映画『オルフェ』は、1950年にフランス・パリでジャン・コクトー監督によって作られたもので、当時から今に至るまで、不滅の誉れ高い位置を占めている。それもそのはず、死後の世界と現実とを交流させたいという人類にとって、ある意味で〝見果てぬ夢〟に挑戦した作品だからであろう。その狙いが成功したかどうか。それは観る人によってそれぞれ違うのだろうが、恐らくみんなに共通することは一つだけはある。それは、しっかり観た人にとって、少なくとも「生と死というもの」を考えさせてくれる糸口になるってことではないかと私には思われる。ここでは私がどう考えたかの一端を披露してみたい◆この映画のあらすじは、詩人であるオルフェが妻を自転車事故で失ったことをきっかけに、死の世界の王女(死神とも表現)に惹かれてしまい、共に愛し合う仲になるというもの。その背後には、ギリシャ神話のオルフェウス(オルペウスとも)伝説なるものがある。その伝説とは日本人にはあまり馴染みがないが、ヨーロッパ世界では人口に膾炙しているもので、毒蛇に噛まれて命を落とした妻を恋慕って、冥府下りをする(あの世までいく)夫の話である。日本で言えば、『日本書紀』や『古事記』におけるイザナギとイザナミの神話との類似性を思い起こす。ここでは、現代フランスに舞台を移して果敢に映画で人間の死後を描いたものだと私には思えた。ジャン・マレー扮するオルフェと、マリア・カザレス演じる死神との愛と、オルフェの妻と、もう1人の死の世界の住人(王女の使用人)との愛といったダブル三角関係の様相を絡めて物語は進む◆カザレスの壮絶なまでの存在感に、死神とはこんなものかとの奇妙な錯覚に陥りかねないが、観るものは確かに圧倒される。ところで、この映画で最も興味深いのは「鏡の存在」(姿見といった方がいいかも)である。現実と冥府──つまり、あの世とこの世に出入りする入り口、出口の役割を鏡が果たすのだ。特殊な手袋──いわゆるゴム手袋をはめると、難なくくぐり抜けられる仕掛けはまことに興味深い。鏡とは、人間が本来的な意味で見たことのない、自分の顔を映し出す。自分ってこういう姿かたちをしているということを分からせるものが鏡である。赤子や猫や犬に初めて鏡を見せた時の印象が思い浮かぶ。自分探しの契機としての鏡を、あの世とこの世の通用門にするとは、なかなかのシンボリックな試みであると思われる。普段はさして思いを込めて見ることのない我が面だが、じっと探し見つめると味わい深いかもしれぬ。鏡をくぐってからの映画でのあの世の様子は、なんとなく地獄の沙汰を申し付ける場のようで私には興味を持てなかった◆死後の世界にいく道程で、今現在の私が興味を持っている境地の一つは、医師で気功家の帯津良一氏の持論である、死ぬ時は虚空に飛び出すロケットのように元気いっぱいに、というものである。これはにわかにはストンと落ちないが、その前段、予備段階としての気功の効用はなんとなく分かる(ような気がする)。曰く「私たちは死して後ち、虚空の懐に帰り、虚空と一体となるのだから、これのリハーサルが生命の躍動と言うことになる」と。具体化をめぐっては禅宗などの影響が強調されていて興味深い。イメージとしてはそれなりに腑に落ちる。尤も、私の60年近い日蓮仏法の日常は、もっと凄い。朝な夕な朗々と声を出して南無妙法蓮華経と唱えて、ご本尊を拝む時に、自分の生きてきた道と交流してきた人たちに思いを馳せつつ、これから先の人生への希望や死にゆく覚悟を定めゆく。これこそ自然なかたちでの次の世へ向かうための日常的リハーサルであり、覚悟の鍛錬だと確信される。時々傍にそれてぐらつくことはあるが、それもまたご愛嬌だと思っている。(2024-4-7 一部修正)