読書録『忙中本あり』のスタイルを少し変えます。直近に読んだ本のさわりを月一で紹介します。ご参考になれば。
★ダイナミックな映画と深い古典を抱き合わせ━━『オデュッセイア』上下
「古典」を読まねばっていう意識がこのところの私には脅迫観念に近い。これまでの長い読書遍歴の中で、つい「世界文学の古典」は敬遠しがち。そこで勇気を起こしてちょいとばかり義務を課してみた。各国別にいってみようかと(どこまで行くかは分からないが)、まずはギリシャから。ホメロス『オデュッセイア』。岩波文庫ワイド版で2冊を読んでみた。実はこの選択には訳がある。同名の映画『オデュッセイア』がつい先ごろ公開された。それに飛びつき、しかるのちに本を。映画は3時間ほど。本の方は行きつ戻りつ。壮絶無比な冒険譚、痛快そのものの復讐劇にハマってからは3日ほどだった。
この物語の上巻は主人公オデュッセウスが苦難の連続の旅のお話。下巻は、復讐のドラマ。というのもオデュッセウスが故郷を留守にしてる間に、妻が多数の求婚者に言い寄られる一方、彼らの無謀な酒宴で財産も目減りし続けたという無惨。これまで雑然と記憶にあったトロイの木馬や隻眼の怪物、人間の豚への変化など次々と登場する映像は迫力満点。それを活字でおさらいするのはとてもわかりやすかった。想像を絶する苦難に打ち勝って、最後に〝許されざる敵〟を一掃する活劇はたまらない。だが前半の苦闘の相手が「大自然の猛威」だったので、後半の「不埒な人間どもへの仕返し」にはやや違和感があった。〝変形したカタルシス〟に物足りなさは残る。だがそこは映画と叙事詩の大作を二つながらに押さえて、征服感は味わえた。贅沢はいわない。
★日本の近代についての佐伯風見立て━━『日本人の精神』Ⅰ Ⅱ 『神なき時代の「終末論」』。
ギリシャの古典から一転、次は佐伯啓思の『日本人の精神』二分冊(全3巻の予定)。佐伯に関してはあれこれ読ん
できたが『神なき時代の「終末論」』(2024)以来だ。これは巻末の斎藤幸平との特別対談『「資本主義」への異論のすすめ」が面白かった。新進気鋭のマルクス主義の研究者と保守の大御所的存在との「対決」は実に興味深い。佐伯が「私は『保守』、斎藤さんは『革新』ということになっているが、『脱成長で近代を乗り越える』という問題意識は共通している」とのくだりに「真中道」を自認する私はもちろん共感した。3人とも「脱成長」で一致は、心強い限り。
「日本人の精神」Ⅰは『権威と空気の構造』。Ⅱは、『「おのずから」の歴史意識』。タイトルはとっつきにくい。だが、雑誌などに寄稿したものを集めており、意外に読みやすい。1分冊目は例によって一番後ろの章から取り組んだ。「日本近代、2つのジレンマ」。1つ目は明治以来日本は欧化政策の果てに独立を目指したが「大東亜戦争」の敗北で独立を失ったこと。もう1つは精神としての「日本」も近代化の成功と同時にその背骨が失われていったことだと捉えられる。福澤諭吉の「苦い予言」の的中ぶりを描き切った23頁ほどは実に読み応え十分であった。
2分冊目は、第1章の「戦後日本と『魂』の行方」にぐっと惹きつけられ、最後に日本の「歴史観」にハマった。ここで私の関心は佐伯の「あの戦争で犠牲になった人びとの魂の行き場がないではないか」との問いかけに向かった。私の死生観からすると、死してひとたびは「空」の世界にはいり、やがて次の生へと転身する機会を待つものだと確信する。戦争でも「魂」は漂流せぬ。佐伯は仏教にあまり関心を持っていないようで些か残念な気がする。
★広井風アニミズム的自然観の妙味━━『日本の未来像』
広井良典の本ではかつて『定常型社会』『コミュニテイを問い直す』などに私は関心を持った。久方ぶりに手にした彼の最新作『日本の未来像━━地球定常文明のデザイン』は、いま現在の私の関心に呼応する。広井の思いは、経済一辺倒あるいは〝GDP一元論〟的な発想から脱却し、持続可能性に軸足を移しながら、環境・福祉・経済が調和するように舵を切っていくというもの。実現の過程において「アニミズム的自然観」を導入し展開しようとするところがユニークである。
ここでいう「アニミズム的自然観」とは何か。彼は例として芭蕉の「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」の一句を挙げる。この句にこそ、生と死が深いレベルで融合した世界観が表現している、と。この句が「生命と非生命」や「有と無」の連続性の全体を表現しているのではないかとの広井の問題提起に私は賛同する。
と同時に、遠藤周作の「私たちは必ずしも死の沈黙を絶対に無の沈黙・消滅の沈黙と重ね合わせることはできない気がするのです。茶室に正座している人は、茶室の静寂を内容空虚な静かさとは思いません。その空間のなかには、宇宙の生命にふれる何かが含まれています」(『死について考える』)というくだりを引用して「(この感覚は)究極的なアニミズムとも言える」と。この発言にも同感する。それこそ仏教で言う空観と同義だと思うからだ。無と空は違うということに拘りたい。(敬称略 2026-10-15)