【8】「今週の本棚」から「情報摂取」を考える/6-14

毎日新聞の今週の本棚(6-14付け)

 今週の読書(毎日新聞『今週の本棚』欄を読み解く)については、前週とは違って、ベスト書評をいくつかあげるのではなく、14冊の本の書評の中から、情報摂取のあり方について、私がどう感じたかについてお伝えします。

⚫︎〝読まずとも分かる〟との気分にどう立ち向かうか

 武田砂鉄さんが『奪われた集中力 もう一度〝じっくり〟考えるための方法』(ヨハン・ハリ)について、この欄の初登場者として書評している。僕も含めて日常的に膨大な情報に接する中で、本、新聞やテレビメディアから入手するものを、落ち着いて考えるどころか真っ当に最後まで読むゆとりがない。僕なんか、相変わらず2〜3冊の本の並行読みは当たり前で、新聞記事も前文と結論だけで読み飛ばすことも多い。「さまよう気持ちを許容する心の余裕」(新聞の見出し)は滅多にないことが多い。この本がそのあたりの方法論を述べているのなら読みたいところだが、残念ながら惹き込ませられるような、引用というか、さわりが発見されない。

 僕なら、いくつか著者ハリ氏の提起した方法を俎上に挙げて、料理するのだが。それを発見できず、最後まで読み通せなかった(読んだが、得心がいかなかった)のは残念だった。

 ついで、沼野充義さんによる『過去と思索』全7冊(アレクサンドル・ゲルツェン)は、見出しの「『幻の名著』が読まれる時代が来た」に、まず惹き込まれる。「『戦争と平和』や『カラマーゾフの兄弟』と並んで書棚に置かれるべき作品」という記述にも。そして最後の「ゲルツェンがいまロシアで生き返ったら、きっと強権に追われてまた亡命の身となり、ウクライナを応援するに違いないと、私は想像する。自由を求める闘いはいまでも続いているのだ」とのシメのセリフで、なるほどとばかりにストンと落ちる。

 でも、この本を手にとって読もうとする気にはならない。〝読まずとも分かる〟との思いに負けるのだ。これも情報処理、摂取へのゆとりがないということだろう。

⚫︎世界史における「戦間期」への探究心

  今週は僕にとって難しそうな切り口の本が多くて読もうという気にならないものが多い。だが、『花森安治とあこがれの社会史』(佐藤八寿子)については、ちょっぴり違う。花森が我が母校(長田高校の前身神戸三中)の誇るべき先輩であり、「ていねいな暮らし」を戦後大衆に呼びかけた『暮しの手帖』の初代編集長ということもある。同時代の他誌が集団としての「われわれ」を想定して編集されたのに対し、『暮らしの手帖』は、「一個人を強く意識させる『すてきなあなた』や『人とはちょっと違う私』のもの」であった。つまり、「同調装置ではなく、差異化装置である」というわけだ。

 そして、かつて「付和雷同の精神」を嫌悪した花森が、今なら「SNSというプラットホームに『あこがれ』心を操られている私たちに手厳しい言葉を投げかけそうだ」という結論もわかりやすい。結局これも〝読まずとも分かってしまう〟という気にさせられる。

 となると、読みたいという気になったのは「著者インタビュー」の囲み欄で取り上げられた『外務官僚たちの大東亜共栄圏』(熊本史雄)ぐらいである。インタビュアーの栗原俊雄記者は、その一貫した国家悪への憤りの目線が卓越しており、注目される。「戦間期」とされる1920〜30年代を主な研究対象とする著者が「戦争の原因を探りたく」、国を滅ぼした構想(大東亜共栄圏)の源へと遡る姿勢は、読者として大いに興味を唆させられる。尤も探究途上だからこれは読んでも分からないだろうが、考える糸口にはなるに違いない。

 他にも、先日ラジオで聞いたお声が妙に元気がなかったことで気になる養老孟司さんの評『心臓とこころ』(ヴィンセント・M・フィゲレド)やら、「ペットロス」について「近現代の著名人100人余が残した152の言葉を集め、まとめた」サラ・ベイダーの本など興味を惹くものもあるが、強いインパクトを持つには至らない。(一部修正 2025-6-14)

 

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