「熊森協会」と一緒に歩んだ20年

一般財団法人「日本熊森協会」の設立20周年記念の全国大会が22日に開かれました。この協会の顧問を務める私は午前中の一部のみ(午後は所要のために欠席)参加しました。思えばこの会とのつながりは長いものになります。ほぼ結成以来と言ってもいいかもしれません。私の街頭演説と彼らの宣伝活動が鉢合わせしたのがきっかけ。「くまもりって、一体なんの団体?」「一度森の実態を見に行きませんか。見て頂ければわかりますから」ーこうしたやりとりから始まって、後に衆議院の環境、農水委員会などで、くまと森の側に立った質問をしたり、議員連盟発足に動いたり、奥山保全トラストの公益財団法人化にも精一杯尽力しました。しかし、決して私は真面目なサポーターではありませんでした。「熊森」の運営の展開の仕方にあれこれ批判してきたからです。森山まり子会長が冒頭の挨拶で「この20年、一切ぶれずにやってきました」との述べたことをわが身に当てはめながら感慨深く聴いたしだいです▼森山まり子さんというひとは、本当に凄い情熱家であり、芯の通った教育者であり、妥協を知らぬ信念のひとです。25年程前の1992年1月に朝日新聞紙上に載った一つの記事がすべての始まりでした。それは、「ツキノワグマ 環境破壊に悲鳴」という見出しで、森が荒廃することでそこに棲めなくなったクマが人里に降りるようになり、人間に捕獲されたり殺され、やがて絶滅してしまうので、との内容でした。それを見た兵庫県尼崎市立武庫東中学校の理科の教師だった彼女は、教え子たちと一緒に「クマを守れ」という運動を起こして行ったのです。いらい5年の助走期間を経たのちに、実践自然保護団体としての「日本熊森協会」が設立されるにいたったのは1997年4月のことでした。まさに山あり谷ありのこれまでの歳月でしたが、この間の活動を要約すると、1)全国各地に足を運び、奥山に実のなる木を植樹 2)鳥獣保護法などの改悪との闘い3)外来生物の根絶殺害に反対する運動の展開4)ナショナルトラスト運動の展開5)兵庫県クマ狩猟再会反対運動の展開などが挙げられます▼こうした活動ぶりを振り返った時に、本当に会長をはじめとする中心者たちの献身的な努力に頭が下がる思いです。が同時にもう少しやり方を変えた方が良かったのでは、との思いも禁じえません。その最大のものはクマと森を一緒にしないで、運動を分けた方がいいのではないのかとの思いでした。これはことの根幹に触れる問題提起です。一般的には、どうしても森の荒廃の予兆がくまに表れるとの主張は受け入れられない向きが多いのです。その一方、森の方は、比較的荒廃が進む現状を認識しており、行動を起こすことに共感しています。幾たびか私はこのことを指摘しましたが、結局は無駄に終わりました。ある意味、これは譲れぬ生命線だからでしょう。単に森を守れ、ではそこらに存在する自然保護団体と全く変わりません。この団体が目指す根源は、生きとし生けるものの共存にあり、ひとと大型動物との共存共栄にあるのです。「ひととクマとどっちが大事なんや」との質問には「どっちも大事や」とのこたえしかないのです▼動物の命は大事だけれど、人間の生活も守らねばならないーこの二律背反に見える課題を解決することは極めて大事です。先日、ある政治家と話していて、熊森は熊を殺すなというが、それはオーストラリアのクジラを殺すなという運動をしている人たちとダブって見えてしまう。クマを守れは、あまりにピュアな主張過ぎて、賛同しがたいというのです。また、リニアモーターカーの反対運動も、自然保護の度が過ぎるという意見も強いものがあります。政治は妥協の世界ゆえ、なかなかこうした意見が素直に受け入れられず、この団体が誤解されている源になっています。つまり極端な原理主義の団体ではないか、と。また、あの東日本を襲った震災と津波による東電福島原発の事故いらい、巨大事故による自然破壊に目が向きがちで、くまと森の相関関係から自然環境保護を守る運動が遠ざけられがちの傾向が出てきています。かつて2万人を超えた会員も、今減少気味なのはそういったことの影響かもしれないと見られます。今回の大会のスローガンであった「日本にも欧米並みの大自然保護団体を!」との叫びは深く心に響いてきました。私は、いま『熊森協会をめぐる10問10答』という電子書籍を準備中です。少しでもこの運動のお役に立てればとの思いからです。(2017・4・25)

「在宅医療」の罪深い現実を見せられて

、先日テレビを観ていて大きな衝撃を受けました。それは著名な医師・早川一光さんの『こんなはずじゃなかった 在宅医療 ベッドからの問いかけ』というNHKのETV特集です。昨年に放送された分の再々放送のようなものでしたので、ご覧になった方も多いと思います。何にショックを受けたかというと、信じていた人に裏切られたということでしょうか。早川さんという人を私は深く尊敬していました。それは一度だけ聴いたラジオ番組に起因しています。ご自身の病院を訪れる高齢の男女の患者の姿の観察を通じて、人間はひとと繋がっていることが大事であることを説き、そして笑いがひとの健康にもたらす効用について語った含蓄ある中身のものでした▼この人は、現在93歳。戦後京都市西陣で住民の手による堀川病院を作り、「在宅医療」という言葉も制度も未だなかった時期から、積極的に地域にでて往診医療活動を展開して、病院ではないところでも安心して医療を受けられる仕組みを整えることの大事さを訴え続けてきたのです。今回私が観た番組では、その偉大な医師自身が「多発性骨髄腫」というがんを患われ、いたって気弱になられている姿を描いていました。早川さんが信じてきた「在宅医療」が結局は砂上の楼閣だったのではないか、という風にご自分が思っておられるように受け止められました。ご自分の病んだ姿を赤裸々に放映されるということに大変な勇気を感じますが、一方でここまでさらけ出さずともいいのではないかとの思いが禁じえませんでした。医療の現状と人間の弱さが同時に映し出されて、信じていたものが同時に崩れ去る危うさを実感してしまったのです。どこまでも先生には孤高の姿を貫いてほしかったのに▼後輩の主治医が訪問して「早川先生が死を怖がっているのを見るのは最高です」と言っている場面や、早川先生に究極の選択を迫ったる場面が極めて印象的でした。それは、主治医が「痛みや苦しみを感じた際に、自宅から病院に行くと、それから解放されるが、それだと、自宅で死を迎えるという(早川さんの)年来の願望を果たすことができないかもしれません。また、ずっと自宅にいると、痛みや苦しみから逃れられないかもしれません。さあ、どっちを選びますか。先生ご自身の判断ですよ」という風に早川さんに迫ってるところです。結局、早川さんは決断を先送りしてしまうのです▼「自分ががんを患うとは思わなかった」とか「枯れたくない。熟れるのならいいが」とか、極めて人間的な発言も口にされるのは聴きたくないとの思いが強くします。テレビ放映の狙いは、在宅治療の制度的問題点に早川さん自身が気づいたことを「こんなはずではなかった」とするところにあったと思います。しかし、実際には人間の生き方をして早川さんに「こんなはずではなかった」と言わせているように思われます。人生の晩年にあたって、ひとを根底から救うのは医療だけではない、宗教、哲学、芸術といった分野も含む「総合人間学」だということに、早川さんは早い段階からひとに訴えていたはずなのに。それにつけてもこの番組は罪深いと思います。できれば早川さんには、強がりであっても、たとえ幻想であっても、強い人のままの姿を見せてほしかった。かつては患者の急な容態の変化に対応するために枕元に置いてあった携帯電話。それが今ではご自身が夜中に寂しくなって安心を得るために掛ける役割へと180度変わったというのではあまりに残酷という他ないのです。(2017・4・18)

地域おこしの担い手を養成する講座に参加して

榎田竜路(えのきだりゅうじ)という人物を知っていますか?音楽家にしてメディアプロデューサーであり、アースボイスプロジェクト代表社員というのが一般的な肩書ですが、そういってもあまり分かりませんね。「情報は資産」を核に、映画技術を応用した認知開発手法を用いて、地域や中小企業の活性化、人材育成などを各地で実施しているといえばかなり彼の実像に迫ることができるかもしれません。昨年らい、淡路島の地域おこしに取り組む中で私は彼と知り合いました。何しろ、北京電影学院客員教授、内閣府地域活性伝導師やら公益社団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会経済・テクノロジー専門委員なども務めるというマルチタレントの持ち主です。北京電影学院で教鞭を取る日本人は彼だけ。以前に高倉健さんがその立場にいたといいいますが、中国で圧倒的な実力と人気を誇る映像分野の殿堂にかかわる人物です▼その彼が私の地元にある神崎郡市川町にやって来るというので、先日出かけました。市川町の地域振興課が企画した「町づくりスペッシャル講演会」を聴くためです。講演のタイトルは、「地域の価値を開発する力とは」というもの。実はこれが皮切りで、このあと、6回にわたって「グローカルメディア・プロデューサー育成講座」が年内いっぱい開かれるのです。講座の全貌を総論の形で知れるとあって、町内を中心に30人ほどの皆さんが集まってきておられました。冒頭私が挨拶をさせていただくというハプニングがありました。榎田さんを引っ張ってきた市川町を褒め称えたあと、観光を軸にして地域活性化にいま力を注ぐ私として、この講演にいかに胸ときめかせているかを述べました。稀代の脚本家・橋本忍生誕の地である市川町こそ、メディアプロデューサーを生み出す地に相応しいということも付け加えました▼講座は、実に斬新で魅力的な内容でした。冒頭、彼が審査委員を務めるミス・インターナショナル日本大会での美女に囲まれたスナップ写真を見せるという衝撃から始まって、次々とユニークなトライアングル解説(三分割手法)を加えて、聴衆を巻き込んでいくのです。なかでも途中にアメリカの人気テレビ番組「メンタリスト」のワンシーンを織り込んでの話には圧倒されました。突然、妻が銃で夫を射殺する場面が出てくるのですから、驚かないわけにはいきません。理屈で解るというよりも、あれよあれよというまに講師の術中にはまってしまったというのが正直なところでしょうか。最終盤のところで、福島支援の狙いを持った「横山飾りや」の2分間の映像を見せられて、「なるほど、こういう風に地域の価値を見せる映像手法なら、どんな田舎の地域でもみんな誇りを持って元気になるぞ」と納得するに至りました▼現在、榎田さんは、鹿児島、沖縄、徳島、津山の各地で、高校生を相手にいわゆる人材育成のための講座も開いています。高校生×認知開発力×6次産業化=地方の未来といった図式が示すようなアプローチの仕方で日本の地方が抱える課題克服に立ち向かっています。彼の時代認識は、日本という国は(1)新卒の3割が3年以内に退職する(2)失敗に対して極度に不寛容である(3)大きな潜在力を秘めながらそれを生かせないーつまり、マッチング力がないというものです。地域においては、高校生が地域社会、地域経済の担い手でありながら、マッチングがうまくいかず、人口流出や地域経済の縮小に大きな影響を与えているということは周知の事実でしょう。そこに目をつけた榎田さんは、能力云々ではなく、物語とマッチングすることを狙いにした独特の教育展開を施しているのです。彼の認知開発力養成講座は、高校生に地域企業を取材させ、情報を整理させる。それを元に「画像」「文字」「音声」の三種類の情報として組み合わさせ、2分間の映像に編集させるというやり方です。この取材→整理→編集という過程で高校生は、苦しみながらも地域企業の持つ力や可能性に深く共感するというのです。この方式に絶対の自信を持つ彼は、私に対してぜひ一度高校生たちの成長した姿を実際に見てほしいと強く迫っています。(2017・4・13)

「核廃絶」への遠すぎる道➀ー「原発是非」と入り乱れての論争

小泉純一郎首相が登場したのは、季節外れの大雪現象のようなものだ。今はあたり一面が雪景色で、古い自民党政治の汚いものを全部覆い隠してきれいな風景に見える。しかし、雪は必ず溶ける。溶けたら今まで以上に汚いものが露呈して来るーこういう意味のことを私が衆議院の委員会で、直接首相に問いかけを始めたのは、彼が総理に就任したほぼ一年後の2002年の5月9日のことだった。私はそのあと、こう続けた。その汚いものを自民党政府のトップとして、川に全て押し流す大水現象を起こしてほしい。そういう決意ならば、私共はしっかり支えたい、と。何かと派手な小泉首相に対して、比喩を使いつつ皮肉もそれなりに織り交ぜての質問だった。導入部としては傑作の部類であり、自民党と公明党の関係の核心を突いてこれ以上のものはないと自画自賛したものだ。その後、同じ質問のなかで、私は、国際社会における日米関係は、あたかも国内政治における自公関係に似ている、と。それは、対米関係で日本があまり言いたいことをいえずに苦慮しているように、国内政治で公明党は自民党に大いに気を遣い苦労していることが類似しているからだ。公明党が自民党との連立でどれだけ苦心惨憺しているかは、米国との関係で苦労する自民党政府ならよくわかるはず、との思いもあった。「そんなことないよ。公明党はあれこれ言ってくれるよ」と首相席から彼が野次ったことは20年近い歳月が流れた今もなお妙に耳に残っている▼こうした古い話をいきなり持ち出したのは、昨今の核兵器禁止条約をめぐる政府自民党の対応ぶりを見ていて、対米忖度の典型例として思い出したからである。岸田外相は昨秋にはこの条約に賛成する意向を示し核保有国と非核保有国の橋渡し役を果たしたいと述べていた。これは広島県はじめ多くの関係者をして喜ばせたものだ。ところが、当の外相はこの3月末に一転して、日本が条約交渉の場に参加することは両陣営の対立を深め、逆効果になるかもしれないとして、後退する態度に変わってしまった。対米関係への悪化など始めからわかっているにも関わらず、格好いいことを言っておきながら結局は元の木阿弥に終わるのでは全くだらしがない。かねて私どもが日米、自公の関係が似ていることにことよせて、自民党政府に対米自立を追求する姿勢を求めたのだが、結局は十年一日のごとくその体質は変わっていないかに見える▲「核廃絶」という課題は、公明党議員にとってどの党よりも大きく重い問題である。最大の支持団体・創価学会がいかにこのテーマに真剣に取り組んでいるかは改めてここで触れるまでもない。「核廃絶」は、生命の尊厳に強い関心を持ち、平和確立を至上命題とする公明党にとって、まさに存立基盤が問われるほどの意味を持つ。一方、国際政治の現場では長く「核抑止力」が”市民権”を有してきており、”必要悪”としての位置を確保してきたことも否めない。理想としての「核廃絶」を叫ぶことは政治の現場では、意外に簡単なことではないのである。20年の議員生活の中でほぼ同期間を外交・安全保障の議論の場に置いてきた私としては、しばしば両論並び立たぬジレンマに悩んできた▼かつての同僚代議士・斎藤鉄夫元幹事長代行(党選対委員長)は、広島県を主な地盤とする。このひとと私は歳こそかなり違うものの”同期の桜”ということもあって親しい関係だが、その政治的主張ではしばしばぶつかることがあった。それは時に「核廃絶」であり、「原発是非」であった。被爆地・広島を背景に核兵器の絶対悪を颯爽と掲げる斎藤氏。それに対して、私は「核抑止」の立場を慮らざるを得ない安保・外交畑の人間だった。一方、テーマが「原発是非」になると、彼は工学博士として元大手建設会社の宇宙工学研究部門で鳴らしただけあって、原発を低減させやがては廃止するという主張には与しない。ゴールをゼロにおき、原発は順次減らすべきという私の立場とは折り合わなかった。かつて、「3・11」前には安全対策を最大限に凝らしたうえで、原発に依存することに疑問を抱かなかった私だけに、偉そうに言うべき立場ではないと分かっていながら、である。今となっては、政調の現場で大勢の後輩たちを前に激しく論争したことが懐かしく思い出される。これから数回にわたって「核廃絶」への道がいかに遠く険しくとも、それを乗り越えねばならないことについて考えていきたい。(2017・4・5)