【23】漲るフランスの逆説風反骨精神━マルセル・カルネ監督『天井桟敷の人びと』を観て/2-13

 世界でも屈指の恋愛映画をみたのか。それとも、歴史上類い稀なレジスタンス映画をみていたのか。いずれにせよ、フランス映画『天井桟敷の人びと』(マルセル・カルネ監督)は、とてつもなく魅力に溢れた名作であることは間違いない。若かき日には、主演の女優と男優のインパクトの弱さ(双方共に私の主観ではあまり顔かたちが美形ではない)が気になった。それに比べて脇役の男たち(女たらしの俳優、泥棒詩人、大富豪の伯爵、乞食まがいの変な男)の強烈な個性溢れる存在感が印象に残った。前編(「犯罪大通り」)と後編(「白い男」)の主演女優の大人の女の魅力に紛らわされた(のかもしれない)。一方、年を経て今再びみると(正確にいうと、解説付きで)、がらり雰囲気が変わってきて、一筋縄で捉えられないフランスという国と人びとの凄みが伝わってくる◆そう、この映画の一般的なみかたをここで繰り返してもあまり意味がない。ここではレジスタンス映画(ではないか)との観点からのアプローチをこころみたい。全てのポイントは、この映画が実際に作れらたのが、ナチスドイツにフランスが占領されていた1942-1944年ぐらいのことだったという点であろう。日本も主たる戦争相手(米国)に占領されたが、それは戦争が終わってからのこと(1945-52)だった。フランスは、ヨーロッパ全体が戦争で疲弊し未だ続いていたさなかの占領だった。ただし、映画の時代設定は、1820年頃、19世紀前半。フランス革命からほぼ30年後。日本でいえば、明治維新前50年くらいの江戸時代後期にあたる。ともあれ、注目せねばならないのはナチスの占領下に作られたということだ◆映画のファーストシーンは、芝居小屋で賑わうパリの大通り。エンディングはカーニバル(ここでは謝肉祭)の風景──幕開けと幕が降りる舞台を見上げ、見下ろす観客を捉えきって、映画は終始する。舞台の真下の席や左右の特別観覧席、はるか後方最上階の天井桟敷とを対比させつつ。繰り返すが、公開された時は戦争終結前だった──庶民の活気に満ち溢れたシーンで始まり、お祭りの騒ぎの中で終わる。これは凄い。暗い気分など吹っ飛ばす勢いに感嘆する。「自由・平等・博愛」の気分が横溢していた「革命後」から、ナチスの傀儡ヴィシー政権下のフランスへ。この映画の前編では落ち目だが自由奔放な女芸人のガランスが、後編では富豪の囲い女として、財産はあれども、不自由極まりない女に変わった姿で登場する。この一身の変化はフランス国家の変貌ぶり(表面でなく本質的に)と重なると見られるのかもしれない。恋する男との変わらぬ愛と、そして変わってしまった生活。フランスという国が、そこに住む人びとが、あらゆる意味で個性豊かであり、反骨精神に満ちた逆説を駆使する存在だと知った(そういう見方を提示された)者として、この映画を素直に恋愛映画だとみることはできなくなる◆確かに、洒落た名セリフ「恋するものにパリは狭すぎる」「貧乏人から自由な愛まで奪うの」などや巧みな小技が満載、随所に挿入されていた。極めつけは、主役の女優の名前が「ガランス」だということか(もしれない)。これは「フランス」とほぼ発音が類似している。エンディングで主人公のバチストが「ガランス!ガランス!」と何度も叫ぶにつけて、「フランス!フランス!」と祖国の名を叫んでいるように聞こえる。という、フランス文学者の野崎歓(東大名誉教授)の着眼が鮮やかに光る。熟達の士の「映画解説」を知って、まるで自分は違う映像を見ていたかのように感じてしまう。我が身の鑑識眼の拙さに哀れが募る。いや、「手品師の種明かし」を知ってしまった〝禁断のお得感〟に身が震えてくる。(2024-2-14)

 

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