行き詰まった「ヨーロッパ近代思想」に代わるものはー「原発考」❹

今年6月2日にNHKのETV特集で放映された『〝核のゴミ〟に揺れる村〜苦悩の選択  半世紀の記録〜』は衝撃的な内容であった。青森県の六ヶ所村における核燃料の最終処分処理場をめぐる顛末について、直接の任に当たった政治家が極めて正直にありのままを語る場面が収録されていたからである。その政治家とは、田中真紀子元科学技術庁長官。後に外相として様々な物議を醸す行動を起こした人物だが、最初に閣僚になった頃にも、六ヶ所村に対する〝空約束〟をしていたことがご本人の口から赤裸々に語られた。24年ほど前に、青森県知事の了承無くして最終処分場にはしないとの発言を、当時の自分のそばにいた官僚から言わされたこと。また、六ヶ所村が最もおとなしいところだから、ゴミ処理場の役割をしょわされたということなどを、である。この人らしい正直な発言といえようが、この番組を見た人は誰しもあまりにも非力で無責任な政治家の実態に唖然とするばかりだったに違いない■〝核のゴミ〟の取り扱いをめぐる議論、つまり核の最終処分場をどこに持っていくかの選択は、沖縄における米軍基地問題と相似形をなす。両者共に日本にとって必要だが、自分のところに持って来られるのは御免被るとの論法が大勢だ。勿論、北東アジアにおける沖縄の地政学的価値と核廃棄物場としての青森の価値とは比較の対象にはならない。ただ、他の各県から押し付けられるだけの、宿命的な弱さが両地に共通していることはあながち否定できない。尤も、そこにつけ込むことを非とし、「最低でも県外」などと安易に口にすると、寄ってたかって叩かれるのがオチである。ただ、では根本的にこうした課題を解決できる知恵を持っている指導者が現代日本にいるのかと問えば、皆首を横に振らざるを得ない。そうなると、誰しも「田中真紀子」を、そして「鳩山由紀夫」を、「戦後日本の元凶としての団塊世代の双璧だ」などとバカにしたり、笑ったりすることはできないのである■確たる核の最終処分処理場を持たないまま、原発を稼働させ続けてきた日本の実態は、「トイレのないマンション」だとの論評がなされてきた。確かにそうではあるが、その表現では何か物足りない。むしろ「漏電寸前のボロ長屋」といった趣きの方が強い。今にして思えば「原発」は破綻は免れ難いにも関わらず、高度経済成長を下支えしてきたし、あの事故にも関わらず「依存体質」はいささかも揺らいでいない。それもこれも往時に比べ様変わりしたとはいえ、資本主義のもとでの、経済至上主義的思考のなせる業ではある。経済成長を優先させ原発推進を取るか、それとも経済よりも身の安全を守るべく脱原発の道に進むかとの、二者択一に陥ると身動きが取れなくなってしまう。ここは、単純な二分法ではいけないということに気づく必要がある。つまり、短期的には、安全性の確認が出来る最低限のものは再稼働させ、電力確保に努める。しかし、中長期的には、将来の日本経済の状況や代替エネルギーの進展状況を見ながら、暫時原発を縮小し、やがてはゼロに近づけるという二段構えで対応することでなないのか■ そもそも二者択一を迫る考え方の基本には、ヨーロッパ近代の合理主義的思想がある。人間はその存在を全てに優先させて、自然をコントロールしうるものとして、自動車から新幹線、飛行機そして人工衛星やミサイルまで、ありとあらゆるものを生み出し、ついに原子力までも自在に弄ぶまでに至った。その結果として自縄自縛に陥ってしまった。安全性に留意すれば、「原発」は核の平和利用だとして済むものかどうか。大地震の発生、大津波の襲来、あるいはテロなどにより、瞬時に人間は破滅の底に追いやられてしまう。そうした事態を改めて認識するに至った今、問い直されるべき課題は「ヨーロッパ近代」そのものである。少なからざる人々がそうと気付きながらも、惰性に身を任せて、思考停止をしているだけの現実がある。これは、何よりもそれを乗り越える思想そのものを、今に生きる人々が見出し得ていないからに他ならない。(2018-9-27=この項終わり)

旧態依然とした考え方の転換をー「原発考」❸

原発問題(「ゼロか依存か、「原発」にどう立ち向かうか」)を書きかけて、二回書いた(3-11と3-18に掲載)ところで中断してしまっていた。というのは、民主党政権時代に私が予算委員会や外務委員会で質問をしたものを取り上げてみようと思ったものの、はたと躊躇するものがあったからである。質問の相手が政権の座から降りただけでなく、政党の存在すら雲散霧消してしまってる。そんな相手にあれこれといったものを今更取り出して何の意味があるか、と虚しくなってしまい、つい放置してしまっていたのだ。中断から半年。改めて気を取直して出直すつもりで、「原発」の今を考えたい■あの東北・関東地方を襲い福島第一原発を窮地に陥れた大地震・大津波は7年前の3-11。当時は言うまでもなく、民主党政権下であった。その頃に、私が内外に向けて投げかけた主張は、もはやエネルギー源として原発に依存するのではなく、代替可能な新エネルギーに暫時切り替えていくしかない。原発ゼロに向けて、段階的に減少させていくべきだ。経済における成長至上主義の考え方を抜本的に転換しようと言うものであった。そんな折に、日本の原発技術を必要とする外国(ヨルダン、インドなど)に、技術移転することすら思いとどまるべきだとの主張も外務委員会で行った。世界史の上でも後世に残る画期的な事故を起こした国が、他国に範を垂れる資格はない、ここはひとまず原発の技術輸出など踏みとどまるのが国際社会におけるマナーであり、「原発大国」としての自制心ではないのか、と。しかし、聞き入れられることはなかった■その後政権に返り咲いた自民党(一部、公明党議員の中にも)も原発には今一歩、煮え切らぬ態度に終始しているかに見える。つまり、最終ゴールを原発ゼロに起き、段階的に減少させるというよりも、行き着く先は曖昧なままにしておき、状況次第で、あわよくば「原発推進の夢よもう一度」という昔ながらの推進姿勢が垣間見えるのだ。そのあたりが前回にも触れた、理論誌『公明』における、政治家と科学者の対談での、原発は日本経済の「浮沈にかかる」という表現に現れている。こうした捉え方は、経済の成長のために、原発推進はかかせないものとの牢固とした考え方に基づく。先の原発事故は、そうした考え方に根本的なノーを突きつけたのではなかったのか。ここを改めて振り返り、注目する必要がある■かつて核の平和利用という観点で、原子力発電は市民権を手にした。あれほど核の悲惨を目の当たりにした日本も安全の担保さえ十二分に得られれば、活用するのに何を躊躇することがあろうか、との論法で最初は処女ごとく、しかし、やがては夜叉のごとく遮二無二、「原発大国」の道を突き進んできた。それがいかになりふり構わぬものであるかは、使用済み核燃料の最終処分場すらままならない状況を放置し続けてきていることで十分裏付けられよう。これまでの覚束なき「安全神話」が崩壊したのが先の原発事故であった。この事故の前と後ではガラリと考え方が変わらないといけない。それほどの大きな根源的な問いかけをもたらしたのであったはずなのだ。(2018-9-23)

敬老の日を前に、大学同期の友の死を悼む

大学時代の同期にして、読売新聞政治部記者で鳴らした友が亡くなった。神田俊甫である。肝臓癌だったという。一昨年ぐらいだったか、あるテレビを見ていて、田中角栄元首相を囲む番記者団と思しき一陣の中に、満面の笑顔の彼を発見した。元総理の回想番組だった。今をときめく時事通信社の田崎史郎(現・政治評論家)も隣に写っていた。直ちに電話をした。「うん、ウン。そうか、そうか、懐かしいなあ」と彼独特の口調が返ってきた。すでにきつい癌と闘ってるとは聞いていたが、いつもの明るさで、「うん、うん上京してきたら、教えろ。また飲もうや」という返事だった。かつて、後輩たちを従えて赤坂界隈を夜な夜なぶいぶい言わせて闊歩していた頃を思い起こす。豪放磊落でかつ細かな神経を持ついい男だった。晩年は福島の地に赴任し、福島民友新聞社社長として君臨したが、やはり彼は最前線での取材をしていた頃が華だったかもしれない。11日の通夜、12日の葬儀と東京青山葬儀場で多くの関係者の方々に見送られたと聞くが、行けない私はご子息の鉄平君(外務省勤務)に弔文を送るにとどめた。ただただ淋しい限りだ■70歳を出ると、時にこうした友の悲しい報に接する。生老病死という鉄則パターンは容赦なく襲いかかってくる。まだまだ若い、エンジンは快調だと思って来ていた私も、昨今はめっきり部品の痛みが気になってきた。我が父親が晩年に不具合をあれこれ訴えていた際に、聞き捨てにしていたことが、俄然気になりだした。親父の嘆いていたある症状に自分も瓜二つだからである。愕然とすることしばし。永遠の生命を覚知すべく若き日より鋭意邁進してきた身として、いよいよこれからが真骨頂が問われるときだ。日暮れて道遠し。少年老いやすく学なり難しーつい昨日には、未だ未だ先のこと、と思ってた格言がとなりに鎮座していて、不敵な面構えで睨む■そんな折、地元自治会の公民館で毎週水曜日に行う「100歳体操」に参加する機会を得た。これはもう3年になる試みだが、最初からきちっと参加したことはない。今回は初めて最初から文字通りフルコースで挑戦した。テレビに映るDVDの作法に則って、おばあさんたちとイッチィ二ー、サンシー、ニイ二イサンシーとやるのは、最初はいささか照れ臭かったが、だんだんバカにできぬと悟る。繰り返しは結構エネルギーがいるのだ。最後は口腔体操。くちびるや舌まで動員して行うのは、飲み込みや食べこぼしを防ぐためとか。。微に入り細にわたる運動は、終えてみるとなかなかの爽快感が漂う。自治会幹部が「敬老の日」を記念して、花束ならぬ植木鉢を参加者にプレゼント。思わぬこころ優しいサービスに皆感激を新たにしていたのも嬉しかった■この日の最後の企画に、姫路市の地域包括センターの女性職員による「認知症になっても安心出来る地域へ」というタイトルでのミニ講演会があった。パワーポイントを駆使しての内容は実にためになった。85歳を過ぎると、50%の人が、95歳になると80%の人が認知症になるという。普段から十分意識して生活していないと、明日は我が身だ、と思い知った。団塊の世代が前期高齢者から、後期のそれへと移行することで、日本の高齢化は世界で先陣を切る。少子高齢社会、人口減社会へまっしぐらに進む中で、公私ともに準備を急がねば、と覚悟を固めるに至った。(2018-9-16=文中、敬称略)

二泊三日の上京で、「10番勝負」の充実の語らい

台風21号の直撃で、西日本各地を中心に大きな被害が出ました。とりわけ関西国際空港が水浸しになる被害でおおわらわのなかで、今度は北海道胆振方面でマグニチュード7にも及ぼうかという大地震が起こりました。全く、「大災害の時代」なる言葉が今ほどリアルに聞こえてくるときはないと言っても過言ではありません。そうした現状が起こる前の8月末に私は、二泊三日で上京してきました。主たる目的は、先週に報告した非常用電源設備点検のための一般社団法人設立を総務省消防庁に伝達することでした。ことのついでにあれこれと動いてきたことをここでは書いてみます■第一日目(8-30)。到着後直ちに横浜に行き、高校同級生の友人S君と実に54年ぶりに再会。高島屋での語らいは中々弾みました。地方銀行マンとしての彼の人生を聞くなかで、自ずと私は我が親父を思い出さざるを得ませんでした。16歳から定年後まで銀行一筋だった父。その時代は銀行マンにとって〝古き良き時代〟でした。メガバンク崩壊の流れ止まらぬ今日的状況をめぐり、しばし〝銀の花〟を咲かせました。ついで、根岸の「脳卒中・神経脊椎センター」へ。大学同期の親しい友人O君が不慮の事故で頭蓋骨に損傷をきたした、との連絡があったのが8月初旬。この五月に50年前に旅した同じ地を再訪しようと、彼を含む仲間4人で懐かしくも楽しい時を過ごしたばかり。とても心配しました。彼は脊柱管狭窄症の持病を持っていることも影響したと思えますが、事故当時の詳細を覚えてないというのも困ったものです。ただし回復は順調で大いに胸をなでおろしました。夜は東京・紀尾井町にとって返し、防衛省の新事務次官の高橋憲一氏と懇談しました。彼は私の現役時代に親しい防衛官僚でしばしば話し相手になってくれ、啓発してくれたのです。雑誌『選択』八月号によると、彼は「博覧強記の人」とのこと、この日も話題は宙を飛び交い、知的興奮をもたらしつつ、大いに盛り上がりました■第二日目(8-31)。朝早く鎌倉へ。映像制作者にして教育家の榎田竜路さん(アースプロジェクト代表社員・北京電影学院客員教授)に会うために。彼とはここ数年密な付き合いを深めています。高校生を始め地域の若者に対して、彼らの住む地の名士へのインタビューを通じて得たものを3分間の映像にする技術、思想を教えている人物です。この日は、私の取り組む「瀬戸内海島めぐり」観光へのアドバイスを貰いました。午後は国会へ。公明党の高木陽介代議士立ち会いのもと、消防庁鈴木予防課長らと種々懇談(先週に既報)しました。4時には、かつて自転車の駐輪場のIT化を巡って豊富なアイデアを駆使して同業界に一陣の風を起こしたO氏と会いました。今度は一転、崖崩れの未然防止のための予報機器の開発に取り組むといいます。防災・減災に効力を発揮することを期待して、大いに激励をしました。夜は、虎の門で、私が厚生労働副大臣時代に秘書官として支えてくれた宮崎淳文氏が課長に就任したことを祝うべく、当時の秘書チームの面々が集まりました。わずか一年だったものの〝貴重な時間〟を共有してくれた得難い連中です。この夜は昔話と共に、それぞれが今取り組む課題について抱負を聞き、激励しました。無性に楽しい夜でした■第三日目(9-1)。朝は阿佐ヶ谷で、観光人材育成のプロ・勝瀬典雄さん(県立広島大学客員教授)と会って、インバウンドをめぐる喫緊の課題について意見交換をしました。この人は日本中を自在に駆け巡り、地域おこしに懸命に取り組んでいる人です。この日も観光への深い造詣の一端を汲み取ることができました。昼は、中野区の後輩S君と久方ぶりに懇談。かつて大手建設会社に勤務していた彼は、公明党員としてまさに八面六臂の活躍を社内でしたといいます。その後脱サラ、起業に失敗してタクシー運転手をするなど、ひとかたならぬ苦労をしました。若き日に私はあれこれと彼を激励し、結婚式にも参列しただけに思い入れは深いものがあります。「生きてる限りは青春だ」との心意気で行こうと、励ましました。同時に、70歳を目前にしながら、少しも変わらぬその前向き姿勢に大いに教えられました。帰りの新幹線は新神戸で途中下車。友人と共催する「異業種交流会」に参加しました。今回私が誘った新しい友人は二人。一人は予備校経営から始まり、今各地で幅広く教育講座に取り組む人。もう一人は神戸市内の高校の副校長。二人は新たに独自の視点で独自の学校法人を設立しようという意欲的な起業家です。この日の会にはほかにも、シンガポールの金融機関に勤める若者(関西の支社)や、国交省から姫路市に出向してきている女性官僚、女性経営者、女性議員秘書など達者な面々が集い、ワイン片手に談論風発のひとときを過ごしました。結局帰宅は深夜に及びましたが、この二泊三日は、10もの意図した出会いがあり、充実した語らいができました。私は出発前に「正雄10番勝負」と勝手に銘打ち、自身を鼓舞しましたが、その甲斐あって手応えある成果を得ることが出来ました。
(2018-9-8)

自家発電設備の点検を促す啓蒙活動に取り組む一般社団法人の代表に

9月1日の防災の日を前に、友人たちと共に、「全国防災・減災設備点検協議会」なる一般社団法人を立ち上げました。英語でAll Japan Disaster Facility Inspection
Councilというわけで、頭文字を並べて、略称ADIC(防減協)です。私が代表理事、会長を務めることになりました。大地震など大災害が起きると、発電設備が発動することが基本中の基本なのに、これまで、日頃のメンテナンスが出来ていないために、ややもするといざという時に動かないことがありました。このため法的に義務付けられている自家発電設備の点検を日頃からしっかり実施するように幅広く呼びかけ、現実にその方法をも伝授しようということを狙いとする団体です■さる31日に消防庁の鈴木予防課長らと会い、協議会の発足を報告する一方、意見交換をしてまいりました。その際に、改めて6月1日に改正された自家発電設備の点検方法についての4つのポイントが強調され、確認しあいました。それは❶負荷運転に代えて行うことが出来る点検方法として、内部観察等を追加したことです。これは以前は総合点検における運転性能の確認方法は、負荷運転のみだったのを新たに改正して付け加えたわけです❷負荷運転及び内部観察等の点検周期を、これまでの一年に一回を、六年に一回に延長したことです。これは予防的な保全策が講じられておれば、毎年やらずとも運転性能に支障は起こらないことが確認出来たためです❸原動機にガスタービンを用いる自家発電設備の負荷運転は不要となりました。今まで全てのものを対象としていましたが、ディーゼルエンジンを用いるものと殆ど差がないことが分かったためです❹換気性能点検は負荷運転時ではなく、無負荷運転時等に実施するように変更されました。これは負荷運転時における温度による点検は不必要と分かったことが原因です■これらはいずれも従来からの点検方法をのあり方を科学的に検証、そのデータを基に改正することになったものです。公明党の私の後輩である秋野公造参議院議員が5月末の参議院総務委員会でこの問題を取り上げてくれた際に、かねて進めてきていた改正の中身を総務省消防庁が明らかに示してくれました。「これで大きく非常用発電設備の点検の質的充実を図ることが出来ました」と言ってわざわざ私の元に連絡をくれたものです。私の友人達はかねてこの問題に関心を持っており、防災・減災の観点から、あってなきがごとき点検状況の実態を改善すべきだと問題提起してくれていました■私は現役時に総務委員長をしていました。姫路の後輩である飯島義雄元副市長(現在、関学客員教授)が同省の防災課長当時です。そんな関係からも、一般社団法人を作って、啓蒙活動をすることは必ず世のためになると確信しました。ここまで事が運ぶには、長年の友人である河田正興ビジネスファーム研究所所長の並々ならぬ熱意と尽力がありました。彼の直感ではビジネスチャンスにも活かせるとの確信があり、西濃運輸やコスモスベリーズなどの大手企業も同社団への理事に参画するよう働きかけてくれました。その結果、そうした企業関係者も新たに防災・減災の観点から、新規事業に参入を決断してくれたものです。ともあれ、新しい試みに誠心誠意取り組む所存です。(2018-9-2)