参加するなら新しい原則が必要ー転機を迎えたPKO⑤

PKOをめぐってオランダが激しい議論をしているとのNHK総合テレビの報道が強く印象に残っている。この国はかつて西アフリカのマリへのPKOに最大700人もの要員を派遣しており、130人も死者を出した。こんなに犠牲を払ってまで派遣を続ける価値があるのかとの意見と、悲惨な状態のままのマリを見捨てていいのか、国際社会におけるオランダの責任をどうするのかとの主張のぶつかり合いだ。当時の世論調査を見ると、賛成派が25%、反対派13% 、どちらでもない46%と、曖昧な結果であった。オランダがPKOについて侃侃諤諤の議論を続けるのには理由がある。ユーゴスラヴィア紛争でのスレブレニッツの虐殺(1995年)における、オランダが担当していた国連部隊の行為である。武力で勝るセルビア人武装勢力に従う形で、軽装備だったオランダ部隊は、およそ8000人にも及ぶ住民を、みすみす引き渡してしまった。多数の死者を横目に、部隊撤収をしてしまったことへの国際社会の非難の眼差しは大変なものであった。事実をドキュメントで公開したりするなど、今もなお議論は続けられているという。我々はこうした報道を対岸の火事として放置していいのだろうか▼冒頭で述べた、南スーダンにおける各国のPKO部隊宿営地を巻き込んでの政府軍と反政府軍の交戦ぶりは、中国のPKO部隊を始めとして少なからぬ犠牲者を出した。日本の自衛隊が無傷だったのはまさに僥倖であった。仮にここで日本の自衛隊員に犠牲者がでていたら、どうなったか。あるいは、多国のPKO要員に多数の犠牲者が出ていたら、その後の推移はどうなっていたか。当然日本はPKO法に則って撤退するという選択が、悲劇の起こった時点でとられようとしたに違いない。しかし、同時になにゆえに犠牲者が出たのか、そうならぬ様にうまく回避することはできなかったのか。いや、相手の攻撃を待つまで自らは何もできなかったのだから、やむをえないとか、多数の民間人の犠牲者をただ見ていただけなのか、などといった議論が百出し、事態は困窮を極めることになったに違いない▼今、北朝鮮のミサイルが日本の上空を飛び越えて太平洋上に落下するという異常極まりない事態が起こっていても、国民世論は不思議なほど静かだ。朝鮮半島情勢に詳しい古田博司筑波大教授は「日本人には嫌なものから目をそらす癖がある。北朝鮮からミサイルが飛んできてもきっと落ちないだろうと目をそらし」、「どうしても無傷を想定してしまう」と見抜く。国家そのものへの白昼堂々たる露骨な挑発にさえ、冷静な日本人。これが遠く離れたアフリカにおけるPKO活動とあってみれば、自ずと関心はゼロに近い。PKO部隊の自衛隊員に犠牲が出るといった緊急事態でもない限り、恐らく真剣な議論は起きないものとみられる。むしろそうなったほうが事態は一気に進むから、と悲劇を密かに待望する向きさえあるかもしれない。しかし、転ばぬさきの杖で、最悪の事態の起きる前に徹底した議論が必要不可欠ではないか▼PKOについては、先進各国が参加に二の足を踏み始めている。どちらかといえば、低開発国が国連による参加費稼ぎもあって熱心だとの見方もある。その是非を改めて問う必要が日本にも起きてきている。25年前頃のように、紛争後のインフラ整備に貢献するのではなく、PKOは紛争そのものに介入し、今そこにある危機の拡大を防ぐ役割を求められてきている。それなら憲法9条の硬直的解釈に留まって、参加を見合わせるのか。それとも憲法前文や9条の柔軟的解釈で、国権の発動としての集団的自衛権の行使と、PKO部隊の活動は自ずと違うとして、今まで通り5原則の範囲で参加を続けるのか。この辺り、やはり憲法9条を含む大議論が避けて通れない。私自身は、憲法9条3項に自衛隊の存在を明記し、国際貢献などの任務を謳うとともに、PKOを含む海外での紛争予防活動への参加に向けて、新たな原則を設けるべきだと思う。そのためには5原則を落とし込んだ現行PKO法の、改正が求められる。曖昧なままで、国連への格好をつけるためだけのPKO参加は、もはや慎まなければいけない。でなければ、あたかも手足の自由を縛られて、危険な地に赴かされる自衛隊員が哀れである。(この項終わり=2017・9・11)

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