【37】川端康成の愛の行方と吉永小百合━━映画『伊豆の踊子』を観て/6-3

 原作は川端康成初期の小説『伊豆の踊子』。この小説は過去に6回も映画化されている。私がこのたび観たのは1963年(昭和38年)に製作されたもので、主演の踊子役は吉永小百合。その踊子に心惹かれる学生を演じたのが高橋英樹。原作は川端の若い学生時代の実生活をもとに描かれており、映画では後にその学生が教授になり、過去を回想する体裁を取っている。大学の大教室での講義が終わった後の帰り道で、その教授が若い男子学生と踊子(ダンサー)のカップルから仲人を頼まれるシーンで幕が開き、伊豆での若き日の思い出に浸っていく。川端には母と父を生後ほどなくして失った辛い幼少年期の〝孤児としての影〟が青年期を通じつきまとった。この旅の背後には鬱屈した思いを吹き払おうとする心情があった。天城峠のトンネルを出たところでの偶然の出会いから下田で別れるまで、彼が旅の芸人たち一行と行動を共にする数日間が描かれていく◆映画は小説にも増して、瞬時に登場人物の心の動きを表す。吉永小百合扮する薫に出会った一瞬に学生も心を掴まれる。二人の眼の動きと仕草が全てを物語る。旅芸人の立ち入りを咎める立て札が目に入り、子供たちが芸人たちを蔑む言葉を発しながらまとわりつく。その映像が歓迎されざる一行を暗示するも、それは表のこと。裏では民の心を〝旅の芸〟は掴みゆく。賑やかな鳴り物に合わせての踊り子たちの舞が、旅籠での空気を和ませ、人の心を宣揚せずにはおかない。同宿の客の囲碁の相手をするも、かなたからの歌舞音曲に混じっての嬌声が気になって学生の心は昂まるばかり。〝お座敷〟のあとに、囲碁の相手をするとの薫の言に胸弾ませ待っていたら〝五目並べ〟だったり、露天風呂から手を振る無邪気な仕草さなどに、しだいに歪み捻くれた学生の心が解き放たれいく◆私の「読書遍歴」に川端康成の「指定席」は少なかった。「美」よりも「理」を追う性癖は、漱石や鴎外に向かったからだ。しかし、議員を辞めた定年後に森本穫(賢明女学院短期大学名誉教授)という康成研究の第一人者と知己を得る幸運に巡り合ってより一変した。先日も映画を観た後に、その〝観想〟へと水を向けた。同先生から早速次のような文章で返信メールが届いた。「『伊豆の踊子』にはいくつかの脚本によって映画が作られてきていますが、ご覧になった高橋英樹と吉永小百合のものが一番素晴らしいと思います。村の入り口にバーンと『物乞ひ 旅藝人 村に入るべからず』との高札が出てきたり、踊り子の友達が哀れな姿で病に苦しんだ末に死に、やがて人知れず葬られる場面が出てきますね。あれって原作には具体的には書かれていない。原作に根ざす濃密なテーマをしっかり描きこんだ、まことに優れた脚本です。踊り子が社会的に差別を受ける身だったこと、一歩間違えると悲惨な死を迎えかねない存在であったことが汲み取れます」。嬉しい便りであった◆実は私は大学生時代(昭和40年/1965〜昭和43年/1968年)に映画のエキストラを一時アルバイト(時給600円)でやっていた。日活・布田撮影所の日映プロダクション専属だった。まさにその頃、高橋英樹の映画に〝その他数名〟役で出た。とあるセットの中でのこと。彼を取り囲んだ車座の中から「映画もいいけど、本当は俺は舞台に出たい」というような声が聞こえてきた。吉永小百合との〝競演〟がなかったのは残念だが、稲垣美穂子とは袖擦り合わせる場面があったのは懐かしい。その吉永小百合について、森本穫先生は先のメールの最後に、「映画が公開された昭和38年頃、川端は吉永小百合にぞっこんで、その後も彼女への愛を隠そうとしませんでした。彼には根源的に社会から疎外された美しい少女に惹かれるという強い傾向がありました。伊豆の踊り子も、伊藤初代ものちの養女政子も、さらに『事故のてんまつ』のモデルの女性も同様です」と記されていた。同先生は昭和37年早大法学部入学。後に早大第一文学部を卒業されている。吉永小百合は昭和44年に同大第二文学部を卒業しているので、広い意味で先輩に当たる。川端への羨望も仄かに漂ってくる。サユリストだった私は嫉妬すら感じてしまった。(2024-6-5 一部修正)

 

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