【27】男と女の真の有り様に迫るラストシーン━━キャロル・リード監督『第三の男』を観て/3-13

 

  映画と原作の関係は通常は小説などが先に出て、映画は後に続くケースが多い。だが『第三の男』は、映画が公開されてのちに、小説が出版された。ただし、映画の構想をめぐって、監督のキャロル・リードと原作者グレアム・グリーンが綿密に意見を交わし、脚本的なものを作り上げていったとされる。名作映画のランキングで最高の位置を占め続けるものとして有名であるため、私は随分昔に観た。ラストシーンと観覧車と音楽の印象が強く、細部は忘却の彼方であった。つい最近改めて観て、その後、小説も読んだ。この小説の序文は、あたかも映画制作の経緯や評価の役割を果たす一方、とても興味深い内輪話ともいえる。映画だけしか知らないという人は是非、この一文は読まれた方がいい。私はグリーンの「この映画は物語よりも良くなっている」との記述、とくに結末についてのリードとの論争(ハッピーエンドか否か)が「結果は彼の見事な勝利だった」との潔さに感銘を受けた◆第二次世界大戦でドイツ傘下で連合軍と戦ったオーストリアは、完膚なきまでに敗北の悲哀を被った。かつてハプスブルグ家の統治のもとで栄華を誇った都市は、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連という4カ国によって4地域に分割の憂き目にあい、共同管理の体制に委ねられていたのである。その占領下の空気が至る所に伺えるウイーンを舞台に、20世紀半ばの時代背景と共に、サスペンス劇が展開されゆく。僅かながらの欧州旅(ウイーンを含む)の経験が私にもあるのだが、その街並みの中で広告塔の存在が気になった。街ゆく者の目を時に奪いかねない、日本には珍しい存在だと思ってきたが、これが意外な意味を持ち得ることをこの映画で知った。グリーンは物語(小説と映画を合わせて表現)の構想練り上げの最終段階の苦悩を、英国情報部の若い将校が昼食の機会に話してくれたことで打ち破ることが出来たと、序文の中で明かしている。巨大な地下下水道が張り巡らされ、そこで働く地下警察の存在である。そこへの隠された入り口を果たしたのが広告塔であり、この物語の中で、「第三の男」が神出鬼没をしたカギを握ったのだ◆緊張感漂うこの厳しい冬の物語の中で、一陣の温風の役割を果たしているのが、主人公(ジョゼフ・コットン演じるマーティンズ)の筆名デクスターと同姓の高名な作家と取り違えられたエピソードである。講演者と勝手に間違えられた彼が、参加者から厳しい質問を受けたり、サインをする場面は本筋とは関係ないが、著者の息抜きサービスとして妙に面白い。それに加えて、小説にはウイーンを占領した4カ国の国民性めいたものを忍び込ませている。ヒロイン、アンナ・シュミットが着替えをする場面に居合わせた4人の対応について《ソ連兵は、性的興味とは無縁で、ただ自分の義務を果たすだけ。アメリカ兵は騎士らしく背を向けながらあれこれ意識していたはず。フランス兵は衣装ダンスにうつる女の着替える姿を冷ややかに楽しむ。イギリス兵は次にどんな手を打つべきかと思案しながら、廊下に立っていた》──これは欧州で時にもてはやされるジョーク集を連想させられ楽しい◆第三の男、ハリー・ライムを演じたオーソン・ウェルズが観覧車の中で、かつての友ジョゼフ・コットンから、闇のペニシリンで人間の生命を奪ったことを批難される。その際に、「ボルジア家の三十年の圧制はミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてルネサンスを生んだが、スイスの五百年のデモクラシーと平和は何を生んだ?鳩時計さ」との名セリフを吐いたことが印象深い。これは原作になく、ウェルズが19世紀のイギリスで活躍したホイッスラーのある文章から脚色したものだとされる。今の日本に使ってみたい誘惑に駆られるものの、ただ、それは戦後100年足らずの平和のなかでの、この30年の無為との対比になりそうで、持ち出すのは憚れる。むしろ、映画のラストシーンでアリダ・ヴァリ扮するヒロインが並木道の向こうから歩いてきて、毅然とした表情を崩さず、佇む男に一瞥もくれず歩み行く姿が、新旧2人のいい加減な男への訣別のメッセージに私の眼には写って、慄然とする。(2024-3-13)

 

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