23日に開かれた「姫路慶応倶楽部・夏季例会」でのこと。「独立自尊とイノベーション」という演題で三木則尚・慶應義塾大学理工学部教授の講演を聴いた。冒頭、同大理工学部の国際交流委員長や体育会スケート部部長として活躍される姿が映像で紹介され、参加者との一体感が一気に高まった。講演前半では「失われた30年」と言われる日本を取り巻く厳しい「時代の変化」が世界各国との比較を通じて赤裸々に認識させられた。後半はこれからどうするかについて、福澤諭吉の知恵としての「独立自尊」の精神で乗り越えていこうとの興味深い展開だった。以下、この講演を受けての所感を述べてみたい。
⚫︎福澤諭吉の「教育でなく発育を」の論議はなぜ無視されたか
三木教授の講演は「我が意を得たり」そのものの内容で、爽快さを覚えた。とりわけ、明治維新から77年後の1945年の「敗戦」と、更にその後77年経った2022年の「敗北」という2つの77年間を対比させての現状認識の披瀝については、拙著『77年の興亡』を著した者として大いなる共感を抱いた。ただ、今日の事態を招いた背景として「教育」に因ありとの指摘については、かねてからの僕の疑問に触れられなかったことがいささか気になった。それは、福澤諭吉自身が『文明教育論』(明治22年)の中で「教育の文字甚だ穏当ならず、宜しく之を発育と称すべきなり」と述べていることに関わる。「教育」との呼称が〝上から目線〟であるのに比して、「発育」は〝内からの発想〟で斬新だと思われる。明治の「文明開花」期における最大の着眼点と言ってもいいのに、殆ど無視されてきたことは不思議に思う。
講演後、この辺りについて同教授のお話を直接伺った。「福澤の教育論がなぜ受け入れられずにきたのでしょうか。今日のお話でもその点に触れられなかったのは画竜点睛を欠くと言わざるを得ません」と率直に問いかけたのである。三木教授は、「いやあおっしゃる通りです。実は大学でも自分はそのことをいうのですが、皆さん何故か殆ど同意頂けないのです。これからは貴方の言われることをも加味して講演でも使っていきます」と、全面的に同意を戴いた。積年の疑問を解くと共に「教育改革」への強力な同志を得た思いでとても嬉しかった。
福澤諭吉は「教育」ではなく「発育」という言い方をすべきだと言ったものの、その後の明治日本では受け入れられず、むしろ「教育勅語」の定着化に代表されるように、真反対の方向に流れた。「教育」は、軍国主義日本としての「画一的に教え育む」用語として縦横無尽に一人歩きしたことは周知の通りの歴史的事実なのだ。
⚫︎「戦後民主主義教育」でも続いた封印はどうしてか
何故にこんなことになったのかという問題意識をこのところ僕は持ち続けている。福澤が論考で発信した当初は、「西洋事情通」らしい発想の所産として注目されたのだが、直ぐに明治日本の土壌には受け入れられないとの空気が支配的になった。統治の有り様として一定方向に教えることが肝心で、個性を育む多様化は、近代国家作りには馴染まないということになったのだろう。この流れに対して、福澤がどういう反応を示したかについては、あまり世に知られていない。ただ、自論を撤回したのではなく、世の風潮に同意せざるを得なかったのだろうと僕は見ている。いかに福澤とはいえ、文字通り「衆寡敵せず」の状態を突破するのは難しかったに違いない。
むしろ僕が疑問に思うのは、戦後日本の再出発にあたって、米国の教育制度の導入という事態においてこそ「発育」が受容されるべきチャンスだったのに、やはりそれが受け入れられず、封印されたということである。占領期の前後に「教育か発育か」との論争があったかどうかは定かではない。明治以来の「教育勅語」に代わって「戦後民主主義教育」という呼称で世に流れ出でたものの実態は、個を尊重するというよりも全体を平等に一歩前進させるものとして定着していった感が強い。
高度経済成長期を通じての「詰め込み教育」か、それに対抗する「ゆとり教育」かとの論争はあったが、福澤が提起したような、「外からのお仕着せでなく、内在的なものを引きだすのか」との論議はなされてこなかったように思われる。ようやく個性豊かな多様化の時代が叫ばれている折にあって、日本の「教育」の有り様が改めて問われだしている。今こそ福澤の「発育」論に陽の目を当てていきたいものである。(2025-8-25)