Monthly Archives: 2月 2019

爽やかだった故大沼保昭さんの偲ぶ会

大沼保昭さんを偲ぶ会が2月21日の夜に東京・神田の如水会館で行われました。実に爽やかそのものの素敵な偲ぶ会でした。国際法の大家の大沼さんには、公明党の会合で講演いただいたり、公明新聞にPKO法を巡って長大な論文を書いたりしていただきました。あの「9-11」の米国での同時多発テロ事件の時に、米国人政治学者ジェラルド・カーチスさんと共に、ご自宅に招かれ(故市川書記長と一緒させていただく予定だったが、私だけになった)て、色々とお話しさせていただいたことも思い起こします▼この日の偲ぶ会では6人の代表の方々からの弔意が表明されました。トップは、国際法学者・イーディス・ブラウン・ワイスさん。大沼さんの最後の学術書であるInternational Law in a Transcivilizational World  が今後何世代もの人が読み続け、学びを得るであろう傑作だと褒め称え、その革新性を強調されました。「學びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや」との論語の一節を体現した人であるとも。ついで、建築家の安藤忠雄氏。大沼さんを自分の設計した建築物に案内すると、彼は何やかやと批判しつつも、暫くするとまた幾たびか訪れてくれたと、ユーモアたっぷりに語られました。幾つもの臓器をガンのため切除したという安藤さんに、その闘病の実態を訊いてこられたとの秘話も披露されました▼ついで読売新聞特別編集委員の橋本五郎さん。学問的厳しさをいかにたたえた人であったかを大沼さんの『戦争責任論序説』のあとがきなどを通じて指摘。併せて、死の間際まで自分の葬儀のプロデュースをし、この原稿にまで手を入れられたとウイットを込めて紹介された。最後に立った渡辺浩東大名誉教授は、長い付き合いだったが、ランチを一回共にしただけで、一度も飲んだことはなく、常に火花を散らす議論をする仲だったとのちょっと変わった、密なる二人の関係を披露。「双方不満なら良い条約」「この世に完璧なものはない」などといった大沼さんの言葉を引用し、リアリストにしてアジア主義者だった故人を心底から讃えておられました▼奥様の清美さんが、参列者への「御礼」文に、印象的なことをたっぷり書かれていました。「大沼は生前、時を無駄にすることを嫌う人でした。それは自分のこだわりにその時を割きたいためでした」「自分が納得するまで一分一秒まで時を割きたい、そしてそのために、自分のできる限りの努力をしたい」「大沼は亡くなる前『自分の人生、思い残すことはない。これも自分を支えてくれたみんなのおかげだ。幸せな人生だった』と心から感謝しておりました」「長きにわたり、完璧主義で何ともわがままな大沼とお付き合いいただきましたこと、有難く心より御礼申し上げます」と締めくくっておられた。娘の瑞穂さんが参院選に出るという時に私にも相談されました。その時の大沼さんはどこにでもいる、娘のことが心配でならぬひとりの親父さんだった。あの頃の大沼さんが懐かしい。(2019-2-26)

 

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放置人工林を天然林化する仕組みを今こそ

日本で最もまじめに奥山を守り抜こうとしている団体ー公益財団法人「奥山保全トラスト」。その理事会が16日に開かれ、私も参加してきました。この日は平成30年度の事業報告、収支決算を承認するためのものでしたが、この一年で、5ヶ所の新たな地を取得したことが報告されました。宮崎県延岡市北川町(10ha)、熊本県上益城郡山都町(31ha)、福島県会津若松市(5ha)、岐阜県本巣市(57ha)、愛媛県四国中央市(10ha)の5ヶ所です▼これで、この財団が所有するトラスト地は、全国17ヶ所、延べ面積は2100haとなりました。それぞれのトラスト地では、人工林の間伐、広葉樹林再生、植生保護、野生動植物の調査などを進めており、平成30年度は、白山トラスト地で、自動撮影カメラの設置を行って、野生動物の撮影に成功したといいます。公益財団の資格を得てからだけでも5年。それより前の段階を加えると、十数年間の地道な奥山保全への動きを積み重ねてきており、極めて注目されるものと思われます▼戦後の政府の拡大造林政策は、伐り出すこともできないような奥山にまでスギやヒノキなど針葉樹を植えまくりました。その結果、現在では1030万haと言われる人工林のうちの3分の2もの多くが放置されたままになっています。この広大な放置人工林は、山の保水力を著しく低下させ、豪雨のたびに崩れ、人命や財産を失うに至っています。加えて、スギ・ヒノキから発生する大量の花粉により、花粉症が大発生し、国民生活を脅かしていることは言うまでもありません。「奥山保全トラスト」は、こういう事態を変革するために、実践自然保護団体の一般財団法人「日本熊森協会」と力を合わせて懸命の挑戦をしてきています▼そんな折、政府もようやく重い腰を上げて、森林整備に本格的に取り組もうとしていることは注目されます。通常国会に、「森林環境税及び森林環境譲与税法案」を提出したのがそれです。これは、住民一人につき1000円徴収し、約620億円を森林整備に充てようというものです。ただし、林野庁が公表している使途は、❶間伐(境界画定、路網の整備等を含む)❷人材育成・担い手確保❸木材利用促進、普及啓発等ーとしか挙げられていないのが気になります。肝心のスギ、ヒノキの放置人工林を天然林に替えていくとの記述がないのです。天然林化に徴収された税金が必ず使われることが確信できないということでは、画竜点睛を欠くことになりかねません。私は公明党や自民党の関係者たちに、このことを訴えてきましたが、残念なことに法案に反映されていないのです。(2019-2-20)

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厚労省の不正統計事案の責任

先日、某民間テレビ番組で、厚労省の統計不正をめぐる一連の事案を巡って、与野党の厚生労働大臣経験者二人の「対決」討論を見ました。司会は田原総一朗氏。見応えありました。このテーマは、直接対決の個人戦(この番組)、政党間同士の団体戦(予算委)との二つの側面があると思われます。私のみるところ、軍配は個人戦では長妻昭氏に挙げざるを得ませんでした。片方の相手・塩崎恭久氏はそれなりに防戦に務めていましたが、やや問題すり替えが目立っていました▼ただ、野党側の予算委における追及ぶりはお世辞にも鋭いとは言えず、田原氏のその角度での指摘に対し、長妻氏も不承不承ながら認めていました。この問題の発端は、厚労省の役人の統計に携わる仕事そのものへの意識の低さにあると思われます。厚労省の仕事の中で、物事のベースをなす材料集めが杜撰であることの根源は、皆があまりにも誇りを持てない仕事だったということでしょう▼つい先程大臣になったばかりの根本匠氏が攻撃の的にさらされるのは、巡り合わせとはいえ、気の毒な気もしないではありません。歴代の大臣の責任が問われる所以です。やはり民間テレビの、しかも関西エリア限定の番組で元同大臣で、元東京都知事経験者の舛添要一氏が、司会者から責任を問われ、あれこれ自分の実績をあげて誤魔化していましたが、見苦しいの一言でしょう。全ての厚労省関係者が責めを負うしかないと思います▼その点は、このところ10年以上連続して同省副大臣を輩出している公明党も免罪というわけにはいきません。不肖私も副大臣をしていた時期もあります。ですが、問題の所在に気づくことすらありませんでした。私の高校同期の友人が統計学専門の東大教授で、同省のある審査会に名も連ねていた人物だっただけに、問題意識を持つべきだったと思いますが、それこそ「後の祭り」です。今後の再発防止に向けてなすべきことは少なくないのですが、過去に遡って関係者を政治家も含めて罰する仕組みも必要ではないかと思います。でなければ、結局喉元過ぎれば熱さを忘れるというのが関の山でしょう。(2019-2-15)

 

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平成天皇の背後に小泉信三塾長ー福澤研究センター准教授の講演から

姫路慶應倶楽部の新年例会が先日、姫路駅傍に出来た新しいホテルで開かれました。この日のメインは、慶應大学の福澤諭吉研究センターの都倉武之准教授による小泉信三元塾長を巡るミニ講演でした。これでこの人の講演は連続3回目。知ってるようで知らない慶應の歴史と伝統を学ぶ良い機会となりました▼小泉信三塾長といえば、戦争被災で大火傷をされた歪みひきつった気の毒な顔面が思い起こされます。私が入学した昭和40年の式典壇上におられたとのこと、同期の竹田祐一姫路慶應倶楽部前会長(まねき食品社長、姫路経営者協会会長)のこの日の挨拶で思い出しました。小泉信三は、1933年から1947年までの15年もの長きにわたって塾長を勤めました。文字通り戦前戦後の塾の「顔」であり、「象徴的存在」でした。父上の小泉信吉(のぶきち)は1987年から3年間塾長でしたから親子二代の塾長です。父が40代半ばで死んだのちに、諭吉に可愛がられたといいます。ちなみに長男の信吉(しんきち)は戦死。その生涯を父信三が『海軍主計大尉 小泉信吉』として著したことは有名です▼小泉信三はデイビッド・リカードの経済学を研究した経済学者でしたが、開戦に際し戦意高揚を訴え、戦争協力を厭わなかったと言います。戦争中の行動が後に問題視されますが、現実には、天皇に日米戦争回避を進言するなど、身近な人には「非開戦論者」と認識されていたようです。一般向け著作として著名なのは『共産主義批判の常識』。戦後、マルクス主義が跋扈し、日本共産党が大きな顔をしていた時期に、敢然とその問題点を理論的に暴いたことから、右翼反動の代表のように見られてきました。しかし、その著作における論理的展開の鋭さ、その後の歴史的経緯からも、改めて脚光を浴びていいものといえましょう。ご本人は硬式テニスをこよなく愛したスポーツマンでした▼今回、小泉信三を改めて学ぶことなったのは、平成天皇の皇太子時代の教育掛をされたこと。昭和24年に東宮御教育常時参与に就任。『ジョージ5世』『帝室論』などを教材に、帝王学を講じたとされます。平成天皇は、象徴としての天皇のあり方をめぐる深い思慮や国民を常に意識された具体的な行動を通じて、改めてその存在に賛嘆の声が高まっています。その背景に、小泉信三あり、ということを再認識しました。以上、この日の講演のエッセンスを、小川原正道著の『小泉信三ー天皇の師として、自由主義者として』(中公新書)をちょっぴり参考にして、まとめてみました。映像を使っての同准教授のわかりやすい講義に参加者は大いに満足をした次第です。(2019-2-10)

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二足の草鞋の作家と多芸、一芸に秀でた人との出会い

このところ親しさを増して付き合っている知人、ペンネーム・諸井学さんこと伏見利憲さんが先ほど姫路文化賞・黒川緑郎賞を受賞された。この人については、既に『忙中本あり』でも取り上げた(『種の記憶』)が、電器店を営みながら小説を書いている作家である。長年にわたって姫路の同人誌『播火』に作品を発表し続けてきており、このほど姫路市で優れた文化活動を展開する個人や団体に贈られる同賞受賞者に選ばれた。それを祝おうと、石川誠先生の呼びかけで、姫路賢明女子学院短期大学の森本おさむ先生と私の3人が集まって、先日姫路市内で会食懇談を行った▼諸井さんはポストモダニズムに依拠したユニークな小説を発表する一方、『夢の浮橋』という意欲的な古典文学評論を同誌に発表し始めている(現在二回分)気鋭の作家。石川誠先生は、本業は医師ではあるが、源氏物語から馬術(国体選手)に至るまで文武両芸、諸事百範に渡って悉く極めておられ、とりわけ文学にはうるさい。このお二人の凄さはそれなりに理解しているつもりだった。そこへ森本先生という文学博士の登場である。この人、川端康成の研究において並ぶものなき存在と聞き、もはや戦意喪失したと言う他ない▼諸井さんの受賞記念を祝う会はのっけから、古典から近代文学へとお三方の話す領域は熱っぽく広がっていった。こういう場合、下手に口を挟むと怪我をする。私は専ら美味しい料理を頂きながら、時折相槌を打つことに専念した。私の実態をご存じない森本先生が「政治家でありながら、読書通で知られる赤松さんは‥‥」と水を向けられたが、「いえいえ、私ごときは‥‥」とかわすのが精一杯であったことを告白せざるをえない▼ただそんな私でも、唯一「参戦」できたのは川端康成の自殺を巡る問題であった。芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫らと並んで小説家の自殺の中で、川端康成のそれはいささか異なっている。第一に自殺時が高齢(実は今の私とほぼ同じ)。第二に自殺の原因説が複数に分かれる。私は、自殺について持論を持っているので、つい口を出した。川端研究の大家を前に、である。結果は‥‥。これまで議論、懇談の場面で沈黙は屈辱とばかりに、駄弁を弄することが多い私だが、黙って人の話を聞くことの大事さを改めて知った。「九思一言」とはよく言ったものである。ともあれ、一芸に秀でた人、二足のわらじの人、多芸に通じる人といった三者三様の優れものとのひとときは貴重な経験となった。(2019-2-6)

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