【9】日本の皇室とつい比較する──『英国王のスピーチ』を観て/9-17

 スピーチといえば、私は数々の失敗を繰り返してきた。当たり外れがあって、最終的には8勝7敗で辛うじて勝ち越しかなあ、というのがかなり甘目の自己評価。この映画はそんなそんじょそこらのヘナチョコ政治家の演説とは違って、原稿を読むとはいえ、国王の演説に纏わるものである。しかも英国の国王が吃音(どもり)のために、苦労に苦労を重ね、幾多の失敗ののち、なんとか克服してスピーチがうまくできるようになったというお話。その陰で、回り道を伴走した言語聴覚士の存在があったのだが、この人と国王との〝山あり谷あり〟のコンビぶりが胸に迫る◆殆ど実話通りとか。主人公のジョージ6世は、昨年9月に亡くなったエリザベス女王の父君。その彼女が5-6歳のまだ幼女だった頃、おじいさんのジョージ5世に代わって後を継いだ伯父のエドワード8世が身の不始末から国王就任まもなくに退位してしまう。そこでお鉢が弟君に当たる父に回ってきた。しかし、ご本人は、ひどい吃音。家族内の普段の会話とか、怒りに任せた時は吃らずに喋れるが、スピーチなど緊張を伴う場面になると、もうお手上げ。それを直そうと、のちの女王陛下(エリザベス女王の母上)が密かに手を打つところから舞台は幕を開け、息もつかせぬ面白さ◆あれこれと見せ場は続くが、わたし的には、英国王の家族団欒のありさま──父親が娘たちと戯れたり(モーニング姿で足を折り曲げてペンギンに扮して見せる)、即席のジョークで小話を聞かせて喜ばせる場面がとても面白かった。国王の子供が女の子2人なのと対照的に、言語聴覚士の子どもが男の子2人だったことも、英国の普通の家庭(この家のルーツはオーストラリア)を想像させて興味をそそる。それよりもっとご愛嬌だったのが、英国の首相や閣僚に扮した俳優たち、とりわけ、明らかにそれと分かるウインストン・チャーチルがいかにもと、笑わせる顔つきだったことだ◆この映画を見て、つくづく感じ入ったのは英国王室の自由さ加減。2010年の制作だが、よくぞここまでというほど開けっぴろげ。国王役に極めつけのありとあらゆるスラングを喋らせるあたり、女王陛下はどう観たのだろうか。要するに、普通だと、〝ちょめちょめ〟などという風に誤魔化すはずのところを(字幕もそのまま)全部曝け出す。尤も、別に隠すこともない。日常生活そのままなのだから。しかし、日本だととてもこうはいかない、と思う。ただし、英国王室の紊乱ぶりは日本のそれの比ではないが◆そうあれこれ思って見終えた時に気づいたのは、50年前に読み、今また再読している池田大作先生と英国の歴史家・アーノルド・トインビー博士の『二十一世紀への対話』の一節(129頁)である。池田先生が「世界的な趨勢として、王制はしだいに形骸化し、姿を消していく方向にあると思います」と水を向けたあと、将来の予想を訊く。同博士は「こんにち、君主制が次第に姿を消しつつあるということは、もはや人々が国家を神と感じることがなくなり、むしろ、しだいに一種の公共事業体とみなすようになってきて」おり、「非常に望ましいと考えております」と答えている。敗戦直後に生まれ、戦後民主主義の只中で育った私が最初から今に至るまでその存在のあり方を考え続けてきたのが「天皇制」であるだけに、この対話は極めて印象深い。(2023-9-17)

 

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