「未来志向」という、ごまかしの背景ー日韓関係の今を巡って(上)

●赤羽国交大臣の発言騒ぎ

いささか旧聞に属しますが、一年ほど前に姫路に住む友人から、赤羽一嘉国交大臣が「韓国は日本に文化を伝えた恩人の国である」と発言したことについて、ネット上で非難轟々の抗議が上がり、炎上寸前だとの知らせがメールでありました。詳しい事情がわからなかったのですが、大臣発言のフレーズを聞くだけで、私はその背景は直ちに読めました。その友人は、どうして赤羽大臣はそんなバカなことを言うんだろう?韓国を持ち上げるのも程がある。こういう発言は利用されるだけ。韓国なんておよそ国家の名に値しない存在なのにーこういった「反韓」感情剥き出しで、文句タラタラだったのです。

事情を調べると、赤羽大臣は、東京で開かれたある会合に、外務省政務官や自民党の河村日韓議連幹事長らと共に出席して、挨拶の中で先の発言をしたと言います。私は、文句を言ってきた友人に、赤羽発言は本人の思いもさることながら、創価学会SGIの基本的な認識、捉え方であり、同大臣は強い確信のもとに言ってることは間違いないよ、と伝えました。併せて世界の歴史とりわけ東アジアの歴史を辿るなら、この認識はごく自然で当たり前のことを言ってるだけ、あなたの怒りは昨今の日韓関係の歪みに左右されすぎてますよ、とも。

仏教はインドから中国、朝鮮半島を経て日本に伝わってきたのであり、言語を始めとする文化一切も中国発朝鮮半島経由でのものが殆どだといえます。それに対する素直な捉え方を赤羽大臣が発言したことに、一部の人々が反発をしたことの背景には中々一筋縄では捉えられないものがあるように思われます。ここでは韓国と日本という〝近くて遠い〟両国関係の今についての私なりの考察を述べてみます。

●「未来志向」は先のばしの別名

日韓関係を巡っては、これまで日本政府は「未来志向」なる言葉を多用してきました。これは、未来に目標を定めて向かうこと、というのが本来の意味でしょう。ちなみに対中国関係にあっては「戦略的互恵」なる言葉がしばしば使われてきました。こっちの方は、政治における信頼関係を醸成し、互いに未来において相互に利益を感じる関係を構築するとの意味合いがあります。かつて第一次安倍晋三内閣(2006年合意)から福田内閣(2008年共同声明)にかけて日中間での取り決めでこの言葉が使われました。従って、より関係が成熟した二国間で用いられるニュアンスが強いのが「戦略的互恵」であり、「未来志向」の方は、過去に拘らずに前向きで行こうとの単純な意味合いが強いものと思われます。

かつて私は民主党政権時代に外務委員会の場(2010年)で、時の外相に日韓の外交関係における「未来志向」なる言葉の構成要件はなにかと問いかけたことがあります。「日韓併合100年」にあたっての「日韓図書協定」の批准についての質疑をした際のこと、その大臣が短い間に十数回も「未来志向」という言い回しを繰り返したからです。彼は答弁で「安全保障、政治、経済、文化の各分野での相互交流」というだけ。恐らくは、過去にばかり目を向けず、未来に向けて広範囲な分野で目標を定めて、交流に取り組むと言いたかったのだと思われます。しかし、現実には韓国の「過去偏重」とでもいうしかない姿勢の前に、なすすべもないというのが当時の日本の民主党政権下の対韓外交の実態でした。基本的には今もなおこれと大差ない状況を引きずっているようです。

●菅首相誕生で局面打開の期待

日韓関係は、従来からの「慰安婦問題」に加えて、元徴用工に関わる訴訟で日本企業に韓国最高裁が賠償を命じて(2018年)からというもの、一段と悪化してきています。菅義偉首相が誕生して、文在寅韓国大統領との間で、電話協議を20分間行ったことが、9ヶ月ぶりの首脳間協議だとして話題になる程、両国関係は冷え込んでいるのです。この関係を改善するには、「基本的な価値と戦略的な利益を共有する最も近い友人」(文在寅大統領)との認識を共有したうえでの、「対話の加速」化が求められます。両国関係は、これまでの経緯からして、理念的なるものが介在すると暗礁に乗り上げるのは必至で、ひたすらリアリズムに徹することが大事と見られています。

その点からいうと、理念が先行しがちだった安倍晋三前首相の後継者であるものの、より現実の損得勘定に敏感な面を持つ菅首相の登場は、二国間関係の変化をもたらすチャンスかもしれません。内政面において、菅首相は就任早々から携帯電話料金値下げなどの問題始め、「小さな声を聞く」公明党のお株を奪いかねないほどの庶民生活感覚に溢れた施策の展開を売りにしようとしています。一方、外交にあっても、ベトナム、インドネシア訪問を先行させるなど、手堅くしぶとい手際を見せており、次なる手は韓国との融和に向けての一歩が期待されるところです。

●理由なき優越感と贖罪意識

実は私の父は1910年生まれでした。この年は日韓併合の年。以来35年後の1945年に私は生まれました。つまり、韓国の人々がいうところの「日帝35年」の時の流れがちょうど、我々父子の〝生命のリレー〟とダブります。それが影響したのかどうか。恐らく戦後生まれの日本人に共通するであろう、いわゆる対韓蔑視感情と贖罪意識がない混ぜになって我が体内に混在しています。それは「日清・日露」の戦勝をピークとする近代日本の形成の有り様に深く関わっています。占領国家・国民の優越性を自覚し、非占領下の民族を哀れむ感情と無縁ではないものと思われます。陰に陽に、家庭の中で、そして学校内で、これは培われていったのです。

これをいささか戯画化風にまとめてみます。明治期の最後に二つの大きな戦争を戦い、負けなかったことで、日本人は民族の優越性を、隣接する他民族との比較の中で実感しました。一転、第二次世界大戦での壊滅的敗北で、米国という新興・巨大国家に対する劣等感に打ちのめされたのです。私の幼年期に母が「上見りゃキリない、下見りゃキリない」とよく口ずさんでいました。日常生活の厳しさを、他者との比較ではなく、ありのままに受け止めるしかないと自らを戒め、子供達にも教えたつもりだったのでしょう。ただし、私には単なる生計の苦しさについてだけではなく、民族相互の見立てにも通じるかのような響きを持って聞こえ、印象深く記憶に残っています。

戦後民主主義教育は、戦前の日本がいかに隣接するアジア各国の民衆に残虐なことをしたかを教えました。遅れてきた植民地主義国家として、欧米列強の尻馬に乗って、いかに周辺国家を痛めつけたかということをも。そうした見方が同時にいかに一方的で、正鵠をいていない捉え方であるということを知るに至るのですが、それはまたずっと後のことです。その結果、私たち戦後世代の中には、いわゆる〝対韓贖罪意識〟が抜けきれないところが未だにあるといえましょう。(以下、つづく 2020-11-17 )

 

 

 

 

 

 

 

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