南北戦争時代のアメリカ南部を舞台にしたこの映画は1939年(昭和14年)の制作。映画史上燦然と輝く名作である。比類なき映像の美しさと共に、ヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブルの名優2人の絡み合いが最後まで気を揉ませ、映画の醍醐味を存分に味わえる長編大作だ。Gone with the Wind という英題は、古き良き南部が風と共に消え去ったとの意が込められたものだという。マーガレット・ミッチェルの原作が世に出たころを経て2025年のいまを考えると、「南北分断」の再来のように思われ、感慨深い。かの戦争は150年ほど前のことで、まさに米国を二分する内乱だった。トランプ大統領が再登場した今はまた、共和党と民主党との政争というより、「トランプか反トランプか」の争いで、国家分裂の事態すら起こりかねない様相である。その意味では、映画を観ながら Come with the Wind (風と共に来たる)と、「恐怖の再来」といってもいい事態が到来したのではと、頭から去らなかった。いくつかのポイントを挙げながらこの映画の見どころを追ってみる◆まず、アメリカという国は周知のように移民の国である。そもそもはイギリス人たちが原住民を殺戮、追い払うようにして1776年に出来上がった。その頃から今に至るまでヨーロッパ各国からの移民が多いが圧倒的な数を誇るのはアイルランド人といわれる。この映画の冒頭近く、素晴らしい夕焼け空をバックに父親ジェラルド・オハラが巨大な樹木の下で、娘スカーレットに語るシーンが印象的だ。「土地こそこの世で命より尊いものだ。永遠に残るからだ」と述べる父に対して、「アイルランド人ね」と、娘がいう。それに対して「そうともわしの誇りだ。お前も同じ血を引いとる。アイルランド人にとって土地は、母親と同じ。お前もいつか土地への愛に目覚める。アイルランド人だから」と父親が強調する場面である。かねて元駐在大使の林景一さんの著作『アイルランドを知れば日本が分かる』で、彼の国に魅せられた私だが、ラストシーンで、ヒロイン・スカーレットが生まれ故郷タラで再起を期すところを観るに至って、土地への凄まじいまでの執着に感じ入らざるを得なかった◆従来からの私の米国映画観は、いわゆるハッピーエンドで終わるものとの思い込みが強かった。フランス映画に見るような、シニカルタッチでの展開とは無縁なものだとの印象だったのである。ところがこの映画は違った。入り組んだ人間関係の組み合わせの中で、スカーレット・オハラとレッド・バトラーの主役2人の個性がもたらすすれ違いが最後までやきもきさせるのである。これがうまく元の鞘に収まっていたらどうだったかとの想像もして見るのだが、妄想の類いかもしれない。思えば、この2人は共にエゴイスティックな性格で似ている風がある。脇役の存在であるアシュレーとメラニーの夫婦が色彩でいうと、ライトブルーなのに比して、深紅の極みに近い。落ち着いて考えればうまくいく組み合わせではないのだが、小説と違って映画のスピード感では早すぎて、追いつかない。ましてや抱擁する2人の映画ポスターによる既成観念が邪魔をしてしまうのだ◆もう一点。この映画の味は、黒人女性俳優の存在感がズッシリと重いことだ。マミーと呼ばれる召使役で登場するハティ・マクダニエルという女優だが、その堂々たる体躯、面構えもさることながら、米国南部に根ざした黒人女性のダイナミックな演技力には圧倒された。黒人女優として初の助演女優賞に輝いたというのだが、さもありなんと思った。これまで私の観た映画では『アラバマ物語』に登場する黒人メイドが好感度No.1だった。母親不在のグレゴリー・ペック演じる男やもめ家庭での娘へのしつけぶりは、光っていたからである。日本でもかつて存在した「女中」にも、出色の人がいたろうが、残念ながら映画の場面では思いつかない。ともあれ、この映画の裏舞台に登場するリンカーン大統領が米史上No.1の人気を誇るが、現在只今のトランプ大統領はいったいこの先どう展開するつもりなのか、と疑念は果てない。(2025-1-26)