現代の教育現場の深くて重い課題を聞く

この一か月の間に立て続けに学校で教員を務める夫婦と懇談する機会がありました。それぞれ小学校、高校、大学と勤め先が違っており(別に意図して分けたのではありません)、期せずして現代の義務教育や初等高等教育の現場の課題が聴けました。それぞれの対話で話題になったことについてかいつまんで報告します。まず小学校の先生から▼M先生は50歳代半ば。これまで教頭への昇格試験を受けること数回。文字通り七転び八起きの悪戦苦闘の結果、ようやくこの春に教頭の座を射止めることに成功しました。その就任祝いをしようということを私が申し出たわけです。苦節十年程の苦労の甲斐あって昇格できたのはおめでたい限りです。ところが、教頭職というのはまことに厳しく、早朝から深夜に至るまで激務の連続でおよそ割の合わない立場のようです。以前に小学校の教員にとって最大の課題はモンスターペアレンツからの攻撃をどう耐え凌ぐかだと云っていた彼ですが、今度は”一難去ってまた一難”、雑務の集中的攻撃にどう耐えるかの瀬戸際に立たされているものと見られます▼高校の先生であるTさんも50歳代半ば。彼は、ついこの間まで鬱症状のために永年務めてきた高校を辞めて失業状態でした。実は今春の地方統一選挙の際に私たち夫婦が支持依頼に訪れた際に、ようやく病も癒えて新たな就職先が決まったというので、お祝いをすることにしたのです。なぜ、彼は鬱になったのでしょうか。受験戦線に勝ち抜くためとの観点で、上司から容赦ないプレッシャーが加えられた挙句、とうとう耐え切れなくなって、精神的に参ってしまったというのです。そんなやわな男だとは思わなかったのですが、今や受験戦争は教師をも否応なく追い込むもののようです▼大学の准教授であるA先生は、50歳台になったばかり。かつては大手受験塾の名物英語教師。知人からの紹介で知りあってより様々な交流をしてきました。彼の最大の悩みは教え子たちの学力の低下のようです。本を読み、文章を書いたりまとめたりすることを厭う大学生が非常に多くて困る、と。今の大学生の実力がどのあたりにあるのかはそれなりに分かっているつもりでしたが、想像以上に厳しいものがありそうです。教育は国家百年の大計といいます。明治維新からおよそ100年後に大学を出た私の世代からすると、自らを省みておよそ覚悟なき人間の粗製乱造だと自虐的にならざるを得なかったような気がします。あれから50年を経て、ますますその流れが確定してきたかに思われるのは心寂しい限りと云うほかありません▼三組の夫婦と懇談をして我が胸を去来するのは、やはり戦後の民主主義教育、さらには維新以来の西洋思想偏重主義のなせるわざがこうした現状を作ってきたに違いないということです。戦前の軍国主義一辺倒から一転、”平和すぎた日本”がこうした教育のありようを許してきたのではないか、と。つまり「戦争や貧しさ」といったものとは程遠い「平和と飽食の時代」が人間をダメにしてきたのではないか、との思いです。今日、集団的自衛権やら安保法制をめぐる与野党のスタンスの違いもこのあたりに遠因があるような気がします。(2015・6・11)

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