「理想」と「現実」の立ち位置でわかれる「平和」観ー公明党の二枚看板の検証❷

安全保障にまつわる議論の変遷

伊藤元海将の云う「一歩ずつの前進」は、立場の違いによって「一歩ずつの後退」であったり、時に「大幅な後退」と写る。以下に、安全保障にまつわる法整備の変遷を追ってみたい。

思い返せば、平成元年(1989年)11月のベルリンの壁の崩壊による冷戦の終結が、まさに時代を画する出来事だった。束の間の和平感は漂ったものの、翌2年(1990年)8月のイラクのクウェート侵攻で敢え無く崩れさった。冷戦期を通じてずっと動かなかった国連による「集団安全保障措置」がここから.動かざるをえなくなり、半年かかった末に、米国を中心とする多国籍軍の「武力制裁容認」が決議され、湾岸戦争が始まる。平成3年(1991年)1月のことだ。

当然ながら日本も激動の時代を迎える。米国から多国籍軍への「ひと」の支援協力としての自衛隊派遣を求められ、当時の政府自民党は、「国連平和協力法案」の成立を目指す。しかし、公明党を含む野党がこぞって反対、廃案に追い込んだ。代わって「かね」による協力をせめてもせねばということを自民党が決断する。当初の40億ドル支援から90億ドルを追加、合計130億ドル支援をすることになった。公明党は党内大議論の末に、賛成に回る判断をした。私は当時落選中で議論には直接参加していないが、当時の市川書記長が内外の舞台回しの役割をこなし、与野党を通じての実質的牽引者となった。このスタイルはPKO (国連平和維持活動)法が成立に至る平成4年(1992年)6月まで続く。

公明党的にはこの間、「平和5原則」を法の中に組み込むことを提案するなど、終始一貫して国民的合意を掴む努力を展開した。戦争に加担するのかとの内外の批判に対し、紛争が終わったあとに再発を防ぐために派遣することは国際貢献に他ならず、傍観者的態度こそ「平和」に反するものだとの論陣を張った。反面、「牛歩戦術」と称して審議妨害をした旧社会党、大反対のキャンペーンを展開した朝日新聞などは、これ以後凋落の道をたどって行く。大きな分かれ道だった。

pKO法以後の「安保」風景

PKO法成立以後の日本の安全保障政策の展開は、あたかも同法がお手本となったかのように、その手法がなぞられることで、乗り切ることになっていった。節目となったのは以下の三つの法律の成立である。

一つ目は、平成11年(1999年)5月の「周辺事態安全確保法」である。これは遡ること3年前の平成8年4月の橋本龍太郎首相とクリントン米国大統領の首脳会談での「日米安保共同宣言」が発端となった。そこでは「日米同盟の再定義」がなされ、「日米防衛協力の指針」(日米ガイドライン)が見直された。その焦点は、「日本の平和と安全に重要な影響を及ぼす事態」としての「周辺事態」であった。立法化作業は3年かかったが、その経緯の中で徐々に頑なな世論が変化をしていった。

それには、平成10年(1998年)8月に日本上空をテポドンが通過した事案や、翌11年(1999年)3月の能登半島沖での不審船事案に対して、海上自衛隊に初の「海上警備行動」が発令されるなどといった北朝鮮の脅威が現実のものとなってきたことが影響したといえよう。

「対テロ戦争」の時代の到来

二つ目は「テロ対策特別措置法」である。21世紀に入った途端に(平成13年=2001年9月)起きた、米国同時多発テロは、それまでの「平和」がかりそめのものであったことを世界的規模で一気に暴露した。NATOや豪州は直ちに集団的自衛権を発動、米国を中心とする有志連合軍の編成のもとに「対テロ戦争」が始まった。日本もそれらの国々とは一線を画するものの、24人の犠牲者をだした国として、独自の支援に立ち上がった。これが、インド洋上などで動く多国籍軍に給油などの後方支援をする「テロ対策特別措置法」の成立(平成13年)を求めるものとなっていった。これにも「戦争に加担する」「戦争に巻き込まれるのではないか」との懸念に基づく批判が巻き起こった。しかし、人道上の観点から後方支援をすることには問題があろうはずはない。公明党は、紛争の当事者とならぬよう、いざという時には撤退するとの条件をつけることなど成立に向け尽力した。明らかに「PKO平和 5原則」の応用であった。

三つ目は、15年(2003年)に成立した、有事法制の基本的な枠組みとしての「武力攻撃事態法」である。これには野党第一党の民主党も賛成に回った。かつての防衛論議とは様変わりの様相を呈したのである。自・民・公の三党の防衛関係議員の間でしばしば協議がもたれ、最終的に合意を見たことは、隔世の感を抱くものであった。

以上に見たように、平成に入って約15年の間の安全保障政策は、憲法9条の制約のもとに、いかに国を守るために現実的な対応をするかの選択と決断の連続であった。ことが起きるたびに、いわゆる「理想」を追う反米の左勢力と「現実」対応ありきの米国追従の右勢力がぶつかり合った。その狭間で、中道主義の公明党は懸命に合意を形成する努力を積み重ねていったのである。(2019-12-31 =次回に続く)

 

 

 

 

 

 

見損なわれがちな「平和主義」ー公明党の二枚看板の検証❶

「平和」の擁護と「大衆福祉」の実現

公明党は「平和」の擁護と「大衆福祉」の実現を二枚看板として、この55年の間、前半は野党として、自民党政治を変えるべく闘ってきた。後半の20年は民主党政権下の3年ほどを除いて、自民党と政権を組む与党として、同党の政治の足らざるを補いながら、その軌道を修正しつつ基本的には支えてきた。ある意味で〝離れ業〟としかいいようがなく、その評価は立場によって分かれよう。その歴史のウオッチャーとし、またある時はプレイヤーとして生きてきた私は、当然ながら肯定的に評価したい。この劇的な公明党的手法はあくまで「中道主義」の本義から滲み出るものであって、決してその根本的スタンスを捨て去り、自民党政治に迎合するものではなかったと確信する。

21世紀も5分の1の時が流れ、中盤に差し掛かろうとする今、改めて日本の政治・経済の置かれた状況を吟味する必要があると考える。時あたかも、国際政治にあっては、米国のトランプ大統領の「アメリカ・ファースト」なる言動に代表されるごとく自国本位主義が世界を覆いつつある。そして、経済におけるグローバリズムは国境の垣根を超え、奔放な動きを一段と強めている。他方、国内政治・経済は、富めるものは益々富み、貧しきものは一段と貧しい、「分断社会」の様相を明瞭にさせている。私のような先の大戦直後生まれが見てきた、米ソ対決から米国一極といった国際社会の見慣れた風景はもはや遠影に退いた。世界第2位を誇った日本の経済力も遠い昔の語り草になり、そのあとを建国70年余の中国が襲っているのだ。

こうした内外の激しい変化にも関わらず、私たちが旧態依然とした視座しか持たず、古い固定観念に捉えられていたとしたら、どうなるのだろうか。ここでは、連立与党のパートナー公明党の「平和」主義と「大衆福祉」主義の立ち位置を検証する中で、その方向に過ちがないのかどうか、思わぬ陥穽にはまっていないかどうかを見ていきたい。

幾重にも歯止めかけた「中東への海自派遣」

2019年末に安全保障分野で久方ぶりに話題になったのは、中東地域への海上自衛隊の派遣問題である。与党の中でも賛否両論がぶつかった。有志連合には参加せず、日本独自の取り組みとして、防衛省設置法に基づく調査・研究を目的に護衛艦1隻とp3c哨戒機1機、約270人規模の隊員をとりあえず1年派遣する。延長は1年ごとに更新するが、公明党との折衝の末に、最終的に「閣議決定」とし、国会に報告することで合意をみた。報道によると公明党の主張に配慮して、自民党が当初の方向性から譲歩したとされる。こうした経緯を知るにつけて、かつての歩んだ道を思い起こす。防衛費のなし崩し的膨張に歯止めをかけ、自衛隊の海外派遣には幾重にも条件をつけ、兵器に直結するものは輸出の対象としないーカネ、ヒト、モノにわたる軍事との距離の設定ーいずれも公明党の取り組みだったのである。

それでいて、いわゆる左翼的な軍事拒否姿勢とは一線を画してきた。「55年体制下」では、左右勢力による合意形成は殆ど見られず、ただただ「不毛の対決」のみが繰り返され、国際社会での異端児とされてきた。それではならじと、「憲法9条の枠の中」との自制を課しつつ、現実的対応に苦慮して匍匐前進してきたのが公明党の防衛政策だった。市川雄一、冬柴鐵三の両先輩の後を継いで安保部会長の任につき、神崎武法、太田昭宏、山口那津男と続く党代表の下で、仕事をしてきた者として、誇らしく思う。

その辺りのことについては、この20年余りの歳月における防衛政策をめぐる推移、変遷を論評した元海将の伊藤俊幸・金沢工業大虎ノ門大学院教授の発言(2019年5月14日付け産経新聞『正論』)が本質を突いている。彼は、「安全保障法制に見る政策の変遷」と題する論考の結末部分で、「鳥瞰するならば、平成とは冷戦が終わり、脅威が顕在化しているにもかかわらず根強い反対勢力が存在する中、安全保障政策を一歩ずつ前進させてきた時代だった」と規定しているのだ。「一歩ずつ前進」との表現に、公明党と自民党の防衛関係者による辛抱強い交渉の現れを見ることが出来よう。(一部修正=次回に続く)

 

 

 

 

 

 

高校生パワーが炸裂ー第7回全国高等学校観高サミットに参加して

高校生ってなんて眩しい存在かを思いっきり感じさせられた二日間でしたー全国から7つの高校の生徒たちが集まって徳島市の四国大学で第7回全国高等学校観高サミットが開かれ(13-14日)、これに私も初めて参加してきました。テーマは「地域観光の未来を拓く高校生の取り組み」。北海道ニセコ高校、石川県立金沢商業高校、宮城県松島高校など7高校の生徒たちがそれぞれ数人で、15分以内のプレゼンテーションを競い合うもので日頃の研鑽を発揮する見事な内容でした。最優秀賞を獲得した金沢商業高校のものは、「訪日外国人観光客向け企画旅行の作成」。同校は株式会社王座金商を運営、株式会社日本ツアーシステムと旅行代理業契約を結んで、毎年生徒が考案した金沢周遊バスツアーを代理販売しているといいます。今年度は、ツアーのターゲットを外国人に設定して企画を作成。シンガポールの専門学校・テマセクポリテクニック校を訪問して、外国人が好む観光の嗜好についての調査も行ったとのことでした▼私は一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」の専務理事として、内外の観光客の淡路島、瀬戸内海各島への誘致や、観光人材育成の仕組み作りに取り組んでいます。そういう中で、徳島商業高校の鈴鹿剛教諭と知り合いました。この人は現在48歳ですが、これまで約8年ほどの期間、同高生徒に対する観光教育を手がける一方、学内会社「COMCOM」を作って、高校生に実際に観光に動く場を提供してきました。今ではNPO法人雪花菜(おから)工房を設立、教え子を理事長に据え、地域起こしに貢献するなど多彩な活動を展開しています。現在はカンボジアとの交流を高校生と共に勤しんでいるというから驚きです。特に私が関心を持ってきたのは、全国の実業高校の教師たちとネットワークを組んで、今回のような高校生の観光のための集いを開いたり、教師たちの学びの場を設けていることなどについてです▼明年の東京オリンピックを前に、観光庁も観光人材の育成に力を注いでいますが、なかなか即戦力の育成に結びついていないのが現状です。そこで、この鈴鹿先生たちの既存のネットワークを活用することがその目的に大いに役立つものと着眼しました。これまで観光庁当局に幾たびか直接的に要請の場を設けたり、公明党を通じて政策提案も試みたりしてきました。未だそうした努力が実を結び、仕組み作りが実現するには至っていませんが、今回ようやく観光庁が加藤審議官を派遣してくれました。大いなる前進が期待されています▼二日間にわたる大会をつぶさに見た結果を同審議官も講評の中で、高校生たちが実地に学んだ「観光」を通じて、それぞれの郷土に誇りを持つとともに、世界に発信する力が培われることに、大きな期待を寄せていました。学校教育の現場で、観光を学ぶ機会など古い世代では皆無でした。だが、この大会に参加した高校生たちはその成果を着実に生かし、それぞれの全人的成長に役立てるに違いないことを確信します。北は北海道、南は大分県の高校生たちが「観光」の発信をした後、相互の交流をする姿(入り乱れてそれぞれ7人の話し相手を探し、対話を試みるゲーム)を見ながら、若いパワーの秘められた力を実感しました。こうした草の根的な観光教育の現状をさらに拡充させ、現実に役立てるために私のような者も闘う必要があります。観光日本の前進にもっともっと貢献していきたいと、新たな決意が漲ってきました。(2019-12-16)

もし今公明党が野党だったらー臨時国会の閉会に思う

12月9日に臨時国会が幕を閉じました。その直前の6日に一般社団法人「安保政策研究会」の定例会が開かれ、久方ぶりに参加しました。そこでは、日韓関係を巡って寺田輝介元韓国大使からの基本的な問題提起がなされた後、座長役の浅野勝人元官房副長官や登誠一郎元OECD大使、星野元男元時事通信台北・北京特派員らを中心に種々意見交換がなされました。私としては大いに触発されましたが、気になったのはその前段での議論です。国会における野党の「桜を見る会」に対する追及の杜撰さが指摘されました。その中で、こんな野党の体たらくでは、好悪を別にして安倍4選もありうるとの杉浦正章元時事通信編集局長の発言が耳に残ったものです。今は与党ですが、かつては野党だった公明党出身の私としては大いに胸騒ぐ場面でした▼世に「大山鳴動鼠一匹」と云いますが、終わってみれば色々と問題が出てきたものの、結果的には安倍自民党はビクともしなかったとの印象があります。野党の存在とは一体何なのかと、虚しさのみが残ります。第一に、菅原一秀、河井克行二人の大臣の辞任。問題が発覚するやいなやさっさと辞めてしまいました。こういう大臣には以後元経産相とか元法相といった呼称を取り去ることが求められます。人の噂も何とやらで、残るのは大臣の肩書き。例え数日とは云え、任命されたという事実は重いのです。それ故に職に固執して恥の上塗りをせず、元大臣の呼称を後生大事に持つために直ちに辞めたのでは、と勘ぐりたくなるのです。「桜を見る会」問題では、首相のやりたい放題を支える与野党の議員たちの屈折した心理が伺えます。大勢の議員たちが参加したとの事実があるゆえ、どんなに首相を攻撃したところで、以後気をつけますで済んでしまうのが関の山なのです。これをターゲットにした立憲民主党以下の野党の戦略の拙さのみが残ります。議論を聞いていて、もし公明党が野党だったら、との詮無き思いがふと浮かんできました▼外側からの自民党政治の改革は困難を伴うから、内側から変えていくのだとの論理を、「自公連立」に当たって、私などは使ったものです。たしかにその後、常に弱者の側に立った公明党の視点を取り入れての自民党政治の展開は、枚挙にいとまがありません。加えて、民主党政権誕生前後5年ほどに日本が経験した政治の不安定さを、公明党が自民党側に加担することで安定化をもたらしてきた、と云えるでしょう。しかし、問題はその「政治の安定」で失われたものはないか、という点です。御厨貴東大客員教授が「平成から令和へーさらに増す公明党の存在感」という論考(『潮』1月号)の中で、「『統治の党』としての性格が強まるにつれて、今後どこかで平和主義や生活主義と矛盾する局面が訪れるかもしれません」と述べる一方、「自民党と決して馴れ合いにならない自覚と緊張感を、公明党はこれからさらに大事にして欲しい」と強調しています。わたし的にはこの御厨氏の言葉が大いに気になります。「統治の党」としての「政治の安定」が謳われるそばで、既に随所で「生活主義」が脅かされている現実があると思うからです。経済格差に喘ぐ庶民大衆に一体どういう手を今の政府・自公両党は差し伸べていると云えるのでしょうか▼今の事態を見ていると、もう与党として自民党を支えるよりも、野党に戻って、新たな政治改革の道を再び模索した方がいいのではないかとの思いすら抱いてしまいます。絵空事と自覚しつつそんな風に思ってしまうのは誠に嘆かわしいことです。時に与党として、またある時は野党として、公明党がひとり二役ならぬ〝一党二役〟ができぬものか。白熱した外交論議の最中に、そんなよしなし事の発言をすることは憚られると、思わず言葉を飲み込んでしまいました。いつにない後味の悪さを引きずって会場のプレスセンターを後にした次第です。(2019-12-9 一部修正)