳳雛会、鳳雛グループの野外研修が箱根の仙石原で1966年(昭和41年)7月16日に開かれます。伸一は、その日が日蓮大聖人が『立正安国論』で国主諫暁された意義深い日であることを、「永久に忘れないでいただきたい」と強調します。(180-193頁) このくだり前後に紹介される浅田茂雄や、工藤きみ子は共によく知っている仲間です。前者とは初の青年部訪中団で一緒しましたし、後者とは後に高等部担当幹部として共戦した仲です。二人ともあの日の誓いを断じて忘れない素晴らしい指導者に成長しました。

 ここには登場しませんが、高等部結成に馳せ参じたり、鳳雛会で薫陶を受けた人を私は数多く知っています。中でも、のちに某民放の報道局長になったS氏や、外務省の課長になったH氏は、共に私とは大学同窓で、よく高等部時代のことや先生との契りを聞かされたものです。彼らの入会は子どもの頃からで、後発の私は羨ましく思いました。鉄は熱いうちに打て、といいます。高等部に対する伸一の打つ手の細やかさに感動するばかりです。

●懸命に関わった藍青会員たち

 私は高等部担当幹部を20歳台に5年ほどやりました。自分の入会が19歳で、高校卒業後一年経っていたので、高校生を激励し、育てることの重要性がよく分かっていました。都内の新宿区、港区、千代田区の高校生と付き合ったり、副高等部長として人材育成グループの藍青会を担当もしました。東京の場合は連絡事務担当に過ぎませんでしたが、東北、北海道の高校生男女30人ほどには1年間、半年と御書講義に現地まで通いました。

 沢山の思い出があります。東京の藍青会グループとは、仙石原の研修所に一緒に行きました。そこに、テレビ記者や外務省の役人になって活躍している友人たちを呼び、高校生たちに話をしてもらいました。少しでも刺激を受けて欲しかったからです。北海道や東北の高校生とは一緒に卓球やゲームなど遊びにも興じ、あれこれと交流を深めたものです。

 そんな中から、医者、大学教授、弁護士、新聞記者、放送記者、政治家など多士済々の人材が輩出していることは嬉しい限りです。私は彼、彼女らがほぼ全員学会っ子として2世、3世だったので、現実に信仰体験を持つことの重要性を強調しまくりました。「親がやってるから」「気づいたら信心していた」「信心の凄さは分からない」というのではあまりにも残念です。信仰の極意を会得するには、体験をつかむしかないと訴えたのです。

 池田先生がうたれた高等部、中等部、少年部結成という若い世代へのくさびが今になって大きく実を結び、見事に羽ばたいている姿を見るにつけ、その先見性に感嘆するばかりです。また、たとえ千万分の一でも、お役に立てたことを誇りに思います。(2021-11-3 一部修正)

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【36】「人類史的実験」とは何かー小説『新・人間革命』第9巻「新時代」の章から考える/10-22

●公明党の結党前夜における壮絶な思索

 1964年(昭和39年)4月1日に総本山に落成した大客殿で、第二代会長・戸田城聖先生の七回忌法要が行われました。そして同年5月3日に本部総会が行われ、席上、伸一は、4つの重要な目標を示します。そのうちの一つが、公明政治連盟をめぐる問題についてのものです。創価学会政治部としての公政連を解消し、独自の路線を歩むことを提案し、了承されます。この決断に至る経緯が49頁から61頁までにわたりくわしく触れられていきます。

 衆議院に進出することがいかに危険を伴うことであるかを巡って、心底から悩まれたことが分かる重要な心象風景がここには記述されています。中でも、57頁に「民衆の手に政治を取り戻すことは、不可欠な課題と見えた」が、「それにともなう危険はあまりにも大きく」、「学会が撹乱されないとも限らない」との危惧が披歴されます。しかし、「大聖人の仏法を社会に開くためにあえて突き進まざるを得ないであろう」というのが結論として述べられていきます。更に、「いわば彼は、広宣流布の人類史的実験に挑もうとしていた」と、その心情を語っているのです。

 私たちは、創価学会の政治進出について、しばしば世俗的な軽々しい論難にでくわすことが多くありました。例えば、政党を作って衆参両院に議席を持つことで、権力を奪取し、布教に役立てようとしている、とか。こんなに苦労して、選挙活動をせずとも、〝高みの見物〟ではいけないのか、など。しかし、ここで「人類史的実験」との記述に接して、厳粛な気持ちにならざるをえません。

 「大衆の手に政治を取り戻すこと」が公明党の役割だとすると、いつ、どのような状況が生まれたら、ゴールといえるのか。与党化することで、〝権力の魔性〟に魅入られることにならないのか。政治の安定と改革の両立への絶えざる挑戦を忘れていないかー公明党の人間として50年余になる私が、考え続けるテーマです。「実験の途中放棄」になってはならないとの思いのもと、生涯をかけてあるべき姿を追い続ける覚悟でいます。

●フィリピンでの語らいと今年のノーベル平和賞

 5月12日から15日間、伸一はオーストラリア、セイロン(スリランカ)、インド訪問の旅に向かいました。その旅の冒頭、フィリピンのマニラに経由、僅かな時間に3人の会員に会い、激励をするのです。その際に、いかに同地での布教が困難であるかの訴えを聞いて、次のような印象深い言葉を発しています。

 「地涌の菩薩はどこにでもいる。この国にだけは、出現しないなんていうことは絶対にないから大丈夫だよ。真剣に広布を祈り、粘り強く仏法対話を重ねていけば、必ず信心をする人が出てきます」(66頁)「戸田先生も戦時中の弾圧で、みんなが退転してしまったなかで一人立たれた。そこから戦後の学会は始まった。一人立つ人がいれば、必ず広がっていく。それが広宣流布の原理だよ」(67頁)

   この時の語らいがフィリピン広布の「永遠の誓いの種子」となり、やがて大きく花開くことになりました。このくだりを読んで、私は、ちょうど今年のノーベル平和賞の受賞者に選ばれたこの国のジャーナリストを思い出しました。強権的な政治を強める政権の動きに敢然と立ち向かう勇者に、勿論直接の関係はありませんが、フィリピンの会員たちの勇姿が重なり、強い共感を抱くのです。

●オーストラリアでのテレビ局インタビュー

 伸一一行は、次にオーストラリアのシドニーからメルボルンへと移動します。16日にテレビ局のインタビュー取材を受けました。当時、雑誌などによる学会批判がこの地でも横行しており、伸一を独裁者と見る風潮さえ強かったのです。悪影響を振り払い、学会理解を深めるために、伸一は準備を整えたうえで、挑みます。

 簡潔で的を射たインタビュアーの質問は、創価学会が「軍国主義的な団体であり、軍隊同様な組織を持っているのではないか」との観点など、多岐にわたっていましたが、役職が「参謀」「部隊長」「隊長」といった軍隊を思わせるものであることについてのやりとりが注目されます。この疑問は、日本でも草創期の学会に付き纏ったものでした。

 伸一の答えは明快です。「学会ほど平和団体はありません。誤解です」とした後、役職名は〝平和の戦士〟との自覚による、と述べています。その方が意気盛んに活動を進めることが出来る、とも。確かに、「課長や係長」ではまるで、会社の延長みたいですから。

 私もかつて、この名称にヒエラルキーを感じ、反民主主義的であると思いました。現実との認識ギャップに違和感を持ったものです。組織が勃興する時と安定期に入った時は自ずから異なることに気づいたのは、入会後10年ほどが経ってからのことでした。(2021-10-23  一部修正)

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【35】「弾圧」から「表彰」へー小説『新・人間革命』第8巻「激流」の章から考える/10-13

●「侵略の犠牲」になった韓国民衆への思い

 1963年(昭和38年)11月23日米テキサス州ダラス。ケネディ米大統領が暗殺されたニュースが全世界を駆け巡りました。その時の衝撃と彼に対する伸一の熱い思いが語られます。(289-302頁)

 翌年1月15日に韓国7都市に日本の幹部が交流訪問する予定になりました。これを契機に、「激流」の章は、58頁にわたり韓国と日本の関係、韓国での学会員の壮絶な戦い、伸一の韓国初訪問へと、触れられていきます。(314-372頁)

 「仏教伝来」から文化の恩恵まで、大恩ある韓・朝鮮半島に対して、いかに日本が厳しい姿勢で挑んできたか、歴史的事実に沿って語られたのちの次のくだりが胸に響きます。

 「だが、不屈の人びとは、〝魂の虐殺〟に等しい、日本の蛮行に耐えに耐えた。その間、幾千幾万の決死の勇者たちが、独立の炎をともし続けた。光なき痛哭の大地に、自由と希望の夜明けが到来することを絶対に信じて」(323頁)

 日本人は豊臣秀吉の〝朝鮮征伐〟から、明治の〝征韓論〟を経て、日清戦争後の35年間の朝鮮半島支配に至るまで、日本民族の勇猛さ、日本近代の素晴らしさの観点のみで見る傾向が強くあります。自国の大衆の苦悩には目を向けても、隣国の民衆の喘ぎには目を背けてきました。それに比して、ここでの伸一の「日本帝国主義批判」の凄まじさには、自らの非に改めて気づかされます。

 ややもすれば「日本優位論」が鎌首をもたげ、隣国民族を下に見てしまいかねない気風。今もなお、韓国、北朝鮮での反日の空気の根源に目を向けず、表層的な反韓気運を持続させるのみの世論。ここらあたりに問題の所在があることを痛感せざるをえません。

●執拗な弾圧にめげない韓国学会員の逞しさ

 1964年(昭和39年)1月の韓国への日本からの派遣が決まった頃から韓国政府の学会への批判が始まります。「創価学会は反民族的な性格を持つため、韓国では布教を禁止する」との文教部長官見解が表明されました。韓国政府の誤認識から出たものとの認識に立ち、学会では直ちに「韓国問題をめぐって」と題する長文の特集記事が聖教新聞に掲載されました。(349頁)

 しかし、韓国国内では、学会員が突然刑事に逮捕され、拘置所に拘束されたり、信仰ゆえの迫害にあっていきました。しかし、皆懸命の唱題に励み、逆に体験を掴む会員が増えていきました。ただし、自分勝手な幹部も出て、会内にいくつかのグループができるなど、様々な障害が発生します。幾多の紆余曲折を経て、1976年(昭和51年)に「仏教会」という全国統一組織が出来るようになりました。最終的に、1979年(昭和54年)に、農水産部長官から、1984年(昭和59年)には大統領から表彰を受けるまでになったのです。(369頁)

 韓国政府の弾圧の執拗さにめげず、この60年近い歴史の中で、見事な足跡を残してきた韓国の学会員の逞しさは、大いに宣揚されるべきものと思われます。軍部独裁などの時期も含め、韓国国内事情も複雑なものがあります。情報も我々に届かない傾向があり、軽々に論じることは出来ませんが、私は韓国における日蓮仏法の未来こそ、世界広布の成否を占うものと思えます。

 北東アジアの平和にとって、韓国の動向は決して無視できません。「在韓米軍の撤退」、「北朝鮮との宥和」など、時の政権の身の振り方一つが重要な影響をもたらします。ひたひたと増える学会員の息遣いの与える影響が決して無視できないと思われます。彼の国の浮沈の鍵を握る学会員の動きを、少ない情報の中で注視していきたいものです。

●苦節の末に、政府から表彰受け、伸一の訪韓が実現

 長きにわたる韓国の学会員への弾圧の歴史にもかかわらず、遂に大統領表彰まで受けるようになったことは、特筆できることです。その上で、1990年(平成2年)のソウルでの東京富士美術館所蔵の「西洋絵画名品展」のオープニング式典に出席するため、伸一が初めて訪韓しました。また1998年(平成10年)には、慶煕大学から名誉博士号を贈られての授与式に出席しました。その際に、SGI韓国仏教会本部を初訪問したのです。(370頁)

 このくだりは、非常に抑えた筆致で書かれているのが、かえってことの重要性を際立たせているように私には思えます。「初夏の風がさわやかであった。同志は待っていた。1964年(昭和39年)に、試練の嵐が吹き荒れて以来三十四年、メンバーはこの日が来ることを、夢に見、祈り、待ちわびてきたのである。それは伸一も同じであった」と。

 欧州の「冷戦」に終止符が打たれて、〝分断国家ドイツ〟に平和が訪れて30年余。今も朝鮮半島には、冷酷な「北緯38度線」が厳然と存在しています。「嫌韓」「反韓」の機運を超えて、もっとこの隣国民衆の幸福に関心を持たねば、と思うのです。(2021-10-13)

 

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【34】最も易しいことが最も難しいー小説『新・人間革命』第8巻「清流」の章から考える/10-7

●「敵」に対して常に意識を持て

 1963年(昭和38年)7月言論部が発足し、第一回の全国大会が開かれます。前年の11月に月刊雑誌『言論』が発刊されていました。これは民衆の支配を目論む権力の野望や、「正義の言論」を封じ込めようとする邪悪な動きに対抗する目的を持って作られたものです。かつて私も愛読しました。創価学会批判が大手を振って週刊誌や月刊誌の紙面を賑わしていた頃と違って、昨今は少々様変わりをしています。ただいつ何時、またぶり返してくるやもしれません。

 「常に正確な情報をつかんで、敏速に応戦していく。敵との攻防戦においては、このスピードこそが死命を制する」(202頁)「正義の言論の矢を放ち続けることである。その不屈なる魂の叫びが、人びとの心を揺り動かす」(204頁)とあります。

 現在の「敵」と呼べる集団は、日蓮仏法の亜流派や「日本会議」や共産党のような左右の政治勢力など、より専門化してきています。公明党の与党化とも相まって、以前のような自民党筋からの攻撃は、なりを潜めています。ですが、だからといって、学会理解の深化とは必ずしも一致しません。そのあたりを踏まえて、批判精神をたぎらせて、いつでも応酬できるように「腕」を磨いておく必要があろうと思われます。

●何があっても疑わないこと

 長野市で7月30日に開かれた中部第二本部での幹部会に出席した伸一は、会場で「功徳を受けたという方は手を上げてください」と呼びかけます。そして、信仰は「自分が功徳を受けるためのもの」であり、「そのための仏道修行であり、学会活動である」ことに触れます。さらに、「幸福の要諦は自分の心に打ち勝つことであり、何があっても『無疑曰信』(むぎわっしん=疑いなきを信という)の清流のごとき信心が肝要であることを訴えていった」のです。(208~209頁)

   さらに、ここで、疑いのない信の代表例として赤ん坊が母親のお乳を呑んで成長することが挙げられています。確かに赤ん坊はそうです。お母さんのお乳が気に入らないとか、もっと違うものが欲しいという赤ん坊などいるはずありません。ただ、それと信仰も同じようにせよ、と言われても、これは難しい。ある意味、最も易しいことで一番難しいのが「信じる」という行為であり、ひたすら「拝む」「祈る」ということです。

 普通は、「疑う」気持ちが起こります。私もそうでした。今もなお、そういう気持ちが皆無かというと、それこそ疑わしいでしょう。ただ、言えることは、いわば〝絶体絶命の時〟に、「拝む」と、不思議なことに〝追い詰められた状況〟が一変するのです。勿論、すぐにというわけではありません。それなりに時間はかかります。私の場合、これまでの信仰生活56年の間に、真底から困り悩んだケースが三回ほどありました。

 一度は22歳のときの肺結核、二度目は衆議院選挙の落選後の二度目の挑戦、三度目は、私の身から出た錆とでもいえることが原因で鬱状態に陥ったことでした。議員時代のことです。それぞれ、あれこれ理屈を言ってる場合ではありません。ともかく助かりたい、何がなんでもこの苦境を脱したい一心になりました。他の解決法はなく、もう拝むしかない、という状況でした。そして、3ヶ月から半年くらいの間に、それぞれ地獄の苦しみがパッと消え、平常に戻ったのです。その間、共通しているのは、しゃにむに、無我夢中で拝んだということなのです。文字通り清流のような心境でした。(2021-10-9一部修正)

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【33】本迹を立てわけていく重要性ー小説『新・人間革命』第8巻「宝剣」の章から考える/10-2

●本物か偽物か、「歳月は人を淘汰する」

 昭和38年7月6日、伊豆下田で青年部の水滸会研修が開かれた時のこと。宿舎の旅館の広間で質問会が行われます。伸一は、教学上の問題から、社会の改革と人間革命の関係など多岐にわたる質問に答えていきます。その中で、鮫島源治という青年について語られているくだりに注目しました。彼の質問は、「信心の筋金が入った人間とは?」というもの。答えは、「一生涯、学会についてくる人間のことです。(中略) どんなことがあっても、学会につききっていくことのできる人間が、信心の筋金の入った人だ。それしかない!」です。

 この人物は、「後年、副会長になるが、最後は学会に反逆し、無残な退転者の道を歩んでいくことになる」とあり、その記述の前後に「鮫島」という人間についての当初の伸一の思いが語られています。「歳月は人間を淘汰する」「30年間、見続けていこう」と。(114-114頁)

 この鮫島のモデルとなった当の本人から、幾度か私も指導を受ける機会がありました。元教学部長、元弁護士らの退転者とも、高等部、中野区担当者として私は接触したことはありましたが、この人物は青年部長だったため、一番真剣に話を聞いたものです。その理論の展開の仕方にユニークさを感じ、シャープな言葉遣いにも惹かれました。今から思えば、その顔立ちがかっこよかったという、他愛もない理由が強かったのですが‥‥

 先日、長く創価学会批判の急先鋒だったある人物が亡くなったとの報に接しました。生前、彼は鮫島の影響を強く受けていたことをあらためて知るに至りました。二人とも「野心、野望で動き、学会を自分のために利用しようとする心」に負けたに違いありません。同時に、人間関係の「縁」についても、考えざるをえません。「毒」を持った人と関係を強めずに、清らかな生命の持ち主と繋がることの大事さを痛切に感じます。

●「百六箇抄」の壮絶な講義

 同年  7月19日、伸一は、京都へと赴き、京都大学の学生を中心に、関西の学生部幹部への「百六箇抄」講義の発足式に臨みます。この「百六箇抄」は、日蓮大聖人から、第二祖日興上人に授けられた相伝書であり、「本因妙抄」と併せて、〝両巻抄〟とも〝血脈抄〟とも呼ばれてきました。御書は、「西洋的なものの考え方だけでは」、「東洋的な演繹法の思考」を、とらえることはできない。だから「仏法の発想に立っていくためにも、帰納法的な論理を超えた相伝書の「百六箇抄」を学ぶにことが大事だと、されています。

 この講義を始めるにあたって、一人ひとりの自己紹介から始まります。野村至・勇兄弟、田川浩一、中野恵利子、滝川安雄、高木与志郎、奥谷拓也、上畑英吉らの京大生が次々と登場します。この場面は私にとって、圧巻です。ほぼ全員、この場面の後に、良い縁を持つに至る先輩ばかりだからです。ひとりだけ退転していった人物が触れられていますが、それを除き、皆素晴らしい実証を示してきた人たちです。(131-158頁)

 この記述の中で、伸一自身が戸田城聖先生から直接この「百六箇抄」講義を受講した際のことが出てきます。「冒頭の『理の一念三千・一心三観本迹』の講義だけで、三日間を費やして」、講義が終わると、「これまで話してきたことは、すべて暗記し、生命に刻むことだ。この一箇条を徹底して学び、深く理解していくならば、後の百五箇条もわかってくる。また、この『百六箇抄』が、わかれば、ほかの御書もわかってくる」とまで。

 この御書の重要性を諸先輩から聞きながら、私は結局中途半端な理解に終わっているがゆえに、未だ情けない教学理解の状態にあることを思い知るのは無念なことです。ただ、ここで展開される本迹についての講義は分かりやすく、胸の底に落ちます。「自分は今、広布のために、人間革命のために生きているのか、一念は定まっているのかーそれを見極めていくことが、私たちにとって、『本迹』を立て分けていくことになるし、その人が最後の勝利者になっていく」とあります。「広宣流布に生き抜く人生こそが『本』で」、社会的な地位や立場は「迹」であるとの指摘。これを銘記して生き抜いてきただけに、後悔はありません。未だ、足らざるを補うために、今から、これからが本番と決めて、日々戦っていこうと決意しています。(2021-10-2)

 

 

 

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