★放送大学の名講師2人による映画の教科書
映画館に足を運び、ビデオ屋で手を伸ばし、テレビの映像を居間で観る━━映画好きは〝忙中の閑〟に「憩」を求めて迷い動く。ここにとりあげるのは、過去からいまに至る由緒正しき映画にまつわる歴史を押さえるためにうってつけの本である。いや正真正銘の「映画の教科書」だ。
かねて僕は放送大学の講座をフラフラと覗き見する趣味を持つ。定年後のささやかな喜びである。中東問題の権威・高橋和夫さんの工夫を凝らした授業に痺れて葉書を出してみたり、アメリカ政治史のエキスパート渡辺靖氏の巧まざる講義に憧れてビデオで繰り返し観たりしてきた。中でも野崎歓、宮本陽一郎の両講師による映画の解説コーナー『231オーディトリアム』は、この数年の秘められた楽しみである。とりわけ『天井桟敷の人々』や『怒りの葡萄』などをそれぞれ放映する前後に解説してくれた10本ほどは、お宝というほかない。
★米仏両国の戦争映画に見る好対照
『映画芸術への招待』は、15回の講義のうち13回分を野崎、宮本のお二人が分担して書かれたもの。映画ファンにとってはこれほど堪らない贈り物はない。「待ってました!」と独りごちた。真っ先に第8章「映画は戦場だ━━世界大戦の時代のスクリーン」(野崎歓)の頁を開いた。この標題はサミュエル・フラー監督の「映画とは戦場のようなものだ。それは愛、憎しみ、アクション、暴力、死、一言で言ってエモーションだ」との言葉に由来する。全人間存在を揺さぶる感動、感情だってことだろう。
『世界の心』(1918年)がハリウッドの戦争映画の伝統の礎だという。残念ながらこれは未だ観ていないので、その後に続くものとして掲げられた『ディア・ハンター』『地獄の黙示録』『プライベート・ライアン』『硫黄島からの手紙』などおなじみのものから類推するしかない。これらは数十年の刻を超えて〝興奮の余韻〟が我が身心に染み込んでいる。
他方、フランスの戦争映画の代表作としての『霧の波止場』(1938年)と『大いなる幻影』(1937年)はハリウッドものとは対照的である。前者は「厭戦的気分の濃厚なもの」であり、後者は「平和思想」や「戦争による解決」が「幻想に過ぎない」ことを訴えかける。米仏両国の戦争映画の色合いの違いは、第二次世界大戦以後から今に至る〝二分化された世界〟を表象する潮流として興味深い。
★燃え尽ききらないアメリカ人の「共同幻想」
一方、第7章「リックのカフェにて━━亡命者たちのハリウッド」(宮本陽一郎)は、映画『カサブランカ』を通して、欧州各地からの移民たちによる多国籍的なアメリカ像が描かれる。ハンフリー・ボガード演じるリックのカフェでの独仏両国歌の衝突は〝愛国者たちの歌合戦〟として大いに印象的だった。このテキストで紹介された俳優たちの出自の「眩暈がするほどの錯綜ぶり」には驚くほかない。そのややこしさにこそ、生まれた国の違いにこだわり、争うことの無意味さを突いているように思われる。
また、宮本さんは第11章から第13章まで50頁も割いて「『市民ケーン』を読む」を取り上げる。名優オーソン・ウェルズが制作、脚本、監督、主演したこの映画は、「難解であると同時に、分析が容易な作品でもある」とする宮本さんは、同時に「アメリカ人をアメリカ人たらしめてきた様々な共同幻想が燃え尽きていく物語である」と位置付ける。公開後80年。トランプ氏の再登場でアメリカは一段と〝赤青2色の二分化〟が激しい。そんな折に、同大統領から「極左」「反ユダヤ」のレッテルを貼られたインド系ウガンダ生まれのゾーラン・マムダニ氏が新しいニューヨーク市長に選ばれた。これは僕には燃え尽ききっていないアメリカ社会での「共同幻想」への新たなる火種のように思われる。
★映画『宝島』から見えてくる日本の「平和」と沖縄の「戦争」
こんな風に標題作を読み終えたばかりの僕は、同時にもう一つの戦争映画『宝島』を小説と共に味わっていた。戦後第一世代として『宝島』という映像に狂おしいまでに心掻き乱された。「沖縄戦」で、「故里」を「基地」として「アメリカー」に毟り取られた「琉球」は、「戦後」も「戦火アギヤー」という名の〝復讐戦〟を挑み続けていた。それこそ「失われた大地と心」を取り戻さんがための〝琉球人の戦さ〟であった。中盤での妻夫木聡演じるグスクへの壮絶で執拗な拷問場面。終幕近くの数十分に及ぶ「コザ暴動」の映像。米兵の、米国の理不尽さと琉球警察の、日本の曖昧さに怒り狂う琉球の人々。そのみつどもえの攻防のリアルさはありきたりの邦画には類例を見ない。あまりの迫力に釘付けになった。
興行的には映画『国宝』の静かなるブームで『宝島』の劣勢が伝わってくる。どちらも日本映画界の現在の水準を刻印するに相応しい。2つながらに、日本の「平和」と沖縄の「戦争」の今を存分に考えさせられた。(2025-11-10)