【109】「8-15」の後も対日戦をやめなかった国はどこか?/8-15

 81年前の今日8月15日。日本は長い戦争を敗北してしまった。ほとんどの普通の国民はこれで戦争は終わったと思い込んだ。昭和天皇がポツダム宣言受け入れを国民にラジオを通じて表明(8-15 玉音放送)されたのを聞いたのだから、当然だろう。しかし、戦争(局地戦闘と呼ぶべきか)は終わらず、ある意味で15日を境に、いやまして残酷なものに変わって続いた。それは別の意図を持った国による新たな戦争の継続だった。日本史を伝えるものの本には「その後も南樺太や満州ではソ連軍の侵攻が続き、犠牲者が出た。そして、9月2日の降伏文書調印により、戦争は終結した」とある。8-15に至る土壇場の経緯については旧ソ連は8-9の対日参戦から、遅ればせながら取れるものは根こそぎ頂こうと思ったのか。これを人は「火事場泥棒」と呼ぶのだろうが、「日露戦争の意趣返し」とでもいいたくなる◆「南樺太や満州でのソ連軍の侵攻」との表現は、ソ連軍のみによる攻撃と思ってしまう。だが、ソ連参戦の翌日8-10にモンゴル人民共和国(旧モンゴル)は日本に宣戦布告しているのだ。具体的な動きは定かではないが、ソ連軍と旧モンゴル軍の連合軍が満州方面では常態だったと見られる。実はこの問題については、既に書評やイベント報告などで僕は幾度か取り上げてきた。ジャーナリストの井手裕彦氏の『モンゴル抑留』に詳しい。外務省、厚生労働省など日本政府には、その実態を知りながらも究極のところは曖昧にしてきたと言わざるを得ない経緯がある。煎じ詰めれば、日本が旧モンゴルという存在を国家承認してこなかったことに原因があり、社会主義大国・ソ連のもとで第一号の衛星国になった旧モンゴルの影が極めて薄かったことが災いをした。今回井手氏の指摘があって初めて日本は旧モンゴルとも戦争をしたんだとの認識を持った人も少なくないだろう◆かくいう僕も井手氏の存在や主張を知ったのは最近になってからだが、著作を貪り読む中で多くの知識を得た。色々初めて知ったことばかりだが、最も印象的だったのは、山海関という旧満州の街で暮らしていた民間人(華北車輛社員)家族が「(領事館からの避難命令で父と)別れたのはソ連・モンゴル軍が侵攻してきた『運命の日』、1945年8月31日である」との記述(同書102頁)である。これは、井手氏が2019年11月に初めて会った民間人の死亡者の遺族(当時84歳の娘さん)から聴いた話の一部だという。ソ連・モンゴル軍が満州に侵攻してきたのが、終戦から16日も経っていたことにも驚いたが、民間人家族(母親と子供5人)が「無差別に拉致された」父親と最後の別れをした時と、その後の一部始終や民間人死亡者の遺族の心の底からの国への恨みの言葉など、いずれも強い共感を覚えずにはおかなかった◆日本がモンゴル人民共和国を国家として承認したのは1972年2月19日。事実上は1961年に国連に同国が加盟した時に関係は動き出したといえようが、日本と彼の国は疎遠な関係が続いた。全てはソ連経由だったと見られる。「抑留」についても、旧ソ連と旧モンゴルの間では、日本人の捕虜を分け合うとの「密約」があり、それに応じて全てが決められた。また、日本とモンゴル人民共和国との間には1939年に起きた「ハルハ河戦争(いわゆるノモンハン事件)」の後遺症的遺恨が双方に強く残り、わだかまりがあり続けた。モンゴル人民共和国は、1924年にソ連傘下の国として誕生していらい、「ソ連崩壊」を受けて「モンゴル国」と衣替え(1992年)、民主化したものの強固な露蒙関係に変わりはない。こうした背景もあって、日本は70年近くというもの、旧モンゴルを基本的には無視する傾向が強かったと言って過言ではない◆ようやく両国の関係に光が差し始めたのは1991年8月の海部俊樹首相の初訪問以来といわれ、未だ30年余に過ぎないのだ。しかも経済的関係重視の中での〝歪んだ歩み〟である。「抑留」にまつわる問題処理も遅れ続け、まっとうな外交関係樹立も棚上げ、後回しだったことは想像に難くない。「友好第一」はそれなりに効果をあげてはいるものの、基本はやはりご都合主義というべきだろう。先日の大阪でのイベント(『モンゴル抑留』出版記念講演会)の場で、井手裕彦氏から突きつけられた日本の対応改善について、僕の方から善処を約束したように、全てはこれからだというほかない。つまり、隠されていた「戦後処理」が新たに顕在化しただけかもしれないのだ。(2026-8-15)

 

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