Monthly Archives: 2月 2018

国連への期待寄せるSGI提言の重みー「テロとの戦い」の時代は終わらない➄

世界の歴史を振り返ると、キリスト教と切っても切れない関係にある西欧哲学のもとヨーロッパ近代が世界を席巻して百数十年が経つ。世界は今や進むべき道に迷い、羅針盤たる思想を見失っているかに見える。一方で、「続・新冷戦」の核心とでもいうべき「大国間核開発競争」が再燃、もう片方でイスラム過激主義が西欧文明への報復の一環として自爆テロを繰り返す。そんななか、核開発に躍起となり、ミサイル攻撃をもちらつかせる北朝鮮を非難することは容易なことかもしれない。だが、大国の核保有が認められて、小国のそれが認められないのはおかしいという主張を、いわゆる大国の論理だけで論破し斥けることには無理があるように思われる。核と人類は共存できないということを、事実として推し広める行為の裏付けがあってこそ、北朝鮮を正しく導けるのではないか■国家サイドで一触即発の戦争の危機が新たに高まり、民衆レベルでは自爆テロのもたらす悲劇が跡を絶たない。世界が行き詰ったかのごとくに見える今、真に打開の道はないのだろうか。昨年7月に122か国の賛成のもと、国連で採択された「核兵器禁止条約」は市民社会の圧倒的な声が後押ししたと言われる。採択いらい50を超える国が署名をし、条約が発効すれば、生物兵器や化学兵器に続く、大量破壊兵器を禁止する枠組みが整う。この動きを決してお座なりに見てはいけないのではないか、「国連無力論」が世を覆って久しい。しかし、世界平和の原点に立ち返って改めて人類は国連にもう一度思いを託すべきではないのか。核廃絶、核軍縮、テロ撲滅など、所詮絵に描いた餅にすぎぬとの各個人の胸の内に巣くう思いーこれを打ち破ることに「今再び」の情熱が傾けられるべきではないのだろうか。世界で唯一の被爆国たる日本が、核保有大国米国と歩調を合わせることに腐心し続けているだけでいいのか。「恐怖の均衡論」や「核抑止論」に翻弄され続けてきた年老いた世代は、もはや後裔に退くことが求められている■今年は世界人権宣言採択70周年の節目に当たる。難民や移民の子どもたちの教育の機会の確保を始め、世界の人権確立に向かってやるべきことは数多い。かつて日本で「ベトナムに平和を!市民連合」の動きが盛んであった時代に青年期を過ごした世代は、他国における惨状を放置する自身が許せなかった。支援の手を差し伸べよう、でなければ、悪の側に加担することと同じになるのだとの自責の念があった。今はリベラルを自称する人々の間にさえそういう機運があまり見られない■創価学会SGIの池田先生がこの1月26日に、43回目のSGI 提言を発表した。ここには大乗仏教の粋としての法華経を基盤にした確固たる思想が横たわっている。今日までの半世紀近く営々として発表されてきた提言の数々。と同時にICANなどと共同した市民活動の展開も。国連への期待を寄せる平和確立に向けての具体的な提言に、世界の識者たちも注目度を高めている。「大国の論理」に押し流されるだけでなく、市民の側からの澎湃とした潮流を起こす機縁といくために、この提言の価値は実に重く、深い。日本でももっと真剣に受けとめられるべきではないのか。(2018・2・24=この項終わり)

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核戦略を転換する米トランプ政権ー「テロとの戦い」の時代は終わらない④

近年、「明治維新見直し論」が盛んになってきている。一言で分り易く言えば、いわゆる「司馬史観」なるものが維新を美化しすぎているとの批判が背景にある。吉田松陰が作ったとされる松下村塾の実態はなく、彼は単にテロの首謀者だったとの作家・原田伊織氏の『明治維新という過ち』説は興味深い。いささか極論の誹りはまぬかれないにせよ、この辺りをしっかりと史実に沿った形で吟味する必要はあろう。松陰の思想と行動をつぶさに追えば、確かに「テロ礼賛」と見るのもあながちオーバーとは言えないかもしれない。尤も、司馬遼太郎さんも原田伊織さんも共に行き過ぎで、「真実は中間にあり」というところだろうが■いささか議論は横道にそれたが、ここで私が言いたいのは日本にもテロの伝統が厳然とあるということである。言い換えれば、テロを認める気分が国民のうちに内在しているということと無縁ではない。例えば、核兵器を弄ぶ北朝鮮の指導者の横暴ぶりに業を煮やした人々の間で、彼を亡き者にすればすべては収まるといった議論がある。また、およそ常軌を逸した言動をする米大統領を前にして、彼さえ倒れればと、まことしやかな議論を口の端に登らせる向きもあろう。これらは単なる井戸端会議や床屋談義かもしれないが、であるがゆえに一層国民の間に広く内在する「テロ容認論」と言えるかもしれないのである。超軍事大国米国が自己中心主義に陥り、世界の盟主たる自覚も何処へやら、ひたすら内向きになっているかに見えていたが、ここへきて冷戦時とはいささか趣きを異にした核軍拡競争にふたたび邁進しようとする姿勢を見せ始めた■2月2日に発表された「核戦略見直し(NPR) 」は、オバマ前政権の目指した「核なき世界」を事実上放棄したものである。ここでは、非核攻撃への報復にも核を使うことがあり得ると明示したほか、「使える核」としての小型核兵器を開発することもうたった。この米国の一大方針転換に至った背景には「前回のNPR発表時に比べて、世界の安全保障上の危機ははっきりと高まっている」との現状認識がある。失墜した一方の旗頭の座に復権したロシア。そして一世紀ほど前に味わった屈辱からの復讐の念に燃える中国。確かに、この両国は今や着々と世界に地場を固めている。とりわけ中国の権益拡張的振る舞いは眼をみはるばかりである。また、ロシアも新たな核兵器開発を進めており、「魔神はすでにランプから解き放たれている」(サラ・クレプス米コーネール大准教授)と見る向きが専らである。尤も、ここにきて、ネパール、ミャンマー、パキスタン、タイなどで中国が進めてきたダムや高速鉄道建設工事などが中断されたとの報道が相次ぐ。各国がその巧妙で悪辣な手口に気付いたとされるが、果たしてどうだろうか。背に腹変えられぬ貧しき国家群はいつなんどき、遅れてきた侵略国家の毒牙の深みにはまるやもしれないのである■こういう状況下にあって、米国がまたぞろ核の役割を拡大させる方針に転換するということは、予期されることではあったものの、「非核推進」陣営にとって、まことに気が重い。世界唯一の被爆国家日本の政府は、いち早く米国の方針を高く評価するむねの河野太郎外相談話を公にした。米国の核の傘に入っているがゆえに、やむを得ぬ選択というのでは陰影がなさすぎないか。核抑止力維持と核軍縮推進は矛盾しないとのいいぶりには、やはり無理がある。オバマ前大統領の示した核軍縮姿勢に世界が共鳴した事実を思い起こしたい。核の傘のもと核に依存する日本政府の与党の一員として、当時はこれを核軍縮への流れを一気に加速させる好機ととらえた。ノーベル平和賞を彼が受賞したことにも素直に喜んだものだ。前政権の政策を悉く覆すトランプ政権の決断に、異議を唱えぬ日本の安倍政権では失望を禁じ得ない。公明党も物言わぬ政権与党であってはならないのではないか。(2018・2・18)

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地下鉄サリン事件の忌まわしい記憶ー「テロとの戦い」の時代は終わらない➂

テロとは、「政治的な目標を達成するための暴力的戦略」とされる。かつて明治維新前夜には我が国内でも横行したことを記憶にとめておられよう。だが、テロに対する現代日本人の感覚はどちらかといえば、疎いという他ない。それでもある程度呼び覚まされたのは、23年前のオウム真理教の起こした地下鉄サリン事件によるところが大きい。「9・11」よりも前に、日本社会を根底から覆そうとした大掛かりな事件だったが、当初はこれがテロだとの認識が弱かったように思われる。阪神淡路の大震災が発生したと同じ平成7年に起きた故か、その影に隠れた側面はなきにしもあらずだ■オウムという特殊なカルト宗教団体への生理的嫌悪感とでも言おうか。あまりに荒唐無稽で唐突な事件だったことも手伝って、リアルさが希薄だったのかもしれない。真正面から事の本質が日本転覆をねらった「テロ」として受け止められなかった気がする。当時ある参議院議員が「これこそテロだ」と予算委員会だったかで、力説していたことが思い起こされるがあまり共感を呼んでいたとの印象はない■オウム真理教をめぐるすべての刑事裁判は、このほどようやく終結することになった。最初の公判が始まってから22年半。192人が罪に問われ、うち13人に死刑が言い渡されている。このオウム教団は自分たちが勝手に思い描いた「救済」を、一般大衆に向けて実行しようとした。そのための手段を選ばず、独善そのものの狂信的行動に走った。そこにはIS が自らの王国をつくるために、「異教徒」を全て敵とみなし、攻撃の対象としてきたことと、本質的に違いはない。尤も、オウムとIS とを比べると、普通の人間との差異ばかりが目立って、テロの依って来る根本的原因が見えにくくなるやもしれない。むしろ150年前の日本を思い起こす方がよりテロの本質が分るように思われる。「維新の志士」という美名で語られることが多いが、その実、彼らは自分たちの目指す政治的信念を貫くために邪魔になる存在はことごとく倒すべし、とテロ行為に走ったと言えなくはないのである■近年、「明治維新見直し論」が盛んになってきている。一言で言えば、いわゆる「司馬史観」なるものが維新を美化しすぎているとの批判がその背景にある。吉田松陰が作ったとされる「松下村塾」の実態はなく、彼は単にテロの首謀者だったとの作家・原田伊織氏の「『明治維新という過ち』説」は興味深い。いささか極論のそしりはまぬかれないにせよ、この辺りはしっかりと史実に沿った形で吟味される必要があろう。松陰の思想と行動をつぶさに追えば、確かに「テロ礼賛」と見ることもあながちオーバーといえないかもしれないからだ。尤も、司馬遼太郎氏も原田伊織氏も共に行き過ぎで、「真実は中間にあり」というところだろうが■ここで言いたいのは、日本にもテロの伝統が厳然とあるということである。言い換えれば、テロを認める気分が国民のうちに内在していることだ。例えば、核兵器を弄ぶ北朝鮮の指導者の横暴ぶりに業を煮やす人々の間で、彼を亡きものにすればすべては収まるとの議論がある。また、およそ常軌を逸した言動をする米大統領を前にして、彼さえ倒れれば、とまことしやかな議論を口の端に登らせる向きもあろう。これらは単なる井戸端会議や床屋談義かもしれないが、であるがゆえに一層国民の間に広く内在する「テロ待望論」と言

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日本に住む我々の隣にも危険がー「テロとの戦い」の時代は終わらない➁

海外における日本人のテロ被害者も散発的ながら後を絶たない。近過去で最大のものは、バングラデシュ・ダッカでのテロ事件であろう。2016年7月1日に、イスラム過激派によって22人もの人が殺害されたが、そのうち7人が日本人だった。事件から1年が経ち、忘れ去られようとしていた昨年7月、NHKスペシャルで放映された『謎の日本人テロリストを追え』という番組には衝撃を受けた。この事件では、30歳代半ばのバングラデシュ人が容疑者として浮上した。この男、サイフラ・オザキは19歳で立命館アジア太平洋大学に留学したのちに、日本国籍を取得した。テロ事件で重要な役回りを果たしたこの人物のことを番組は克明に追っており、見るものは釘付けになったのである■彼は日本が好きで好きで仕方がないと言っていたという。2001年9月の訪日以来、大学で指導に当たった教授は「極めて優秀な学生で、勉学に励む姿は真剣そのものだった」とほめそやしていた。日本人女性との間に4人の子どもを授かり、やがて准教授にまでなった。その男がいつの日か、バングラデシュの若者を次々と誘い、テロを主導するISの一員になっていった。この謎にあふれた経緯には息を吞む思いでテレビ画面に引きつけられた。ヒンズー教徒だった彼は、イスラム教徒に改宗。やがて「日本人が一人でも殺されると大変なニュースになるのに、イスラム教徒が何千人殺されてもニュースにさえならない」と憤り、「日本に失望し、嫌いになった」と述べていたというのである■対テロ国際研究所長のボアズ・ガノール氏はテロを起こすものを➀ローンウルフ(一匹狼)型➁ローンウルフが集まったローカル・ネットワーク型➂組織型ーと言う風に三つに分類している。10年ほど前までは、圧倒的に組織型が多かったが、今や拡散しているとされる。「領土」を持ち、地域住民を支配するハイブリッド(混成型)テロ組織と見なされるIS は、表面的にはシリアやイラクで「領土」を失い、古典的なテロ組織に戻りつつある。アメリカ・トランプ政権としては、ISはもはや壊滅した、恐るるに足りないと言いたいところだろうが、油断は禁物だ。いつなんどき地下に潜伏したIS の逆襲が始まるとも限らない。中東地域を中心にヨーロッパからアジアへとテロ組織やらテロリストの暗躍は半永久的に続くと見るしかないのである■日本においては未だイスラム過激派による本格的なテロは起きていない。しかし、東京オリンピックがその標的にならない保障など全くない。国民が意識を変えて日常的に警戒心を持たねばならない。先に触れたオザキのような人物がどこからか現れるかもしれないからである。先年の国会でテロ防止に主眼を置いた法律を作るに当たって、野党から猛然と反対の声が上がったことは記憶に新しい。事前に防止を防ぐことが、国民の自由を脅かすことにつながるとの観点からのものだった。勿論、運用には十分な注意が必要だが、起きてしまってからでは遅い。先に挙げたガノール・対テロ国際研究所長も国内外の治安機関や安全保障の専門家が一堂に集まり、情報や課題を共有し、一緒に解決するインテリジェンス・センターを設立すべきだと主張している。各国がエゴを乗り越えて協力し合うことの重要性を強調しているのだ。広範囲に国民的意識を高めたうえでの万全の態勢作りが必要とされよう。(2018・2・4=一部修正2.5)

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