自公連立20年とこれからー懸念される中道主義の存在感❷

気になる存在感の低下

それよりも公明党の支持者における一般的な懸念は、存在感の低下という問題である。自公政権と言いながら、実際には自民党安倍政権の添え物でしかないように見られるのはなぜか。政権内部で激しく論争が行われたのは、安保法制をめぐる関連法の審議の際だった。あの時以降、両党間での鍔迫り合いがなりを潜めたかに見える。2013年2月に、安倍首相が集団的自衛権行使容認を目的に、私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を設けたことが号砲一発だった。2014年7月の閣議決定から15年9月の安全保障関連法の成立に至る一年間の議論の推移は極めて特徴的だ。要するに、あれ以降自民党は、集団的自衛権は行使が容認されたといい、公明党ではその集団的自衛権は限定されたものであり、一部では個別的自衛権の延長線上にあるとの捉え方もなされた。つまり、典型的な玉虫色決着となったのである。私は、この議論がなされた当時の議事録の公開をすることこそが両党にとって緊要だと思った。しかし、残念ながら今に至るまで、それは伏せられたままである。お互いが自身に都合のいいように解釈している事態がいつまでも持てばいいが、それが崩れたら、深刻な局面を引き起こすに違いない。ただ、一点言えることは、首相が公明党に譲歩したことだけは間違いない。それが証拠に、自民党内最大の防衛論客である石破茂氏があの直後に首相からの防衛相就任要請を蹴ったことだ。公明党風の条件付き集団的自衛権では一国の防衛の衝に当たれないとの意味を有した彼のセリフが印象に残る。

憲法論議に合意形成の役割を

今、自公両党にあって最大の課題は、憲法9条をめぐる問題の取り扱いである。改憲政党自民党が、9条の3項に自衛隊の明記を加えるという加憲の決断をしたことは、安倍首相の投げた変化球だった。改憲の立場をとる公明党だから、9条においても同調せざるを得ぬはずと読んだものと思われる。1項と2項をそのままにして、3項に自衛隊の存在を付け加えることが、憲法解釈の常道を外れた奇策であることは誰しもが認めよう。そんなやり方をするよりも、2項を全面的に書き換える方が筋が通るとか、あるいはそのまま触らない方がマシだとの考え方が一般的である、しかし、双方共に世の賛同を得ることが難しいなら、妥協点としての3項加憲は意味を持つ。少なくとも、合意を目指して議論の場を設けるべきだというのが私の主張である。議論が足りないとする公明党のスタンスは、結果として護憲のスタンスに舞い戻ったかに見えるのは残念である。

私は憲法審査会におけるこのところの議論の低調ぶりは大いに嘆かわしいと思う。かつて中山太郎氏が衆議院憲法調査会長当時に、懸命に与野党の合意を得る努力を重ねた結果、国民投票法をまとめるに至ったことは大いに賞賛されよう。勿論、憲法そのものをどう取り扱うかはもっと高度なテーマであり、簡単にはいかないことは認める。しかし、この停滞状況を打破するために、私が世に問うている三つの提案の実現化は早急に検討がなされて欲しいものだ。一つは、予備的国民投票の実施である。国民が憲法改正をすべきだと思っているのか、それとも変えずともいいと思っているのか。これを予め問うという国民投票があっていいと私は考える。しかし、そんなことは今更迂遠過ぎるという声があろう。それなら、二つ目には憲法審査会が大枠の方向性を決めた上で、学者、文化人ら民間有識者のプロジェクトチームの手に委ね、原案をまとめ、それを再び審査会が受け止めて、最終的な形に仕上げるというやり方である。残念ながら国会議員に任せていては、十年一日のごとく議論は進まず、うまくいきそうにないからである。それもダメだというなら、三つ目は、国会議員の中で、各党選抜した議員を一定期間、憲法議論だけに集中させ、2年ほどで答えをまとめさせるというやり方である。そうでもしなければ、ほぼ3年ごとにくる選挙のために、腰を落ち着けて憲法の議論をする機会は永遠にきそうにない。その際の進め方は、はじめに改憲ありきでも、護憲ありきでもなく、何を変えて、何を変えずともいいのかという憲法の在り方をつぶさに論じる場面を設けるというやり方である。このようなこともせずに、ただのんべんだらりと審査会をやれ、やらないということを繰り返してはならない。ともあれ、いろはの〝い〟である議論の進め方、憲法の取り扱いをめぐる話合いに早急に国会は取り組む必要がある。(続く)

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