【45】悪戦奮闘の「自公選挙協力」の幻影━━兵庫県のケース/10-25

 公明党の連立離脱の余波は続く。その最大のものは、これまでの「自公選挙協力」はどうなるのかであり、それが野党との関係に何をもたらすかであろう。長年苦労して培ってきた人間関係が簡単に断ち切れるものかどうか。また逆に対野党とのケースも複雑だ。私の住む兵庫県では他県にない特殊な歴史的所産もあり、単純ではない。この例を通して全貌を推し量る一助としていただければ。

⚫︎公明党嫌いの自民党議員との選挙応援演説のエピソード

 「自公選挙協力」といっても当然のことながら参議院と衆議院とでは随分違う。兵庫県の場合、法改正で参議院の定数(改選選挙時)が1995年に1減の2になった。それ以後残念ながら不戦敗を余儀なくされた。だが、21年後の2016年に、また元の3になり今に続いている。9年前から今年までの3度の選挙では、公明党は自民党と、共に政権与党内候補として、文字通り組んずほぐれつの選挙戦を繰り返してきた。

 実はその狭間での定数2で公明党が候補をださなかった時代において、自公連立政権を組んでからというもの、公明党は自民党候補を応援することになった。この参議院選挙協力をめぐって私には忘れられないエピソードがある。今回の高市早苗首相誕生の隠然たる立役者が麻生太郎氏だったことから改めて思い出した。麻生氏といえば、鴻池祥肇(こうのいけよしただ)氏(兵庫選出の政治家=故人)。この2人はJC(青年商工会議所)幹部当時からの盟友。天下御免の兄弟分(麻生氏が一個歳上)として知られていた。

 2007年の参院選での三宮駅南での街頭演説でのことである。鴻池氏は自分の演説の際に聴衆に向かってこう切り出した。「皆さんの中で公明党の人、創価学会の会員の人おるか?あんたら、ワシのこと応援せんでええで。そんな応援してもらわんでもワシ通ったるから」。県公明党を代表して応援演説をするべく並んでいた私は、その発言は無視して、こう演説した。「皆さ〜ん。鴻池祥肇さんは、神戸一中(現神戸高校)出身、僕、赤松正雄は神戸三中(現長田高校)出身。鴻池氏、早稲田大学出身。赤松、慶應大学出身。鴻池さん、垂直思考、赤松、水平思考。鴻池さん何かと派手で目立つ。赤松はしぶくて地味。(大笑い)皆さ〜ん。我々2人は何もかもがこんなに対照的で食い違っています。しかし、一点だけ共通することがあります。それは何か。それは民主党(当時)や共産党候補には断じて負けたくない。この一点なんです(拍手)」こう大声でぶったものです。ところがこのあと、鴻池さんは2人だけになった時に「あんたのさっきの演説はなあ、大事なことが抜けとるで。あんたとワシとは憲法観が違うんじゃ」ときた。

 鴻池さんは、こんな例を出さずとも公明党の理念、成り立ちに対して反発され、嫌悪感をお持ちだった。これを変えさせることも叶わず、永遠の別れ(2018年逝去)をしてしまったのは悔やまれる。麻生さんも鴻池さんと同様に、公明党との連立は早く解消すべきだと思ってこられたことは想像に難くない。

⚫︎「小選挙区は自民、比例は公明」のまぼろし

 一方、衆院選挙での相互支援はもっと複雑だった。小選挙区比例代表並立制が導入されて、兵庫の場合は定数1の全12小選挙区のうち、2区と8区に公明党が候補を立て、それ以外の10選挙区は自民党だった。その10小選挙区の自民党候補を公明党が支援する代わりに、「比例区は公明党へ」と自民党陣営は応援してくれるというのが建前であった。この変型バーターは中々困難を極めた。全国でも、うまくいったケースや難しいケースなど様々であったと思われる。小選挙区候補者の人物にもよるものの、長年の自民党支持者が「公明党」と書くということに抵抗は大きかった。逆も同様なのはいうまでもない。

 兵庫の場合でも12小選挙区のうち、1選挙区の候補者が公然と相互支援を拒んだことがあり、ギクシャク感は濃淡の差はあれ付き纏い続けた。それでも20有余年の歴史の中で、公明党にそれなりのシンパシーを感じてくれる候補者も少しづつ増えてきていた。中には、引退してからも現役時代同様に自身の後援会名簿や関係者のリストをたくさん提供してくれる得難い人物もいることは特記する必要があろう。

 近未来に行われる総選挙では、公明党は小選挙区での選挙協力を人物本位で行うものと見られる。これまでの自民党との関係を御破算にして野党候補にスンナリ行くことは考えづらい。それぞれの地域ごとでの候補者個人の人となりや政治家としての力量によるというほかない。野党との関係でいえば、兵庫県ではかつて労組「連合」を軸にして「連合五党協議会」(略称、五党協)が結成(1994年)された。この枠組みのもと、ポスト自民党の受け皿作りに腐心したのだ。ちなみに結成された時の五党とは、社会党、民社党、新生党、日本新党と公明党である。公明党以外の党は全て消え去ってしまった。

 発足当時の連合兵庫のトップ石井亮一氏が私の出身高の先輩(弟君が同期生)だったこともあり、親近感を抱いたものである。あれから30年が経った。日本維新の会の前身である大阪維新の会が大阪自民党から分裂して誕生したのは2010年。15年前のことだ。「時間の政治学」と〝人の世の交際術〟とが興味深い交錯の彩を見せるときがきた。明治維新(1868年)以来の日本の歴史に、敗戦(1945年)を経て、二度刻印された「77年の興亡」。三たびのサイクルが動き始めた年(2022年)から3年。コロナ禍、ウクライナ戦争、ガザの悲劇と続きゆく一大転換期が日本でも本格的な幕開けの刻を迎えたようだ。(2025-10-25)

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