⚫︎「腐る建築」と「ポストモダン」建築の脅威
「今週の本棚」(毎日新聞21日付け)は、実に読み応えがあった。松原隆一郎は、「建築」なるものを根底から考えさせてくれる2冊を紹介したうえで、「現在の日本社会は、樹木を伐採する再開発を乱発している。黄昏時や木漏れ日の記憶は現実にたどり返せなくなるだろう」と結論づけている。『ファスト化する日本建築』(森山高至)と、『建築と利他』(堀部安嗣、中島岳志)である。我々の目の前に展開する日本の「建築」の劣化ぶりが分かる一方で、建築素材としての樹木の美しさと尊さを改めて印象づける2冊にも強く惹かれた。藻谷浩介による『奥入瀬でネイチャーガイドが語ること(第一集)』(河井大輔編著)と『エコツーリズムは奥入瀬観光を変えうるか』(河井大輔)の2冊の書評である。松原、藻谷のこの2書評を今回の一推しとしたい。
僕は松原の評を読みながら、「建築」だけでなく、現代日本における「創造」の根幹が「ファスト化」で脅かされている現実に気づき、自身もその愚行に加担している恐れを抱く。前回にも触れたように、膨大な情報を入手する手法や表現方法の簡便化は急速に広まっているが、気をつけねば、早ければ、短ければよしとする風潮に流されかねない。直接には「建築」マターではないが底部で通じる。
我がブログも敢えて長文を厭わず長めのものを書いたり、できうる限り背景を説明しようとしてきたこととも繋がっているように思われる。ともかく短く、簡素化するのでなく、論理だてを優先したいものだと思う。かつて幸田露伴の『五重塔』を読んで覚えた感動は、「建築」のファスト化の真反対に位置するものに違いない。
⚫︎森の中のぶらぶら歩きの醍醐味を味わうこと
一方、藻谷の評で取り上げられた2冊で、僕はかつて妻と一緒に行った「奥入瀬」の素晴らしき風景を思い出した。数少ない夫婦での旅の一コマだが、緑滴る一大絵巻とでも表現するしかない10キロほどの渓谷を2人で疲れながら歩いた遠い日は忘れ難い。しかし、それは味わい深さにおいて、到底ここで語られる「本物のガイド」による説明を聴きながら歩くことには比べるべくもない。この本を手にしてもう一度チャレンジしてみたいと心底から願う。
河井が「自然保護区でもある渓流の全体を博物館(=入場料を払い、ルールを守りつつぶらぶら見学するだけの空間)として、再定義すべきだと提言する」という。このくだりを引用した藻谷は、「実現すれば、奥入瀬は、アジア、いや世界の宝となって、末長く自然の宝庫としての日本のブランドを向上させることになるだろう」と結んでいる。
だが、「博物館」なる言葉が醸し出すイメージはあまり僕にはフィットしない気がする。先年訪れた島根県安来市の著名な庭園・足立美術館での負の体験(庭園内を歩けずガラス越しで観る)が邪魔をしてしまうからだ。もちろん、この比較はお門違いだが、全体を「博物館」化するという発想についていけない。我が感性の方を大事にしたく思うのだがどうだろうか。
最後に、今週の本棚の2頁目の上段にある『歩くを楽しむ、自然を味わう フラット登山』(佐々木俊尚)は、ミニコラムながら強く惹きつけられた。僕が今もなお、公益財団法人『奥山保全トラスト』の理事を務めさせていただき、若いメンバーと共に奥山を歩く(滅多にないが)ように心がけていることを蛇足だが付言しておきたい。(敬称略 2025-6-22)