与野党、そして世論との戦いー転機を迎えたPKO③

PKO法案が可決、成立した(参議院で修正議決のうえ、衆議院に回付された末に)のは、1992年6月15日のこと。この時点で戦後の日本が国際社会の中において、全く新しい生き方を選択したことを意味した。同時にこれは、国内政治において自民党単独政権の終焉をもたらす契機となり、連立政権の時代へと連動していった。実は昨年の参院選で、兵庫県では24年ぶりに選挙区選挙に公明党独自の候補を擁立し、大勝利を博することができた。その選挙戦で、新人女性候補の事務長を務めた私は、事務所開きの演説(6月22日)で、過去24年間が実はPKO法の成立から展開と、自公選挙協力の展開と重なり合うことを感慨深く語ったものである。同法の成立前夜は、社会党が総辞職するなどと、できもしないことを大仰に言ってみたり、牛歩戦術をとったりするなど国会内外は騒然としていた。メディアも朝日新聞を先頭に戦争への参加だとの反対論を展開、世論は大きく揺れていた。今から振り返れば、国際社会の中で、一国平和主義から国際協調主義へと新たな足跡を踏み出す大きな一歩となったのである▼この法案は、成立に至る過程のなかで、幾たびか廃案の憂き目をみる流れに遭遇した。公明党の闘いをリードしてきた市川書記長は、当時を振り返る論考『中道政治とは何か 下』(公明新聞2016年10月4日付け)において、法案をめぐる攻防の最終段階で、党内において事態を分析した結果、4つの課題があったことを明らかにしており、興味深い。一つは、自社なれあいの強行採決が反対の世論に火をつけたこと。二つ目は、民社党が「事前承認論」が反映されていないとして反対姿勢に寝返ったこと。三つ目は、マスメディアがでこのことを当時のPKF(平和維持隊)の危険性を煽り過ぎたこと。四つは、自公民三党間に情報の共有に基づく判断の共有がなかったことである。以上のうち、前二者は時間の経緯の中で比較的早くに決着を見た。すなわち、強行採決は自社両党の演出によるもだったことが明白になり、公明党への誤解が消え、却って自社両党への批判が強まった。また、民社の勝手な思い込みによる反対論も消滅し、PKO与党3党という元の鞘に収まったのである▼一方、残る二つは難航しながらも、粘り強い市川氏の闘いで決着を見た。例えば、情報の共有のために、自公民三党のPKOに限定した衆参にまたがる司令塔的協議体を作った。これは衆議院常任委員長室で幾たびも開かれ、判断の共有に繋がった。PKF については党内においてさえ、参加を見合わせるべく法案から削除すべしとの強硬な意見があった。しかし、それは画竜点睛を欠くため、「一時凍結」という形にして、法律で縛り、時期を見て法律で解除するという手段を取ることにした。市川氏は、予算委で当時の渡辺美智雄外相に「当分の間の凍結」との形で提案をしたのだが、同外相は即答を避けた。後日、これは受け入れられ、自公民三党の合意となり、やがて法修正となっていった。この背景について、当時の渡辺氏の側近だった伊吹文明氏(元衆議院議長)は私をも含む懇談の席で、市川氏の粘り強い闘いの結果だと述懐されていたことは印象深く耳朶に残っている▼こうした経緯について、市川氏は国民世論の疑念を払拭するためにいかに苦労したかをしばしば語ったものであり、また様々な論考にも明らかにしている。中道政治とは一言でいえば、「『国民の常識に適った政治の決定』を行うことを基本にする考え方」という捉え方は、平凡な表現に見えて実に鋭い。より具体的には、日本の政治の座標軸たることを目指し「➀政治の左右への揺れや偏ぱを防ぎ、政治の安定に寄与する➁賛成と反対の不毛な対決を避け、国民的な合意形成に貢献する⓷新しい課題に対しては、創造的な解決策を提案する」と述べている。実に分かりやすい方向性の規定づけだ。文字通りその実践を地でいったのがこのPKO法案の闘いだったといえよう。日本における中道主義の具体的実践例として燦然と輝いていることを多くの人に伝えていきたい。と同時に当然ながら今も進行する政治状況の中で、こうした中道主義が実践されているかどうか見守っていきたい。今25年が経って、市川氏が残した遺産をただ食い潰してきただけにしか過ぎない、我が政治家生活に思いを致すときに、内心忸怩たる思いは禁じ得ない。だが、それだけにかつての同僚や後輩たちの闘いには大いに期待したいのである。(2017・8・24)

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