依存派とゼロ派、どちらにリアルがあるか「原発考」❷

先日テレビで、まことに見ごたえのある討論番組を観た。BS朝日の「激論!クロスファイア 震災・原発事故から7年」というものだ。原発依存派と即時ゼロ派によるガチンコ対決。司会の田原総一朗氏のスタンスも明らかに「反原発」。片や東工大特任教授の柏木孝夫氏、もう一方は城南信用金庫の吉原毅さん。柏木さんは政府の原発関係の諮問委員会のメンバーも務めてきた専門家。一方、吉原さんは、元首相の細川護煕さんや小泉純一郎さんらと共に原発即時ゼロの運動を展開しているグループの中心人物。短い時間ではあったが、原発をめぐる心もとない現状が良く分かった■依存派の柏木さんは防戦一方に見えた。吉原さんは、今直ちにゼロにしても再生可能エネルギー(新エネルギー)によって十分に対応は可能。むしろ新エネ開発をテコにして新たな産業開発が可能になるという論法だった。首を取り行く昔の武士のように、遮二無二攻める姿はとても信用金庫のトップとは思えなかった。これに対して柏木さんは、直ちにゼロにするというのはリアりティ(現実性)がない、基盤になるエネルギーに原発は欠かせないという伝統的なスタンス。政府お抱えの学者らしく怒りを抑えるかのように、しぶとく攻撃をかわしていた。文系と理系。科学的思考に素人の経済人と永年原発推進に携わってきた科学者。真っ向から対立する論戦は現時点でのこの問題の基本的対立点が窺えて興味深かった。そうした中で浮かび上がったのは、双方にこれからの技術開発に待たねばならない側面が強いということである。原発依存派は、安全性を確保するために。原発ゼロ派は、新エネルギー開発をまっとうなものにするために■そうした折も折、公明党の月刊理論誌『公明』4月号に斎藤鉄夫幹事長代行と有馬純東大教授との対談が掲載されている。この中で斎藤氏が「原子力は”技術発電”と言っていいほど、高度技術の塊です。無資源国で科学技術立国をめざす我が国として、原子力をどのように位置づけるかは日本の浮沈を決定付けると思います」と持論を述べている。これを読んだ私の友人K氏が、「原発の有効性を語り『国家百年の計』として原発推進を進める決意を述べていると読み取れる」ものだと切り込み、返す刀で「公明党が掲げる『原発ゼロ』の方針に反するものではないか」との批判をフェイスブック上で行っている。公明党の政策展開に対して、時に厳しく、また優しく見守る彼の真摯な姿勢には定評があるだけに、見過ごせない。ただ、斎藤氏が原発推進の立場を捨てていないことは自明の理であるものの、この発言だけで党の方針に反しているとは言えないだろう。尤も、現役時代に彼と論争をした我が身からすると、この5年余り彼が全くといっていいくらい変わっていないことには複雑な思いを禁じ得ない■ここで問題とせねばならないのは、原発に替わりうるエネルギー源として、何をどう増やして行くかということだろう。柏木氏や有馬氏そして斎藤氏も新エネルギーに日本の未来を託すにはリアルがないと言っている。残念ながら私がかつて国会で新エネルギーの飛躍的開発を訴えてからの歳月を振りかえっても殆ど変化はない。つまり開発は殆ど進んでいない。その点において彼我の対立点は解消していない。一方、原発依存派にあっても安全性確保のために、これからの若い学者の成長に期するところが多い(柏木)というのでは、心もとない限りである。こういう”どっちもどっち状況”の中で、私が関心を寄せるのは、斎藤氏いうところの「日本の浮沈」という言葉である。何をもって「浮沈」というのか。ここらの議論を進めていかねば、問題の決着の方向は見えてこないように思われる。(2018・3-18)

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