【15】政敵より手ごわかった「認知症」━━『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を観て/11-16

 英国史上初の女性首相だったマーガレット・サッチャー(1925-2013)は「鉄の女」と呼ばれたことはよく知られている。その命名の由来は、鉄のような強靭な意志を持つ反共産主義者ということで、ソ連の軍事ジャーナリストによるものだとされる。しかし、引退後の晩年は「認知症」に苦しんだことは日本ではあまり知られていない。少なくとも、大西洋を超えた最も近い同盟国のドナルド・レーガン米国大統領が、アルツハイマー型認知症に苦しんだ事実ほどには。ジョン・キャンベルによる伝記の映画化で、ほぼ事実に忠実に描かれているとのこと。イギリスという国柄を学び、英国議会の猛烈でリアルな論戦の実際を見る上でも大いなる刺激を受けたが、とりわけ人間サッチャーの生き方に強い感動を覚えた。〝ひ弱な日本の政治家〟にこの映画を観ることを勧めたいが、普通の市民にはむしろ「認知症」の何たるかを知るための格好の教材だという点が重要かもしれない◆彼女は食料雑貨店の娘からオックスフォード大経済学部を出て24歳での初出馬は落選したものの、その後弁護士を経て9年後に当選、政治家になった。首相に昇りつめるまでも困難をきわめたはずだが、映画はさらっと流す。むしろ、なってからの約10年間(1979-1990)の奮闘ぶりが見どころだ。IRA(アイルランド共和国軍)のテロ活動に手を焼き、低迷する経済を立て直す上での労働党との熾烈な戦いを続けながらも、サッチャリズムと呼称された新自由主義の旗を振り続けた。そんな首相像のなかで、とくに印象的なのはフォークランド紛争(対アルゼンチン)との取り組み。遠く離れた島(英連邦所属)での戦争に反対する米国国務相らに対して、彼女は米国が日本の真珠湾攻撃を受けた時と同じではないか、と愛国心をかきたてていた。この戦争に非難の火の手は世界中に沸き立ったものだが、毅然として、敢然と乗り切った彼女の姿勢は、文字通り〝鉄の女〟にふさわしい豪胆ぶりに映った。ただし、戦争で生命を失った兵士の遺族に対して、涙をうかべつつ国家への貢献を讃えるべく手紙を書くシーンは、さすがに胸を揺さぶった◆しかし、この映画最大の見どころは、引退後の認知症との闘いであろう。健常な時と異常をきたした時が映像上で入り乱れて次々と展開するのは観る方も混乱してしまう。私自身にも、誇大妄想狂に悩む家族(90代半ばの義母)がいるので、身につまされた。死んでそばにはいない夫や遠くにいる息子と勝手に話す場面や、会議に出かけて首相当時の発言を繰り返すところ(頭の中と現実との混濁)など、切ない。どんな人間でも陥る可能性があるとはいうものの、「鉄の女」と呼ばれたほど強固な意思を持っていた元首相の老後の惨めな姿は見るに忍びない◆サッチャーそっくりに(多分見える)メリル・ストリープの老若使い分けた演技力は見事だ。政治家人生の〝よき伴走役〟だった夫との日常的なふれあい、すれ違いを巧みに演じ、妻としての優しい心遣いを、認知症最中に遅れて垣間見せるのはいじらしいほど。彼女自身より10年早く亡くなった夫との〝幻影の交流〟は、いとしささえ。男女、立場の違いなど比較するべくもないが、20年の政治家を経験した私にも、去りゆきし過去における〝妻の献身〟がだぶってよみがえり、胸うずく思いになる。そんな中、この映画に挿入された一瞬の場面が忘れ難い。ケン・フォレットのスパイ小説『針の眼』をサッチャーが手にしていたのだ。彼女の首相就任(1979年)直後にブレイクした本だった。ページをめくる彼女に夫・デニスが「最後は女が男を殺す」とネタバレを。監督も芸が細かい。若き日に読んだ私が今なお最も興奮させられた本として第一に挙げたいものだけに、突然映像に出てきたのには、驚いた。あたかも亡くなった旧友が突然目の前に出てきたように懐かしかった。「サッチャー観」には賛否両論あるものの、ともあれ、いい映画だった。(2023-11-16)

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