地下鉄サリン事件の忌まわしい記憶ー「テロとの戦い」の時代は終わらない➂

テロとは、「政治的な目標を達成するための暴力的戦略」とされる。かつて明治維新前夜には我が国内でも横行したことを記憶にとめておられよう。だが、テロに対する現代日本人の感覚はどちらかといえば、疎いという他ない。それでもある程度呼び覚まされたのは、23年前のオウム真理教の起こした地下鉄サリン事件によるところが大きい。「9・11」よりも前に、日本社会を根底から覆そうとした大掛かりな事件だったが、当初はこれがテロだとの認識が弱かったように思われる。阪神淡路の大震災が発生したと同じ平成7年に起きた故か、その影に隠れた側面はなきにしもあらずだ■オウムという特殊なカルト宗教団体への生理的嫌悪感とでも言おうか。あまりに荒唐無稽で唐突な事件だったことも手伝って、リアルさが希薄だったのかもしれない。真正面から事の本質が日本転覆をねらった「テロ」として受け止められなかった気がする。当時ある参議院議員が「これこそテロだ」と予算委員会だったかで、力説していたことが思い起こされるがあまり共感を呼んでいたとの印象はない■オウム真理教をめぐるすべての刑事裁判は、このほどようやく終結することになった。最初の公判が始まってから22年半。192人が罪に問われ、うち13人に死刑が言い渡されている。このオウム教団は自分たちが勝手に思い描いた「救済」を、一般大衆に向けて実行しようとした。そのための手段を選ばず、独善そのものの狂信的行動に走った。そこにはIS が自らの王国をつくるために、「異教徒」を全て敵とみなし、攻撃の対象としてきたことと、本質的に違いはない。尤も、オウムとIS とを比べると、普通の人間との差異ばかりが目立って、テロの依って来る根本的原因が見えにくくなるやもしれない。むしろ150年前の日本を思い起こす方がよりテロの本質が分るように思われる。「維新の志士」という美名で語られることが多いが、その実、彼らは自分たちの目指す政治的信念を貫くために邪魔になる存在はことごとく倒すべし、とテロ行為に走ったと言えなくはないのである■近年、「明治維新見直し論」が盛んになってきている。一言で言えば、いわゆる「司馬史観」なるものが維新を美化しすぎているとの批判がその背景にある。吉田松陰が作ったとされる「松下村塾」の実態はなく、彼は単にテロの首謀者だったとの作家・原田伊織氏の「『明治維新という過ち』説」は興味深い。いささか極論のそしりはまぬかれないにせよ、この辺りはしっかりと史実に沿った形で吟味される必要があろう。松陰の思想と行動をつぶさに追えば、確かに「テロ礼賛」と見ることもあながちオーバーといえないかもしれないからだ。尤も、司馬遼太郎氏も原田伊織氏も共に行き過ぎで、「真実は中間にあり」というところだろうが■ここで言いたいのは、日本にもテロの伝統が厳然とあるということである。言い換えれば、テロを認める気分が国民のうちに内在していることだ。例えば、核兵器を弄ぶ北朝鮮の指導者の横暴ぶりに業を煮やす人々の間で、彼を亡きものにすればすべては収まるとの議論がある。また、およそ常軌を逸した言動をする米大統領を前にして、彼さえ倒れれば、とまことしやかな議論を口の端に登らせる向きもあろう。これらは単なる井戸端会議や床屋談義かもしれないが、であるがゆえに一層国民の間に広く内在する「テロ待望論」と言