今週から週末に限って、新聞から僕が強いインパクトを受けた記事を紹介したい。
まず、毎日新聞の『今週の本棚』(6-7付け)から。読みたい①は、宮本輝『潮音』全4巻。「着眼が素晴しい」から始まる川本三郎の書評がいい。富山の薬売りの話かと思って気楽に読み始めたら、蝦夷、富山、薩摩、琉球、清の一大商圏をめぐる「密貿易」という「鎖国時代の穴」についての日本近代の夜明けを描く中身だった。「この小説には幕末の大事件の数々が次々に語られゆく」━━こうくれば読まずにはおられない。
②は、町田明広編『幕末維新史への招待 国際関係編』。3部に慶応福沢諭吉研究センターの旧知の都倉武之教授が登場する。「福沢諭吉の『西洋事情』が『革命の指南書』だったとする指摘が興味深い」とした上で「同書は、著名な割に通読されることがほとんどないこともこの論考で知った」とある。ウーム。諭吉の研究に生涯を捧げる人の言葉だけに重い。
③は、秋元康隆『その悩み、カントだったら、こう言うね』(渡邊十絲子評)。人が哲学研究の本を書くのはなぜか。3つある。一つは啓蒙。二つは探究。三つは「筋を通す」ため。この三つめが重要である。〈カント倫理学が私たちが生きる上での指針となりうると考えています。ただ、そう公言していながら、実際に苦しんでいる人々に積極的に関わろうとしない、働きかけないというのでは筋が通らないでしょう〉との考えから、「倫理的な悩みがあれば投げかけてほしいと世の中に訴え、集まった質問にカントの言葉を用いて答えた」本だという。これが前半部分のポイント。
後半は、先入観にとらわれず自分でものを考えろとカントは言ってるのだから、寄せられた悩み事に「カントの言葉のみを用いて答えるのでは、カントのいう『名声の先入観(あの人が言ってるのだから正しいという思い込み)にとらわれていることになるのではないか。だからカントの言葉を批判的に吟味しつつ、より学問的な疑問を扱っていく」ことにしようと決めたというのだ。
自分自身の考えや、なすべきことについての「限界」をめぐって「カント倫理学の解釈という問題へどんどん踏み込んでいく。ここがこの本の真価だ。カント盲信ではない」との渡邊さんの記述は興味深い。ここまで読み進めて、僕は、似て非なる「学問と信仰」の世界に考えが及んだ。
つまり、学問では批判的吟味と疑問の扱いがとても大事だが、信仰、とりわけ「教義」については。それが許されない。師の教えにはすべてその通り、との受容が弟子の弟子たるゆえんだからである。妄信と純信の差は紙一重にして、壮大な差かもしれないのである。
渡邊さんは、私見と断りつつ、伝統芸能や職人の修行における師と弟子の関係では、最後の最後に同一化しきれないものがどうしても出てくるとして、それを「その人の個性(または新しさ)であり、その技芸なり思想なりが時をこえて生き残っていくための新たな要素になるのではないか」と意味深長なことを述べている。さて、この辺りについては、信仰次元における師弟関係にあって、陥りやすい罠があるといえよう。それは、つまり学問のケースと同様に批判的吟味をしてしまい、やがて信仰の基本すら疎かになりかねないということであると思われる。(2025-6-7 一部修正)
。(2025-6-7)