参議院選、都議選が踵を接して待ち受けるなか、8日には尼崎市議選が告示されました。本日10日は、前回(5日)からの2人の友人の変身について、もう1人の友を取り上げ掲載する予定でしたが、急遽変更して、「尼崎から西宮への出会いと語らい」をお伝えします。(〔下〕は15日付けに)
⚫︎35年前の「候補付き」との「共戦再現」
同市議選(定数42)には公明党から12人が挑戦します。現職10、新人2です。そのうち朝10時半からの第一声に僕が駆けつけたのは、土岐(どき)良二候補の事務所でした。実は1990年(平成2年)の第39回衆議院選挙に初挑戦した際に、姫路独協大生として支援の戦いを展開してくれたのが土岐君だったのです。いらい35年。文字通り、光陰矢の如し。当時の学生も尼崎市議になってから4期16年が経っています。そしてあの頃候補者だった僕も、引退して12年です。
この日は、当時土岐君と「同期の桜」だった河本芳樹君も細君と一緒に和歌山市から駆けつけてくれました。彼は僕の衆議院初挑戦の時の「候補付き」として、車の運転を始め身の回りのことをお世話してくれた「恩人」でした。つまり、遠い昔の共戦の仲間3人が年を経て集まったというわけです。これまで各種選挙ごとに幾度となく戦ってきて、その都度独自のやり方━━自分の気分が盛り上がるまで工夫を凝らすのがポイント━━を実行してきましたが、今回のケースは僕にとって大いに楽しく意義深いものでした。〝楽しくなけりゃあ選挙じゃない〟という自論を改めて実感したしだいです。
事務所びらきのあと、友人宅訪問を個別や合流して回ったりしましたが、35年前の「候補付き」との「共戦再現」は、少々大袈裟ですが、万感胸に迫るものがありました。尼崎はこの半世紀、「最強兵庫」構築の先駆を切ってきた土地だけに我が友人たちも市内隅々に散在しています。この日は私が顧問を務める一般財団法人「日本熊森協会」関係者や、同じく一般社団法人「AKR 共栄会」事務局メンバーに加えて、垂水中学校同窓の仲間宅を訪問して、玄関先での〝束の間の熱い語らい〟を重ねました。手応え十分でした。
⚫︎「元女子大生事務員」の成長した姿に感激
この日午後は尼崎市と境を接する西宮市甲子園口に住む、私の現役時代に事務員を務めてくれたIさんのおうちを訪問して久闊を叙するひとときを持ちました。彼女は当時上智大生で、憲法学の権威・樋口陽一教授の教え子。フラメンコ愛好会のメンバーでもあった知性とユーモア溢れる元気いっぱいの女性でした。僕の事務所は彼女を始め上智、中央、慶應、創価など女子大生ばかりをアルバイターとして雇用していた知る人ぞ知るユニークなところだったのです。
彼女は大学卒業後、南太平洋にある有名なホテルに就職し、フランス人男性と職場結婚をしました。これまで30年近い歳月を遠くから見たり聞いたりして、その後の成長ぶりに、目を細めてきたものです。10年ほど前に会った際には未だ小さかったお子さんも、高校2年生の男の子は逞しく、中学2年生の女の子は爽やかな目を見張るほどの変貌を遂げていました。
夫君との流暢なフランス語でのやりとりを耳にした後、懇談は僕がこのほど上梓した拙著をめぐる話題から高校サッカーに至るまで多岐に渡りました。あっという間の40分間で、「選挙」が口の端に登らなかったことを別れ際になって気づいたほど。来月12日に開く僕の出版記念交流会での再会を約束して別れました。30年前の女子大生の確かなる母親への変身を目の当たりにして、この出会いも「選挙」のおかげだとの充足感と幸福感を持ちつつ、「共戦の友」と一緒に、次の場へと移動する車に乗り込んだものでした。(2025-6-10)