【17】「宗教と自立」「国家と自由」など夢想広がる━━『ショコラ』を観て/12-13

 「ショコラ」(チョコレート)には思い出がある人は多いだろう。私の場合は、英語、フランス語、中国語など各国語による「チョコレートはいかがですか?」という言い回しを書いたコピーを見たことだった。お菓子の小ちゃな箱に入った宣伝戦略の一環だった。英語やそれをそのまんま転用する日本語はともかくとして、フランス語を粋だと感じ、「巧克力」と書いて「チョウクゥリ」と発音する(ように聞こえる)中国語って面白いなぁって感心したものだ。というこの出だしは余談。この映画は20年ほど前に制作されたもので、「ラブコメディ」というジャンルに仕分けされている。だが、私には「宗教と自由」「国家と自立」という重大な問題を提起する、結構お堅く、考えさせられる映画にチョッピリ思われた◆ストーリーをザックリ私風に気ままに紹介したい。ある美しい女性が娘と共にとある村に吹雪のなかやってくる。この村はキリスト教の教会を中心に動いており、熱心な信者の村長と神父の支配下にある。彼女はそこでショコラを製造・販売するお店を開く。この女性は自立心旺盛で勝手気まま。宗教的因習、村の習わしには従おうとしない。このため当初は徹底して〝排除の嵐〟に遭う。だが、夫婦や親子の葛藤を始め、人それぞれに様々な悩みを持つ。そんな村びとたちがひとりまた一人と、この店にやってきて女店主に悩みを打ち明けるようになる。これまでの村の秩序が破壊されて嬉しくない村長は、次々と彼女に嫌がらせをしかけてくる。そこに流れ者のナイスガイが現れ、絡んできて‥‥といったお話しが繰り広げられる。表面的にはわかりやすい◆ショコラは、当然ながら「自由」のシンボル。教会は「束縛」の元凶として描かれる。前者は美しく若い女性が、後者は頑固で権威的な古い男性がその役割を演じる。男中心の社会の中で、虐げられる女たち。宗教的束縛から脱して生きようとする新しい人間と、これまで通りのパターン化した日常に安住する古いタイプの人間と。キリスト教という人類数千年の歴史を先駆けた(と見られる)宗教の負の側面が思いっきり強調される。21世紀の劈頭に作られたこの映画は、既に常識と化した日常的しきたりに改めて挑みかかるかのよう。欧米社会では「神」の存在を軸に全てが動く。欧州では政党の名前にキリスト教が冠せられ、米大統領は聖書に手を置いて誠実性を誓う。甘いショコラが〝禁断の味〟として挑発するように私の眼には映って、内実的には意外に難しい◆こうしたテーマが中国で、そして日本で描かれたらどうなるか。共に、宗教の有り様が「ショコラ」の風土とは違うなかで、私の夢想は広がる。明治維新の前夜、欧州の先進国家の餌食になった隣国を見て、我が先達たちは明日の我が身かと恐れた。それから150年余。共産主義的専制国家が繰り出す〝統治の罠〟と、それに抗する〝人民の乱〟は未だ、時おり聞こえてくる〝遠い砲声〟でしかない。かつての従属国家から「自立」へと脱皮し大きく飛躍した中国。だが、民衆が失ったものは余りに大きい(ように見える)。「自由」を渇望する民衆はなぜ蜂起しないのか。一方、「無宗教者天国」の日本は、お上から下々まで、自己抑制を知らぬ勝手気ままな〝無法者の楽園〟と化した(かのように思われる)。国家そのものが漂流している(かに見える)日本。そこにあって、真の「自立」を求める大衆の自由な動きはなぜか未だ起きてこない。巧克力とチョコレートは何処にあるのか。(2023-12-13)

 

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