【45】遙かなる山にこだまする〝あの少年〟の声━━『シェーン』を観て/7-27

 米国の西部劇を子どもの頃にいっぱい観て育った日本人は、年老いて北海道を舞台にしたドラマを好むように思われる。倉本聡の『北の国から』などその最たるものだが、今回取り上げる『シェーン』は、ご存知、高倉健主演の『遙かなる山の呼び声』をそのリメイク版とする。西部劇に対して「北部劇」と呼んでみたくなる。西部劇を成り立たせる要素は、場所としての、雄大な風景、牧場、酒場、留置場。衣装としてのテンガロン・ハット、スカーフ、ガンベルト。小道具としての拳銃やライフル、投げ縄。登場人物としてのカウボーイ、ガンマン、保安官、酒場の女。そして物語の形式としての、放浪、追跡、捜索、決闘、恋愛といったものが欠かせない。これはある英文学者の見立てだが、北部劇はどうだろうか。西に対して、北とは、私の拙い思いつきだから、素っ頓狂に聞こえるかもしれない。しかし、これからそれなりに流行するのではないか、と私は睨む◆さて、『シェーン』である。この映画は、ひとりのガンマン(シェーン)が、農夫のジョー・スターレットとマリアンの夫婦2人に7〜8歳の少年という3人家族の前にぶらり現れるところから始まる。理不尽な荒くれ牧童たち(ライカー一家)と、真面目で律儀な農夫たち(スターレットが中核)の土地をめぐる争いにシェーンが巻き込まれることになる。おもての見どころは、リアルで壮絶な殴り合い。酒場に居合わせた男たちとシェーンの多勢に無勢の喧嘩のシーン。次いで、シェーンとジョーの1対1による、どっちが悪漢たちに立ち向かうのかをめぐる、奇妙なぶつかり合い(ジョーが打ち負かされる)。そして最後のシェーンと2丁拳銃の殺し屋を軸にした1対数人の室内での銃による撃ち合いである。いずれもその迫力に息を呑む。最後の拳銃による殺し合いの場面は少年ジョーイが愛犬と共に一部始終を目撃している。敵の動きを察知して声を上げてシェーンに知らせ、危機一髪で救う名場面は忘れ難い◆一方、内面的な見どころは、家庭内における「幸福」をめぐる夫婦の価値観の違いという側面であろうか。ライカーたちから話し合おうとの名目で誘き出され、罠に嵌められようとした際に、命懸けで立ち向かおうとするジョー。ぎりぎりの選択が迫られる中での夫婦の会話が胸を打つ。家庭の安寧を求めてこの場所を去ってでも「生きよう、命を大事にせねば」というマリアン。それに対して、ここで逃げては夫して父としての面子が立たないと、死をも覚悟して挑もうとする夫。しかも、万が一の場合はシェーンに後は託すとの言葉まで発するのだ。この究極の選択が絡んだ場面は切なく愛おしい。公開後ほぼ70年が経った今なお、この映画が人々のこころをとらえて離さないのは、なんと言っても最後の最後にジョーイ少年が「シェーン!カムバック」と叫ぶシーンに違いない。よく耳をこらすと、父さんも母さんも戻ってくれて一緒に暮らすことをのぞんでいるってセリフがついている◆ジョーイ少年は、父と母の、とりわけ父の思い詰めた決断の底部を知らずに、「帰ってきて〜!」と叫んだ。英雄に憧れる少年のひたすら純粋なこころの表れだ。だが、仮に戻ってきたら、どうなったか。外なる敵は始末できて地域社会的には平和になっても、家庭内には恐らく三角関係が行き着くところ、破綻しかない。内なる敵の出現で地獄になること請け合いだ。野暮なる想像をしてしまったが、そういう邪推とは大きく離れて、映画をジョーイ少年と同じ目線、立ち位置で観てきた映画鑑賞者は、純粋に少年に同化してしまう思いは抑え難い。両目の座り加減が面白く印象的な子役で、役柄にピッタリだった。この少年役を演じたブランドン・デ・ワイルドがその後どうなっていったのか。実生活で子役から大人の俳優になっていく経緯を追ってみたくなるのは人情に違いない。しかし、残念なことに、彼はそれなりの活躍はしたものの、若くして交通事故で死んだという。(2024-7-27)

 

 

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