【61】未来に続く師弟の深い絆ー小説『新・人間革命』第15巻「創価大学」の章から考える/3-19

●八王子の美しい夕日と創価大学と

     創価大学は、昨2021年に大学が完成して50年を迎えました。開学された1971年(昭和46年)の4月2日、伸一は恩師・戸田城聖の墓前で深い祈りを捧げていました。その日は、恩師の命日。師弟の大学設立にかけた深い絆が語られていくところから、この章はスタートします。

【伸一は、その八王子という名の場所に、大学が建つことに、深い意義を感じたのだ。彼には、法華経の八王子の教えは、智慧の光をもって、世界を照らし出し、人類の幸福と平和を築く多くの人材を輩出する創価大学の使命を、象徴しているように思えてならなかった】(110頁) 法華経に説かれた8人の王子のことがその名の由来である八王子は、夕焼けが美しいことでも知られています。

【伸一はこの八王子で、何度か夕焼けを目にする機会があったが、その美しさにも魅せられていた。真っ赤に西の空を染める夕日は、荘厳であり、完全燃焼し抜いた勇者の気高さを感じさせた。童謡の「夕焼け小焼け」は、八王子の夕焼けを歌ったものといわれる。】(109頁)

 大学がこの地に出来るということを教えていただいたある日。私は壮大な創設予定地を見渡せる場所に立っていました。命の底に、瞼の奥に、あの時の夕日の美しさが50年以上経っても焼き付いています。

 創価大学にはそれぞれの分野で第一人者といわれる、錚々たる学者が集まって来られました。私の興味のある分野では、『国家悪』の著書で知られる大隈信行先生がおられたのです。実は、つい先程、創価大学に「大沼保昭」文庫が開設され、それを記念するシンポジウムが同大学平和問題研究所主催でオンラインによって行われました。大沼保昭さんは東京大学に長く在籍された著名な国際法学者で、大隈先生に深く師事されていました。

 つい先年亡くなられたのですが、大隈先生とのご縁からその膨大な蔵書が寄贈され、文庫として活用されることになったのです。大沼さんは公明新聞にもPKO(国連平和維持活動)の時を始め、しばしば寄稿していただくなど、公明党と深い関わりを持ってくれました。私とは同い年ということもあり、個人的にも様々な交流を持たせていただきました。

●中世スコラ哲学の講演の持つ意味

 伸一は創価大学の学生からの要請を受けて講演を幾たびかしています。1973年(昭和48年)の寮祭・第二回「滝山祭」での「スコラ哲学と現代文明」は、中世ヨーロッパ哲学に対するそれまでのキリスト教神学の〝御用哲学〟であるとのとらえ方を根底的に見直すものとして注目されました。(235-237頁)

 【伸一は、この講演で、『スコラ哲学』は中世暗黒時代の象徴などではなく、むしろ、近世、近代の出発点であると、とらえ直したのだ。また、その時代は中世ヨーロッパを象徴するゴシック建築やボローニャ、パリ、オックスフォード、ケンブリッジ等の大学の形成に見られるように、優れた文化が花開いたことを述べた。さらに、この『スコラ哲学』の時代に、ヨーロッパ文明の原型が実質的に完成し、ルネサンス、宗教改革、ナショナリズムの勃興など、幾多の変遷を重ねながら、現代文明が築かれてきたことを論じていった】ーこの45分間の講演は【創価大学の使命を明らかにし、学生たちに次代を建設する深い自覚を促す、歴史的な講演となったのである】とされています。

 実は、私の高校時代の友人で、「スコラ哲学」の研究を始め、日本でも著名な哲学者がいます。その彼も、この講演を読み、深く感銘を受けたといいます。私はいま彼を東洋哲学研究所に誘いたいと決意しています。

 キリスト教神学については私自身、ありきたりの位置付けや勝手な思い込みをしていましたが、この講演で覚醒させられた思いがあります。この10年あまりの作家・佐藤優さんの壮絶な文筆活動の影響も少なくありません。創価大学での伸一の講演により、歴史認識にあっても、既成概念に捉われずに自由な挑戦をする大事さを学ぶことができました。

●深い感銘受ける「霊山一会儼然未散」の原理

 伸一の創価大学生への厚い思いは枚挙にいとまがありませんが、私が一番感銘を受けたものは「霊山一会儼然として未だ散らず」との原理を一期生に語る場面です。(287頁)

「散ってなおかつ散っていない」という原理を明かし、生涯、「創価大学の一会儼然として未だ散らず」の心で生き抜くことを盟約にしようと提案されています。卒業して離れ離れになろうとも、生涯創大卒の誇りを忘れるな、との激励を学生たちは受けました。

 福澤諭吉の作った慶大、大隈重信の早大、津田梅子の津田塾大など、創立者と学生の絆は100年を超えてなお深く強く語られています。創大は21世紀を経て更なる未来へと、輝く師弟の絆が語られていくのです。50年を超えた今、身の回りにいる創大生への激励を決意しています。(2022-3-19)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【60】「公害」との闘いの原点ー小説『新・人間革命』第15巻「蘇生」の章から考える/3-13

●公害問題への告発と言論戦

 人間文化創造への本格的な取り組みー1970年(昭和45年)5月3日の本部総会以降、創価学会は現代社会の歪みを是正する試みに動きます。その一つが公害問題への告発でした。伸一は総会でこの問題に言及したあと、8月に夏季講習会でその問題の本質に迫る一方、2つの原稿で言論戦を展開しました。総合月刊誌での『日本は〝公害実験国〟か!』と、「東洋学術研究」(東洋哲学研究所)での『人間と環境の哲学』です。

   前者で伸一は、「これから、真の公害として対処しなければならないのは、広範な地球的規模での、空気、水、土地の破壊、汚染である」と訴え、公害の要因として「進歩への信仰であり、環境支配のあくなき欲望である」と結論づけました。そして、公害を克服するために、「誤った〝人間生命の尊厳観〟こそ、無制限な自然の破壊と汚染を生んだ元凶に他ならない」としたのです。(25頁)

 後者で彼は、「公害問題の淵源は、自然はいかに破壊されても調和を保っていくという楽観論と、人間こそ宇宙のいっさいに君臨すべく資格を与えられた万物の霊長であるとする考え方にあると断じた」(30頁)

 公害問題はこの当時から50年を経て、収まったかに見えます。しかし、その原因が企業の犯罪から、国家及びグローバルな問題へと、拡大変化しただけかもしれません。地球が今や滅亡への道を歩んでいるかも、との危機感の共有が求められています。また、正しい人間生命の尊厳観こそ東洋思想の仏教にあり、人間と自然を対立的に捉える西洋思想が孕む問題点が一段と鮮明になったということではないかと思われます。

 ウクライナへのロシアの侵略という悲惨な現実を前に、人類の進歩という見方がいかに楽観的に過ぎるかということを痛感します。ひとたびは資本主義との戦いに敗れた共産主義が専制主義国家に衣替えして蘇ろうとしています。その悪夢に、戦慄を覚えるのみです。いま、隣国中国がどう出るかが注目されています。同じような出自を持つ国家同士の連帯で、西欧の民主主義と戦うのか。それとも儒教と無縁でない専制主義国家として西欧国家群との連帯の道を選択するのか。世界が固唾を呑んで見守っています。日蓮仏法を持する創価学会SGIの世界平和への祈りと、国家を超えた連帯の総和の発揮が待望されます。

●イタイイタイ病に見る公明党の戦い

 この章では、具体的な公害としてイタイイタイ病と水俣病が取り上げられています。前者は富山県神通川流域、後者は熊本県南部の水俣が舞台です。それぞれ大手金属会社鉱業所が流すカドミウム、化学会社の工場排水に含まれるメチル水銀化合物が原因でした。

 イタイイタイ病は1961年(昭和36年)6月に、地元の萩野昇医師の整形外科学会総会の場での原因発表が発端でした。以後、被害患者の激痛を伴う死をよそに、徒に時が過ぎました。5年半ほどが経って、1967年(昭和42年)に、この問題の研究を続けていた岡山大の小林純教授から公明党本部に連絡があり、一気に事態は動くことになります。公明党の大矢良彦参議院議員が参議院「公害特別委員会」でこの問題を取り上げました。小林や萩野と連携を取り、患者の皆さんが実情を聞き綿密な実態調査をした上での質問でした。ここから厚生省・政府も重い腰を上げ、事態は解決に向かい、一年後の1968年5月に公害認定がなされたのです。

 【国民の生命を守ろうとする政治家の一念が、遂に政府を動かしたのだ。最も苦しんでいる人に、救済の手を伸ばすことこそ、政治の原点である。公明党結党の意義もそこにある】(13頁)

   このイタイイタイ病が政府の公害認定の突破口となり、同年9月の水俣病へと続きます。私が公明新聞に入社する前年の出来事ですが、これこそ先輩たちの新聞記者としての闘いの原点となりました。その後の一連の公明党の公害追及の動き、その報道へと受け継がれていくのです。

 今コロナ禍で、多くの貴重な生命が奪われていますが、ここでの公明党の戦いもまさに目を見張るものがあります。朝日新聞サイト版『論座』で現在連載中の『政党としての公明党』では、筆者の岡野裕元氏(「行政管理研究センター」研究員)が、自民党との連立で公明党は質的役割を果たしたと述べ、とくにコロナ禍での対応を高く評価しています。公明党を取り上げるメデイア、学者がいないと私は嘆いてきましたが、見ている人はきちっと見てくれているのだなあと、改めて感心し、勇気づけられた思いです。

 一方、水俣病については、この病になった学会員がいかに闘って、地域の希望の星になっていったかが具体的な体験談として語られていきます。(34-53頁)

【人生に希望と使命を見出して、悲しみの淵から、敢然と立ち上がり、蘇生していった】感動の物語が綴られていき、読むものの胸を打たずにおきません。(2022-3-13)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【59】広布は流れそれ自体ー小説『新・人間革命』第14巻「大河」の章から考える/3-7

●本部総会で受けた三つの衝撃

 創価の流れが「渓流」から「大河」の時代へと入ったーその象徴となった1970年(昭和45年)5月3日の本部総会は、とても印象に残る会合でした。一つは「言論問題」にけじめがつけられたこと。二つは広宣流布とは「流れそれ自体」だとの講演。三つは創価学会の組織活動が「タテ線」から「ヨコ線」になったことです。(294-318頁)

    「名誉を守るためとはいえ、私どもはこれまで、批判に対して神経過敏にすぎた体質があり、それが寛容さを欠き、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。関係者をはじめ、国民の皆さんに、多大なご迷惑をおかけしたことを率直にお詫び申し上げるものであります」ーこう述べて「伸一は頭を下げた」と続きます。

 世の中の学会、公明党への度を越した批判・攻撃に、つい身構え過剰防衛をしがちであったことは入会5年だった私も認めざるを得ませんでした。ここに至るまで様々な出来事があったとはいえ、結果的に会長をして、お詫びをさせたことは大きな衝撃でした。学会にとり「自己変革」の大きな一線を越える画期的な場面だった、との思いが今に鮮やかに蘇ってきます。議員の立場と学会の役職との兼任が解かれたり、制度的に公明党と創価学会の分離化が明確になったことなど、大きな変換の展開ではありました。

●広宣流布にゴールあり、との思い込み

 これより先に、伸一が講演の冒頭部分で述べた発言はもっと違う意味で衝撃でした。

 「広宣流布とは決してゴールではありません。何か特別な終着点のように考えるのは、仏法の根本義からしても、正しくないと思います。大聖人の仏法は本因妙の仏法であり、常に未来に広がっていく正法であります。また、日蓮大聖人が『末法万年尽未来際』と叫ばれたこと自体、広宣流布の流れは、悠久にして、とどまるところがないことを示されたものといえます。広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動なのであります」(297-298頁)

 この発言は後々まで大きな影響を及ぼしました。〈どこかでゴールを迎え、あとはバラ色の新世界が開けるのではなかったのか〉〈ゴールのない競走なんて〉〈永遠に戦い続けるなんてできないし、それは辛く苦しい〉ーこんな声が私の回りからも聞こえてきたのです。いずれも勝手な思い込みでした。それらは自分に都合のいい甘い考え方であり、よく考えれば、社会と断絶した、人生と遊離した〈夢物語〉だったのです。

 本因妙とは、すべて今から始まる、ただいまの瞬間に未来への出発があるとの捉え方です。これに対して本果妙とは、今ある状態が全てで、それは決まったもので変えようがないとする立場です。この二つは、全く正反対です。本因妙の生き方とは、常に戦い続けるところに、「生命の歓喜と躍動と真実の幸福がある」といえるのです。

 ところで、ロシアのウクライナへの侵略という悲惨な事態を前にして、私たちは、「歴史の逆行」のような気分を味わっています。国家間の戦争、力による現状変更などといったことは20世紀で終わったはずと、勝手に思い込んでいたのです。広布の戦いにゴールがないのと同様に、人間相互の争いも、戦争も常に続く。こう全く次元の違うものをつい比較してしまいます。「平和な世界」が今すぐにやってくると、簡単に考える甘さと、広宣流布にゴールありとの捉え方の甘さ。この2つ、何故か妙に似ています。リアルに徹することの大事さに身震いする思いです。

●タテ線組織からヨコ線への移動という大変化

 三つ目は、創価学会の組織形態の転換でした。日常的活動の基軸が、従来の折伏をした、されたという人間関係に基づくタテ線から、住まいの近さによるブロックに依るヨコ線への移行です。これはまた衝撃でした。

「伸一はブロック組織に移行し、学会員が中心になって、地域社会に、人間と人間の、強い連帯のネットワークをつくり上げねばならないと考えていた。それが現代の社会が抱える、人間の孤立化という問題を乗り越え、社会が人間の温もりを取り戻す要諦であるというのが、伸一の確信だったのである」(306-307頁)

    今から思えば「タテからヨコへ」の移行は当たり前に思えるでしょう。しかし、当時は一大変化で、抵抗感がありました。親しい人間関係から離れて、あまり知らぬ人と一緒に活動するのは冒険に思えました。また、隣近所では近過ぎて何もかも分かってしまう、ゆっくりするゆとりもないなどといった怠惰な考えも起こりました。

 ですが、定着すれば、向こう三軒両隣の中で声を掛け合うことの大事さがわかってきました。〝遠くの親戚より近くの他人〟との格言があります。近くの友人、同志が、今の希薄になりやすい人間関係にあってとてつもない役割を果たしていくのです。(2022-3-7)

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【58】教訓に満ちた大先輩の失敗ー小説『新・人間革命』第14巻「烈風」の章から考える/3-1

●忘れられない高熱の中での和歌山指導

 関西にとって忘れられない出来事の一つが1969年(昭和44年)12月の伸一の和歌山指導です。この年7度めの関西訪問でしたが、最悪の体調の中での敢然とした振る舞いは、その後今に至るまで語り継がれています。休んで欲しいとする周りの危惧にも断固として引かず、待ち望む会員たちとの約束を果たそうとする姿が描かれていきます。(189-230頁)

   40度を越す発熱による寒気、止まらぬ咳。医師の聴診器に聞こえるバリバリという異常な呼吸音。急性気管支肺炎との診断に、抗生物質の注射と投薬。こうした症状の描写に読むものは、ただハラハラどきどきするだけです。東大阪から和歌山へ。会場では咳をこらえながら、聴衆の歓声に応えていく。24分に及ぶ指導の後、学会歌の指揮を所望する会員に応じ、武田節を舞う姿は限界を超えて見え、ただ涙するしかないのです。

 後年この情景を映像で見るに及び、その堂々たる姿とのアンバランスに、伸一の強固な意思、精神力を感じ、ただ頭が下がり、胸迫る思いで一杯になりました。実はこの時は公明党にとって2度目の衆議院選挙の投票日直前でした。弟子たちの苦闘に少しでも報い、皆が立ち上がる力たらんとする師の深い思いに、心底感動せざるを得ません。そうしたことは小説には一切触れられていませんが、想像を超えて迫ってくるのです。

●政治評論家の悪辣で卑劣な〝選挙妨害〟の動き

 発熱をおしての、和歌山から奈良、三重の激烈な指導旅が描かれたあと、この2度目の総選挙の数ヶ月前から起きてきていた、創価学会批判書をめぐる動きが詳細に語られていきます。これは政治評論家・藤沢達造の書いたものを学会と公明党が妨害したという非難が発端でした。この書は、事実無根の話をもとに、学会と公明党は「民主主義の敵」であると勝手に断定し、公明党の解散を叫んだものでした。(230-293頁)

   この時の外からの学会、公明党への攻撃は、国会の場を主たる舞台として発展していったこともあり、「伸一の会長就任以来、初めての大試練となった」(293頁)と総括されています。これは、翌1970年(昭和45年)の通常国会で、いわゆる「言論・出版妨害問題」として扱われ、野党各党を中心に「伸一を証人喚問せよなどと、狂ったように集中攻撃が行われて」いったのです。

 当時私は入社1年に満たない新米記者でしたが、この時期の国会の議論を見聞きして、野党議員の極めて低級な質問姿勢に強い憤りを感じる一方、時の首相・佐藤栄作氏の真摯な態度に感銘を受けました。なんとか学会・公明党非難に同調する答弁を引き出そうと躍起になる共産党、民社党などの議員。それに対して毅然とした言い回しで拒否する同首相。細部は忘却の彼方ですが、実に頼もしく聞こえたものです。

 野党議員による質問が行われる予定の国会の委員会室に予め早くに赴き、お題目を密かに胸中で唱えつつ、ことが穏便に収まるよう祈ったこともありました。こんな理不尽なことが罷り通ってなるものか、と。

●大先輩の「舌禍」から得た教訓

 この無謀な一連の動きの中で、私が印象深く覚えているのは、1月の学生部幹部会に特別参加した渡吾郎国対委員長の挨拶でした。それは「〝言論・出版妨害〟が、いかに誇張された出来事であるかを、個人的な所感を語るつもりで、面白おかしく語った」のですが、場内は爆笑に次ぐ爆笑。皆腹を抱え笑いまくったほど面白い内容でした。「学会、公明党を袋叩きにするようなやり方が、腹にすえかねていたと見え、批判本の筆者や他党を揶揄し、笑いのめした。時に他党を罵倒するような、激しい言葉も飛び出した」ーものでした。

 これが何者かによって密かに録音されていました。それを「言論・出版の自由に関する懇談会」なるグループが数日後に記者会見を開き、テープを公開したのです。やがて渡国対委員長はその立場を辞任せざるを得なくなりましたが、あの時の衝撃は今も鮮やかです。彼のモデルは渡部一郎さん。兵庫県選出(神戸市)の衆議院議員で、初代公明新聞編集長だったこともあり、私は、格別に親しみを持っていました。

「もともと渡は弁舌にたけた男であった。そのうえ、仲間うちという安心感もあり、ますます冗舌になり、口が滑った。人は、ともすれば、自ら得意とするものによってつまずくものである。ついつい調子づいてしまい、緊張感を失ってしまうからだ」(255頁)と、書かれています。このことは当時の創価学会の青年たちにとって深い教訓になりました。

 「言論問題」は、最終的に5月3日の本部総会で伸一が謝罪することで決着がつきました。と同時に、その場で、壮大な広宣流布への展望が披歴されたのです。それを聞き、一抹の悔しさと割きれなさを感じていた私たちは、勇躍新たな舞台の幕開けを感じたものでした。(2022-3-2)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【57】全てはその自覚からー小説『新・人間革命』第14巻「使命」の章から考える-2/23

●看護師の一念の転換から慈悲の看護は始まる

 この章では、看護師、鼓笛隊、文芸部の活躍が紹介されていきます。それぞれ、医療、文化、芸術の分野で地味ではあるものの、かけがえのない役割を果たしてきた人びとについて取り上げられています。このうち看護師については、コロナ禍の現在、世界中でその存在の重要性が改めて注目されています。創価学会において「白樺グループ」との名称で伸一によって結成された時(1969年6月6日)の様子から語られていきます。(98-120頁)

   結成式での模様を女子部長から聞いた伸一の言葉が強く印象に残ります。「この会合はささやかだが、やがて、歳月とともに、その意義の大きさが分かってくるよ」と冒頭で述べたあと、厳しい環境の中で日々広宣流布の使命の炎を燃やし、仏道修行をすることの重要性を強調。仲間同士で励まし支え合い、「使命に生きる心を触発し合っていくことが大事になる」と述べました。最後に「みんなが、自身の使命を自覚し、自身に挑み勝っていくならば『白樺グループ』は最も清らかで、最も強く、一番信頼と尊敬を集める、功徳と福運にあふれた女性の集まりになるよ。楽しみだ。楽しみだね‥‥」と深い思いを寄せたことが描かれています。(111-113頁)

 この時いらい、伸一の期待通りに、白樺グループは見事な発展をしてきましたが、コロナ禍にあって、全国各地での八面六臂の活躍がしのばれます。

 昨年夏に出版された『看護師が見たパンデミックー新型コロナウイルスとの闘いⅡ』の中で、兵庫県立尼崎総合医療センターのO看護師の手記が目に入りました。看護師の確保の苦労、ご遺体の納棺、家族への励ましなど、心打たれる中身でした。最後の経歴を見て驚きました。県立厚生専門学院の看護学科を卒業したあと、17年後に創価大学教育学部を卒業、さらに6年後に大阪大学の医学系研究科の博士前期過程終了とあるのです。慌てて取材すると、やはりこの人は白樺グループのメンバーでした。凄い勉強家の逸材です。

 私はかつて、医師、看護師、放射線技師、薬剤師といった医療関係者が患者を中心に円型を形作る「チーム医療」の大事さを国会の予算委員会で強調したことがあります。患者を脇に置き、医師がピラミッドの頂点にいて皆を従える形ではいけない、と。これからも注目したいと思っています。

●鼓笛隊員の活躍とその背景

 舞台は、アメリカロサンゼルスでの全米総会に移ります。7月26日。会場のシュライン公会堂に参加した1万人に圧倒的な感動をもたらしたのが日本から参加した富士鼓笛隊の演奏でした。この時の鼓笛隊メンバーの胸打つ体験が紹介されたあと、鼓笛隊が結成された1956年(昭和31年)からの経緯が語られていきます。(124-162頁)

   立川良美、佐田典代らの体験には涙しました。父や母を相次いで病気で亡くし祖母に育てられた立川の少女時代にとり鼓笛隊は生きる希望でした。訪米の前の練習に明け暮れていた時の77歳の祖母の死の場面には泣けます。訪米直前に、それまで重い楽器を持ち歩いたせいで背骨が捻れ、湾曲していることが分かり、裏方に回らざるを得なくなった佐田の苦悩と、復活の姿にも深い感動を覚えました。

【自分を不幸にするものは、他者ではない。時流でも、運命でもない。自身の弱さである。(中略) ゆえに幸福の人生を歩みゆくためには、青春時代に徹して自身の魂を鍛え上げることが、何にも増して重要になる】

 私は小学校の女性教師に折伏を受けました。その人は夫と別れ2人の子どもを育てていました。上の女の子が鼓笛隊員として見事な頑張りを展開。その後母親の跡を継ぎ、夫と共に立派な教育者として活躍、その子たちも堂々たる後継の人になっています。その根っこには彼女の胸中に鼓笛隊魂があったに違いないと思っています。

●仏法を基調にした新しい文学の興隆を担う人々

 続いて8月17日は総本山での夏期講習会で、作家、文筆家50人による文芸部の結成式が行われます。そこにはすでに大をなしていた人を始め多くの著名な作家も集っていました。彼等に対して伸一は気迫を込めて期待の言葉を述べます。そして秋には結成を記念しての会食会が持たれますが、その場での激励の様子が描かれていきます。(172-187頁)

  「大事なことは、何人の人が自分の作品に共感するかです。皆さんの文学を多くの人が支持し、称讃してくれることがそのまま仏法の素晴らしさになる。そのためには自分と戦うことです」ー伸一はこう、仏法を基調にした新しい文学の興隆に強い期待を寄せていきました。

 兵庫県在住の芥川賞作家M氏もこの中から輩出され、日本を代表する大作家へと飛翔されています。私は幾度か会い、激励を受けました。その都度、心底から伸一とその作家との厚い絆を感じ、深い感激に浸ったものです。(2022-2-23)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【56】学生部の先駆的試みー小説『新・新人間革命』第14巻「智勇」から考える/2-18

●時代を揺り動かした大学紛争

 1969年(昭和44年)という年は、伸一が会長に就任して満10年になる1970年(昭和45年)までの総仕上げの1年であり、第七の鐘が鳴り終わる1979年(昭和54年)への10年のスタートに当たる重要な年でした。その年はまた世界で、日本で、大学紛争の嵐が吹きまくり始めていました。この章では、日本を揺るがした学生運動の実態について触れられる一方、学生運動の「第三の道」の具体的展開が青年たちへの厚い思いと共に、描かれていきます。

 この年に大学を卒業し、社会人になったばかり(公明新聞記者)の私は、在学中に直接見聞した学費値上げ反対闘争などの騒ぎを尻目に、懸命に記者修行に取り組んでいました。

 伸一は、明治大学会での懇談の場で、学生から「革命児として生き抜くとは?」と訊かれます。彼は世界史上の「昔の革命と同じ方法で、新しい社会の建設がなされると考えるのは浅薄」との認識のもと、「一人も犠牲者を出したくない」との思いが語られていきます。「人間のエゴイズム、魔性を打ち破り、人間性が勝利していく時代をつくるには、仏法による以外にない」「広宣流布とは、一個の人間の人間革命を機軸にした総体革命なんです。仏法の生命尊厳の哲理と慈悲の精神を、政治、経済、教育、芸術など、あらゆる分野で打ち立て現実化していく作業といえます」と述べていきました。(27-29頁)

 当時の私はこの指導を漏れ聞いて、「総体革命児」たらんと決意を新たにしたものです。高校の一年先輩のOさんが早稲田大の全学共闘会議議長で、同期のM君が佐世保の原子力空母エンタプライズ寄港阻止闘争で逮捕されたことなどを思い出します。私が慶大でなく早大に入り、創価学会に入会していず、師匠との出会いもなかったら‥と。人の出会いと巡り合わせの不可思議さ、人の世の「物語」の過酷さに改めて身震いする思いです。

●4権分立と教育についての提唱

 東京大学・安田講堂をめぐる攻防を象徴的出来事として、様々な大学現場で深刻な混乱が起こっていました。これに対しいわゆる「大学立法」の制定に走った政府自民党、右往左往するだけの大学当局など、目を覆うが如き状況が続きました。その中で、伸一は雑誌『潮』に「大学革命について」と題する論考を発表。教育権の独立を提案し、三権に加えて「四権分立案」を提唱するに至るのです。

【それはまさに、政府が推し進めている大学立法の対極に立つ主張であり、大学、そして教育の在り方を根本から改革する提唱であった。伸一の対応は実に素早かった。(中略)  言論戦とは、まさに「時」を見極める戦いであり、また、時間との勝負でもある】(36頁)

  立法、司法、行政に加えて四権というと、報道を指すことが一般的ですが、当時、教育の独立を挙げた伸一の提唱はまさに炯眼でした。

●新学同の動きと無名の2人の活動家の体験記

 「大学立法」を阻止する動きはその後、創価学会学生部の中で、「大学立法粉砕全国連絡協議会」から「新学生同盟」(新学同)の結成へと発展していきます。この章では、この動きを、当時のリーダーたちと一般のメンバーの双方から追っています。前者は、九州の中山正治、沖縄の盛山光洋。後者は北海道の森井孝史、大阪の海野哲雄の4人です。とくに後者についての記述は「古い革命」に生きてきた「世界」を彷彿とさせるような体験記が続きます。

 森井の場合。息子の姿に落胆した父親が自殺をしてしまいます。その悲しい出来事に何の救いの手も差し伸べなかったことを悔いる森井。そこに学会員の婦人が信仰の必要性を訴えるのです。海野ケース。武装闘争に引き摺り込まれ、警察にアジトを急襲されるのです。これを何とか逃れた海野に、学会の婦人部員が優しく励まします。この辺りの体験はかつて読んだ「ロシア革命」にちなむ小説ー例えばゴーリキーの『母』ーを思い起こさせるに十分な迫力ある筆致です。

 「新学同」結成の集会の場面では、議長の津野田忠之、副議長の岡山正樹、大谷宏明、書記長の村田康治の4人が登場します。ほぼ同世代のこの人たちのモデルを私はよく知っているだけに、懐かしい思いに駆られながら、更に引き込まれてしまいました。

 結成大会のその日、横浜に向かっていた伸一は途中その様子を見るために会場に車を走らせました。【「すごい数の参加者だな。学生部はいよいよ立ち上がったね。社会のために何をするかー実は、そこに宗教の大きな意義がある。これで、新しい時代の幕が開かれるね」】(77頁)

 「新学同」は結成後10余年を経て80年代初めに解散しますが、その果たした役割について【学会が、平和・教育・文化の運動を本格的に推進していく先駆的試みとなった】と総括されています。

 師の心に接し、遠い昔の学生たちの思いを今の若者たちに継承して貰いたいと切に思います。(2022-2-18)

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【55】他の力を頼まず一人立てー小説『新・人間革命』第13巻「楽土」の章から考える/2-13

●沖縄の本土復帰から50年が経って

 「破壊は一瞬 建設は死闘」の一節で始まる伸一の長編詩「建設の譜」と共に、1969年(昭和44年)は開幕しました。この章では、沖縄についての根源的な伸一の思いが語られ、青年たちへの励ましと、壮絶な宿命と戦った同志の体験が紹介されていきます。

 本年2022年は沖縄が本土復帰して50年です。既に各種メディアでそれを記念した記事の掲載や特集番組が放映されています。日本本土の占領解放から遅れること20年、昭和47年に沖縄の施政権は日本に戻りました。しかし、米軍基地がどっかりと占める実態は変わらず、庶民の暮らしは依然として厳しいままの「47番目の日本」の現実は続いています。

 「楽土」の章では、まず2年前の第10回学生部総会での伸一の沖縄問題についての講演が述べられます。「核も基地もない、平和で豊かな沖縄になってこそ本土復帰である」との一節が印象的です。(300頁)

【真の繁栄と平和を勝ち取ることができるかどうかは、最終的には、そこに住む人びとの一念にこそかかっている。人間が絶望や諦めの心をいだき、無気力になったり、現実逃避に走れば、社会は退廃する】ー50年の歳月を隔て変わらぬ政治経済的沖縄の現実を見るときに、【楽土の建設は、主体である人間の建設にこそかかっているのだ。楽土を築こうとするならば、他の力を頼むのではなく、平和のために、人びとの幸福のために、自分が一人立つことだ】との記述が胸に迫ってくるのです。

 変わらざる現実を嘆くだけではなく、自力更生に一人立てとの伸一の叫びは、政治に関わってきた者として、その限界を悟ると共に、この世における根源的な力の在りどころを知って慄然とします。沖縄の本土復帰のありようを思う時、私は〝日本の独立未だならず〟を実感します。戦火は77年前に収まったものの、「戦争」は未だ続いているのだ、と。

●沖縄の青年たちへの根源的な励まし

 沖縄での三泊四日の滞在において、伸一がまさに寸暇を惜しみ、眠る時間さえ割いて会員を激励する様子が描かれています。その中で、私が強く感動するのは次の2節です。

 一つは、【励ましは、人間の心に勇気の火をともし、発心を促す。だが、そのためには、己の魂を発光させ、生命を削る思いで、激励の手を差し伸べなくてはならない。その強き一念の波動が、人の心を打ち、触発をもたらすのである】(338-339頁)

   もう一つは、「皆さん方が〝私がいる限り、この沖縄を平和の楽土にしてみせる〟との強い決意で信心に励み、社会の建設に立ち上がっていくならば、必ずや、沖縄を変えていくことができます。依正は不ニです。自分自身の生命の変革から、すべては変わっていくんです。運命を呪い、歴史を呪い、他人を恨んでも、何も問題は解決しません」(340頁)

   伸一の全国各地での激励、指導は何処でも平等に渾身の力を込めたものであることは当然ですが、沖縄だけは違うとの思いがこのくだりではどうしても沸き起こってきます。それはこの地が持つ「宿命」とでもいうべきものと深く関わっているように思えます。

●宿命の嵐に負けない名護の体験

 息子を病で亡くし、二人の娘を火事で亡くすという過酷な運命に翻弄されながらも、挫けず信心を貫いた名護の地区担当員だった岸山富士子の体験は、読むのも辛くなり、いずまいを正す思いに駆られます。「御本尊にすがりつくように唱題したかった。だが、その御本尊も火事で焼失してしまっていた」「火事以来学会への風当たりは強くなっていた」などの描写がその状況をなにより伝えています。

 伸一は岸山の事故にまつわる状況を聞き、胸を痛めながら指導を伝えます。「娘さんたちは御本尊に巡り合い、お題目も唱え、広宣流布のためのお母さんの活動に協力して亡くなった。それは三世の生命観に立つならば、今世で罪障を消滅し、永遠の幸福の軌道に入るために生まれて来たということなんです。来世は、必ず、幸せになって生まれてきます」「病気が治る。事業が成功するといったことも、信心の力であり、功徳ですが、まだまだ小さな利益です。本当の大功徳は、どんな苦悩に直面しても、決して負けない自分自身をつくり、何があっても、揺るがない大境涯を築いていけるということなんです」

 「負けるな。断じて、負けるな。あなたが元気であり続けることが信心の力の証明です」との伝言に、岸山は「私は負けません。名護の人たちに『学会は正しかった。すごい宗教だ』と言われるまで、頑張り抜きます!」と応えたのです。その後、夫婦揃って一歩も引かず頑張り抜いて、やがて地区を総支部へと発展させていきました。

 こうした苦難に直面しながら、断じて負けなかった人を私も少なからず知っています。そのたび、自分も負けない強い境涯の人間にならねば、と決意を新たにしてきました。(2022-2-13)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【54】離島での壮絶な戦いー小説『新・人間革命』第13巻「光城」の章から考える/2-8

●奄美大島での反学会の動きとの戦い

   鹿児島と沖縄のほぼ中間に横たわる奄美大島は、日本の中で有数の創価学会員の占有率が高い上、公明党の選挙でも群を抜いて得票率が高いとされます。ただ、これは苦難の歴史の末の結果です。この章は、独立した短編社会小説のように、反学会の動きに徹して戦った地元学会員の壮絶な姿が描かれています。(199-268頁)

   創価学会を排斥せよというデモが起こり、島中が沸き立つ迫害事件に発展したのは1964年(昭和39年)初夏のこと。5年ぶり2度目の伸一の奄美訪問の際(昭和43年11月)に回顧されます。発端は、学会が県議選で支援した公明党の候補者が当選し、この村の出身である候補者が落選したことでした。選挙をめぐるいざこざが燻って、やがて大きな火事のように広がっていったのですが、その大もとは地元有力者たちが創価学会の本質を見誤っていたことにありました。

 座談会場での酔漢の狼藉やら村の公民館での緊急集会での小競り合い。学会員締め出しの動き。村八分の展開が次々とリアルに描かれて、やがてデモの現場での衝突場面がピークとなります。人情に厚く一本気な男子部班長の天竜和夫と、彼の軽挙妄動が暴力沙汰になることを恐れた妻エリ子。この夫婦の演じた修羅場での葛藤は息を呑む展開です。

 「あんた、どんなに腹が立っても、絶対に手を出しちゃだめよ」「もし手出しをすれば、学会に迷惑がかかるんだからね。何があっても堪えるのよ」「ああ‥‥」「もし、どうしても、どうしても、我慢できなくなったら、私を殴って!」ーこの描写の後、デモ現場での言い合いに移ります。

 「君らは公明党、公明党と別の集落の人間を担ぐ。なんで地元が送り出そうとする代表を落とそうとする」「私たちは政治をよくしようと頑張ってるだけ。何も悪いことはしていない。なのに、どうしてこんな卑劣なまねをする」「何を言うか!この〝貧乏たれ〟が!」「〝貧乏たれ〟で結構だ!」「だいたい、〝貧乏たれ〟が集まって、ホーレンゲキョーで何が変わるか。学会にはまともなもんなど、おらんだろ」

 【天竜は、拳を握りしめていた。自分のことなら我慢もできた。しかし、学会のことを、ここまで言われると、もう堪えることはできなかった。「あんたダメよ!絶対ダメよ。殴るなら、私を殴るのよ!」エリ子が叫んだ。有力者の顔に怯えが走った。「この野郎!」天竜和夫の拳が風を切った。】〝すまん〟心で詫びる和夫と、痛みを堪えながらも約束を守ってくれた夫に嬉しさを感じるエリ子。ーこの場面は読む者をして興奮のるつぼに巻き込みます。

【知らざるがゆえの誤解に基づく弾圧ーそれがこの奄美の事件であるというのが、山本伸一の結論であった】ー現地の報告を受けた上で、事態打開へのきめ細かな手が打たれていきます。問題の根本的解決にむけての考え方は「地域の一人ひとりに対して、学会の真実を教え、誤解を解きほぐしていく以外にない。(中略) 戦いとは分断ではない。地域の発展ために結び合うことだ」というものでした。

 ここから始まって「21世紀の奄美は、見事に、日本の広宣流布の先駆となり、まばゆいばかりの希望の光城となった」のです。全国各地で奄美に似たケースがその後起こりました。兵庫県の家島、坊勢島でも村八分にあいながら歯を食いしばって頑張ってきた同志たちの汗と涙の結晶が今に燦然と輝いています。また、私が自治会長を務めた姫路市の新在家地区界隈でも、草創期には様々な軋轢がありました。

 現状は決して楽観を許しません。どの地でも、かつての様な分断は回避されていますが、根本的に問題が解決したとは言い難いものがあります。しかし、局面が変わったことは間違いなく、地域発展のために、創価学会メンバーが自治会活動に取り組むことが大事だと痛感しています。戦い、未だ終わらず。ここでも連続闘争が必要と実感します。

●芸術部の皆さんと先生との絆から学ぶ

 1968年(昭和43年)秋は、芸術祭が各方面で開催されていきます。ここでは芸術部の戦いが幾つもの角度から語られていきます。その礎となってきた人気歌手・幸山エリカの信仰体験と、アメリカで活躍していた著名な歌手・月村ますみとの出会いから折伏に至る経緯は、未知の世界に目覚めさせられる思いがして、とても新鮮な印象を受けます。(278-292頁)

   芸術部の皆さんの支援を公明党の議員は、時に有難いことに受けることができます。私も中選挙区に挑戦した二度の選挙が屈指の超激戦区だったので、大いなる恩恵を受けることができました。日本中の誰もが知ってる女優さんと姫路・御幸通を練り歩いたり、著名な女性歌手と遊説に宣伝カーで回ったことなど思い出します。その都度、彼女たち一人ひとりの池田先生との強い絆と広宣流布への厚き思いが伺え、感動を新たにしました。(2022-2-8)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【53】北の天地と広布の黄金城ー小説『新・人間革命』第13巻「北斗」の章から考える/2-1

●貧しい環境にも断じて負けない心意気

 日本最北の街ー北海道稚内市に向かうため、伸一は1968年(昭和43年)9月13日に東京から旭川に飛びます。当時は直行便がなく、この地に一泊し、翌日稚内まで、列車で行く予定でした。しかし、旭川で伸一を待ち焦がれる同志を激励するべく、急遽、宿舎での仕事の時間を割くことにしました。(107-134頁)

 4回目の訪問になるこの時の突発的会合で、伸一は「広宣流布の宗教」について諄々と語っていきました。会合終了時に学会歌の指揮をとる、この地域の初代地区部長だった中山一郎のことに記述が及びます。狭い間取りの家に、5人の子どもたちがいて、そこに「昼となく夜となく、何十人も人が出入りしていることを思うと、子どもたちが不憫でならなかった。伸一は申し訳なさに胸が痛んだ」とあります。

 「我が家を活動の拠点に提供し、広宣流布に貢献してきた功徳は、無量であり、無辺である。それは、大福運、大福徳となって、子々孫々まで照らしゆくにちがいない」(119頁)との記述の後に、「いつも本当にありがとうございます」と万感の思いで感謝を語る伸一に中山一郎は次のように応えます。「私は創価学会に尽くせることが、嬉しくて嬉しくて仕方ないんです。人生で学会と出あえたこと自体、最高の福運であり、功徳です。それが私には、よーくわかります」と。

 草創期には日本中至るところで、この中山の家のようなケースが珍しくなかったのです。昭和40年に入会した私のタテ線の地区拠点も殆ど同じでした。また私の妻の実家も有名な小岩支部の地区拠点で、ブロックでは、中野北西部の代表的拠点会場でした。それこそ多い時は100人を超える人が集まったり、男女青年部が入れ替わり立ち替わり「食」を求めてくることもあったようです。梁山泊のような雰囲気から、次の時代を築く人材が輩出されるに違いないと、みんな固く信じていたのです。

●広宣流布の希望の星たれとの期待を胸に

 翌日午後、5時間かけて列車で稚内へと伸一は向かいます。到着間際の車窓には、「燃えるような夕焼けに包まれてそびえる利尻富士の勇姿が見えた」「幾筋もの黄金の光が走る紅の空に、利尻富士が紫のシルエットを、くっきりと浮かび上がらせていた」ーとの一幅の名画を思わせる風景描写です。北の天地を幸福の花薫る広布の黄金城にするぞ、との伸一の決意を祝福するかのように。

 「先生ようこそ北の果てまで」との垂れ幕のもと、礼文、利尻島からの180人を始め多数の同志が集った会場の体育館には熱気が溢れていました。利尻島から参加した堀山長治夫妻の経済苦と病苦の中での壮絶な戦いの歴史が述べられていきます。「同志のために、島のためにーそれが、堀山夫妻の生き甲斐であり、活動の原動力であった」と、11年間の命懸けの苦闘により出来上がった地域広布の磐石の基盤が讃えられていくのです。

 伸一は講演で、関西の大発展の要因が、同志の一念の転換にあったことについて述べたうえで、「この最北端の稚内が、広宣流布の模範の地になれば、全国各地の同志が『私たちにもできないわけがない』と勇気を持ちます。みんなが自信をもちます」「北海道は日本列島の王冠のような形をしていますが、稚内はその北海道の王冠です。皆さんこそ、日本全国の広布の突破口を開く王者です」と、激励の言葉を重ねました。

 【会場を出ると満天の星であった。北西の空に、北斗七星が、清らかな光を投げかけていた。(中略)  北海道は、この北斗七星のように、広宣流布の永遠なる希望の星であらねばならぬ‥‥】ーこの壮大な伸一の期待に応えて北海道の同志は、敢然とあらゆる戦いに勝利してきました。例えば、衆院選の北海道10区での戦いに、稲津久議員が2012年から挑み、勝ち続けています。この背景には文字通り全道の「希望の星」としての輝きの役割があると、思います。実は彼が高校生だった今から45年ほど前、全国副高等部長として、私は北海道を担当、月一回の御書講義に半年間駆けつけました。その時の高校生の中から彼を始め〝幾つもの星〟が誕生。これこそ未来部担当幹部の冥利に尽きるのです。

●広布の堅固な礎としての座談会

 9月25日の本部幹部会で、改めて全学会挙げて座談会の推進に取り組むことが発表になりました。ここでは、座談会の重要性が種々語られています。(161-198頁)

   フランス歴史家ミシュレの「生命は自らとは異なった生命とまじりあえば、まじりあうほど他の存在との連帯を増し、力と幸福と豊かさを加えて生きるようになる」との言葉を引いた後で、【学会の座談会は、まさに、人間の勇気と希望と歓喜と、そして向上の意欲を引き出す〝人間触発の海〟である】と書かれています。私もこれまで、その深い大きな海に育てていただき、今日を迎えたことに深い感謝を抱きます。(2022-2-1)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【52】国境を超えた友情ー小説『新・人間革命』第13巻「金の橋」の章から考える/1-26

●学生部総会(1968-9-8)での歴史的「中国提言」に至る背景

 戸田先生と池田先生の師弟の絆はたとえようもなく強固ですが、世界の平和実現に向けての国境を超えた友情を育む姿勢にも見事なまでに反映されています。1968年(昭和43年)9月8日に開かれた学生部総会での中国問題での提言はまさに、戸田先生の原水爆禁止宣言に匹敵する極めて重要な内容でした。この章ではその講演に至るまでの日中関係の経緯と後継の学生部へのあつい思いとが協和音を奏でながら展開されます。(8-51頁)

   伸一の中国への思いは、戸田から受けた個人授業に全て起因します。「伸一は、この授業を通して、中国の気宇壮大な理想と、豊かなる精神性に、深く、強く、魅了されていった」ことに始まり、「歴史を正しく認識し、アジアの人びとが受けた、痛み、苦しみを知ることです。その思いを、人びとの心を、理解することです」との発言に尽きます。

 ここでは、日本の政界の松村謙三、経済界の高碕達之助、文学界の有吉佐和子の3人がいかに中国との関係において、献身的な努力をしたかが丁寧に語られます。これを通じ、のちに周恩来首相と伸一との国境を超えた友情が育まれるに至る背景が明確になります。この当時、大学3年生だった私など到底知り得なかったことばかりですが、大きな構想のもとでの対中関係の構築への労作業を知って、深い感銘を受けました。この章には、これからの日中関係を考える上での重要な情報が満載されていると思うのです。

    ●大学別講義から大学会の結成へ、「後継育成」の思い

 伸一が学生部総会の場で、日中国交回復に向けての提言を行う決断をしたのは、ひとえに後継の人材群を育てるためでした。「日中友好の永遠なる『金の橋』を築き上げるという大業は、決して一代限りではできない」し、「世紀を超えた、長く遠い道のりである限り、自分と同じ心で、あとを受け継ぐ人がいなければ、成就はありえない」との思いだったのです。

 だからこそ、この頃から大学別講義が行われ、大学会の結成が相次ぎました。私も岡安博司副理事長による『撰時抄』講義を数回にわたって受けました。また、4月26日に結成された慶大会に馳せ参じました。肺結核闘病中だった私はそこで、初めて池田先生の謦咳に接し、百万遍の唱題で必ず治るとの根源的指導と共に、温かいものを食べ、早めに寝ることなど、生活上の細かなアドバイスまで受けることができたのです。未熟な信心だった私は、後で考えれば無謀にも、恐れを知らぬ直裁さで大師匠にぶつかっていきました。

 すべての大学会の結成式に出席した伸一は「一人ひとりのメンバーを、我が生命に刻み付けようと必死であった」し、「それぞれの家庭の状況にも、丹念に耳を傾けた。彼は、共に同志として、皆の生涯を見守っていく、強き決意であった」と記されています。私自身まさにそう書かれている通り、生命の底からの激励を勿体なくも受けられたのです。

●歴史的提言の持つ意味

 9月8日の総会で、伸一は内に大学紛争、外にプラハ事件といった荒れ狂う環境にいた学生たちに、原因としての「世代間断絶」「生命哲学の欠如」といった問題から説き起こします。そして、中国との国交回復を実現するための3項目の提言(①国交正常化②国連加盟③経済・文化交流)など、後の国際政治に少なくない影響を与えた「77分の講演」を展開していきました。ここでは、その内容は勿論、その後の内外への影響にまで触れられ、さながら日中裏面史の赴きがあります。(52-85頁)

  当時、慶大で中国論をかじりかけていた私は、この講演を聞き「中国問題」を人生のテーマにしようと深く決意するに至りました。後に公明新聞の記者になり、政治家になってからもこの問題を追い続けました。その間、東京外大(慶大講師)から秋田国際教養大学長になられた中国問題の権威・中嶋嶺雄先生との交流に恵まれたことは大いなる幸運でした。また、記者時代から秘書を経て政治家として支えた市川雄一元書記長との様々な切磋琢磨からも、多大な彩りを得られたのです。

 それから54年。中国の人口は7億から14億人へと倍増しました。周恩来のような指導者は見当たりません。習近平のもと建国100年を迎える2049年へとひた走る中国と、未だ半独立の状況を脱し得ていない日本。両国を取り巻く状況は様変わりしました。明治維新から敗戦そしてコロナ禍と、二つの「77年のサイクル」を経た日本は、まさに正念場です。

 あの時の「私の中国観に対しては種々の議論があるでしょう。あとは賢明な諸君の判断に一切任せます」と、「(日中間に金の橋を築く大業は)一代限りでなく、世紀を超えた長く遠い道のり」だとの発言がわが耳にこだまします。政権与党の一翼を担う公明党よ、バランサーの役割を忘れるな、と。(2022-1-26)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類