衆議院解散から一週間。週明けにははや公示を迎える。この間私もあちこちと奔走せざるを得ず、なかなかキーボードに向かう暇もなかった。ようやく週末の間隙を縫って今回の総選挙の意義やら、日本の政治の課題めいたものを考えてみたい。安倍首相の狙いは,道半ばのアベノミクスをなんとか立て直し、本格的な軌道に乗せたいというところにある。このままではじり貧になり、デフレからの脱却はおろか経済は再び暗闇に迷い込む。それを逆手に取り前進させるには、衆議院解散という劇薬しかないとの判断と見られる。消費税の先送りは要するにきっかけに過ぎない。何よりも選挙態勢がとれていない野党を叩くには今が最適というわけだ▼確かに野党各党は惨憺たるありさまだ。全部で7党あるようだが、その名前をすべて正確に言える人はよほどの事情通か暇人としかいいようがない。それよりもその実態だ。およそ政権政党に対する対立軸を提示するに至っていない。これで選挙をして国民有権者に選択を迫ると言うのは到底無理があるというものだ。この50年の間というもの現実政治に関わり、その都度”日本の今”に向き合ってきた身としては、きわめて嘆かわしい。だが、「与野党の対立」という視点にこだわり過ぎなくてもいいのではないかと思わないでもない▼今の政治の本質は与野党の不毛の対立ではなく、「与党内の対立」にこそ実質的な重みがあるのではないか。前回にも述べたように、集団的自衛権問題で言えば、全面容認か全面否認かは全く意味がないと言える。「日米同盟の絆」という現実の中にあって、後者を選択することは非現実的以外何ものでもない。そこは自ずと限定的容認ー憲法9条の範囲内でできることをやるという公明党主導の道が開けてこよう。消費税でも、ただ上げる、いやあげないどころか撤廃だというのは無責任のそしりを免れない。公明党の軽減税率の有効性が格段に光ってこよう。原発も近い将来の原発ゼロを目指し、新エネルギー開発に力を注ぎつつ、漸次その依存率を減らしていくというのが王道ではないのか▼こうみると、与野党の対立というのは、かつての自社対立と変わり映えがしないのであって、より大事な対立は自民党と公明党の間の主張にあるといえないか。そこを与党内の対立だからと軽く考えないで、現実的な対立にこそ重要なポイントがあるとみるべきではないか。メディアの政治を見つめるまなざしに乗せられてはならない。公明党と自民党の違いの中にこそ、あるいは公明党と野党の主張の違いにこそ大事な問題が提示されていると見なければならない。所詮、政治は「黒か白か」とか、「賛成か反対か」という思考方法にだけとらわれ過ぎてはいけない、と言いたい。(2014・11・29)
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公明党50年の佳節に「中道」待望論
衆議院解散を今日正式に安倍首相が記者会見で発表する。いやはやなかなか大胆だ。通常の感覚では考えられないが、あの麻生首相での解散先送りによる大惨敗がトラウマになっているのだろうし、首相としては自分の手で一度は解散権を行使したいに違いない。彼は前回には病気途中退場だっただけに猶更のはず。ところで、この解散は公明党にとってどういう意味を持つか、50周年の佳節に期せずしてぶつかったことの背景を考えてみたい▼公明党が衆議院に進出したのは昭和41年12月の黒い霧解散と呼ばれる佐藤首相のとき。あれから今日まで計16回の解散がなされており、今回は17回目。そのうち、与党として解散に立ち会ったのは過去4回。森,小泉(第一次,第二次の二回)、麻生と続いた(前回は野田民主党のもとで野党としての総選挙だった)。この4回はいずれも自民党の主導で公明党は巻き込まれたというか、かなり受け身の総選挙だった。しかし、今回はかなり違う。勿論、安倍の主導は当然のことだが、政権運営への公明党の関わり方がかなり主体的で、政治課題への取り組みの独自性が際立つ。ここは、大いに公明党らしさを強調できる大チャンスだ▼先日、元防衛大学校の教授で保守の論客・佐瀬昌盛氏が読売新聞紙上で面白いことを言っていた。「冷戦が終わりマルクス主義の権威は地に落ちたが、相変わらず白黒二分法の考えで、中道嫌いは今も続いている。中道とは足して二で割った考えではなく、それ自体の独立した価値がある。言い換えれば、人間性の洞察に基づく健全な常識のことだ。21世紀にこそ中道が根付いてほしい」(11・7付け 「冷戦終結25年」)と。これには文字通り我が意を得たりとの感が強い▼佐瀬さんは知る人ぞ知る「集団的自衛権」問題の権威で、日本の防衛問題の代表のひとりである。この人が中道の重要性を強調することに大いなる意義を感じる。結党いらい中道の旗を掲げ続けてきた公明党こそ21世紀の政党として本格的な出番だ。具体的な中道政治の現れ方は、「集団的自衛権」では「限定容認」だったし、「消費税」では「軽減税率の導入」であり、「原子力発電」では、「段階的撤廃」だ。こうした自民党とは明らかに一線を画し、健全な常識に基づく政治決断,政策選択こそ公明党の真骨頂と弁えて、大いに選挙戦に乗り出していきたい。(2014・11・18)
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衆院解散を最も早く予測したのは「読売」ではない
衆議院解散の空気が濃く漂っている。一昨日12日のテレビ朝日「報道ステーション」を観ていると、キャスターの古舘伊知郎氏が冒頭に喋った言葉が印象に残った。机の上にその日の全国紙6紙を並べたうえで、今日はこのように各紙とも、衆議院解散総選挙が近いと一斉に報じているが、元をただせば、昨日の読売新聞が、「消費増税先送りなら衆院解散」といった意味のスクープを書いたことが発端だ、と述べた(その日の読売新聞紙の下から前日付けのものを取りだしつつ)。首相に近い位置にある同紙が書いたものだから、勿論のこと各社とも追っかけた、と。朝日新聞系列の同局としては、口惜しそうな言いぶりだったが、解散記事を抜かれた側からすれば、当然だろう▼ただ、私のように一週間前の水曜日(5日)に関西テレビで放映された「アンカー」を観ている人間は受け止め方が違った。コメンテイターである青山繁晴氏が、その日の番組のなかで、明確に「11月解散12月総選挙」が間違いないとの予測を微に入り細にわたってやっていたのだ。おまけに彼は12日の夕刻にも、ダメ押しするごとく、勝ち誇ったように自分がすでに指摘した通りに、解散・総選挙が間近にあることを報じていたから、10時台のテレビが何を間の抜けたことを言っているのかという風にとらえたのである。この番組を毎週欠かさず観ていると、首相を含む政権中枢と密接な関係にあることが十分に読み取れる。勿論、彼はかなり辛辣に安倍政権を批判もしており、決して”首相の提灯もち”ではない。毎週、独特の読みを十二分に駆使したきわめて見ごたえがある番組なのだ▼ただ、以前にも書いたように、東京のメディア関係者には滅法評判が良くない。かつて共同通信記者時代の行状を持ち出して、およそ記者の風上にはおけない人間のように誰しもが言うのだ。私は百歩譲って、そういう噂や見方が事実に基づくものだとしても、もはや時効であって今の彼の仕事ぶりを見て判断すべきだと思う。彼の時折涙を交えての真摯な語りが、いかに芝居がかっているにせよ、全てそれを単なるパフォーマンスというのは言いすぎだろう。毎回必ずと言っていいほど、メディア批判を大胆に切り込むところが視聴者の共感を呼ぶのだが、同時にそれはメディア側には、彼への侮蔑を高めているのかもしれない▼しかし、今回の解散総選挙を予測する報道に限って見ても、勝劣は明々白々ではないか。もう報道機関もそろそろ彼の鋭い見方、仕事ぶりを認めてやってもいいのではないか、とさえ思う。これは彼が兵庫県出身であり、なかんずく中高時代を姫路で過ごしたという同郷意識がなせるものでもない。細かいところを挙げずとも、私などとは国家観も違うし、主義主張は異なる。現に彼が講演の場で公明党に批判のまなざしを憚らずに向けたので、後刻さしで誤解をとくよう努めたこともある。要するにこの国を真に憂う国士の一人だと思うだけに、メディアのバッシングが解せないのだ。(2014・11・14)
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仏様ならぬ習近平氏の「仏頂面」の意味
日中首脳が3年ぶりに会談をした。安倍・習会談の中味よりも、出会いの場面の習近平中国主席の顔つきが話題になっている。無愛想で不機嫌な顔をしていたことから、報道では、「仏頂面」という言葉が躍った。これは、どういうところからきた言葉なのか、語源由来辞典を引いてみた。まず「仏頂」とは「仏頂尊」のことで、お釈迦様の頭上に宿る広大無辺の功徳から生まれた仏という意味で、その面相は、知恵に優れ、威厳に満ちているが、無愛想で不機嫌に見えることから、使われてきたとされる。ロシアのプーチン大統領や、韓国の朴槿恵大統領らとの握手の際の顔つきがニコニコとしているのと対照的なだけに一段と考えさせられる▼日中間には、二千年の交流をもってしても未だ理解しあえない異文化間認識ギャップがあるとされる。例えば、日本人は死んだものには鞭打たない、と一般的に考える。一方、中国人は死んでも悪人は悪人で、むしろ死んでからさらに鞭打って糾弾して死者をも暴くというのが通常だという。私の学問上の師であった故中嶋嶺雄先生は、その著作のなかで(『日本人と中国人はここが大違い』)、日中関係は「同文同種」ではなく、「異母兄弟」の関係だとして、ひとたび摩擦が起き、対立が生じると、他人以上に和解しがたい関係になると述べている▼近過去の歴史を振り返れば、昭和47年の日中平和友好条約の締結いらい40年余。周恩来や胡耀邦、鄧小平氏といった優れた指導者の時代と違って、江沢民氏以来のリーダーたちは、内政上の不都合を対日関係に転化させていく手法に拘泥しすぎているように思われる。経済的な側面でいかに成長をとげようとも、国家の品格という観点からはどうにも首をかしげざるをえない行動が多すぎる現状に、多くの国が戸惑いを隠せない。とりわけ遠い遠い昔のことではあるけれど、中国に対して「あれだけ愛し、慕ってきたあなたなのに」と幻滅を感じているのが日本の普通の大衆ではないか▼しかし、ものは考えようであり、捉え方しだいだ。「仏頂面」であるにせよ、交渉の場に出てきたということは、日中関係打開への姿勢と期待があるということである。ああいう風な顔をするというのは、写真や映像でにこやかなふりをしてはならない、という事情があるのだろう。世界の常識では、いかなる内部の、家庭の事情があっても、人の世のお付き合いは、友好を、礼儀をもって旨とするはず。それを破るというのは、人道に反するということにほかならず、やがて世間の、世界の非難の対象となろう。尤も、「仏頂面」とは、仏の知恵に優れ、威厳に満ちた面相のことらしいから、習近平氏には単なる内部向けの造作ではなく、それ相当の戦略があるに違いない、と思っておくことにしようか。(2014・11・12)
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だまし絵が教える視点移動の重要性
「だまし絵」というものをご存じだろうか?一見すると人間のように見えるのだが、よーく見ると様々な道具が積み重ねられているだけ、といったたぐいのものだ。目の錯覚をいたずらに引き起こすとでも言うのだろうか、不思議なほど面白い世界に引きずり込まれる。先日、兵庫県立美術館で開かれている「だまし絵Ⅱ」に行ってきたのだが、楽しいひとときを過ごせた▼通常の美術展にもまして、みんな一心不乱に絵に見入っている。いったいこの絵は何を意味し、何が隠れているのかを見抜こうとして、右に左に視点を移動させながら。遠くから見ると、きれいな女性の顔だと思って近づくと、指紋ですべて描かれていて、その気持ち悪さにぞっとしたり、男性が手を頭にあてて泣いているかのように見えるが、よく見るとものすごい数のオモチャが山のように積みあがってるとか。砂浜と岩山が広がる不思議な景色をじっくりと観察すると、次々と隠れているものが見えてくる。遠くからと近くからとではまったく違うものが見えてくるからおかしい。立体的な絵を右に左に動きながら見ると、絵が勝手に動くかのように見えてくる▼女性の顔だけが大きな像として立っているところで、みな立ち止まって見ていたが、つい私などはそばにいる女性学芸員の顔をまじまじと見てしまった。普通の人間までもが何かだまし絵のように見えてきたのだ。当たり前のものを違う角度から見る楽しさとでもいえようか。つい先日は、ハローウインのお祭りということで、各地で様々な仮装が現れたようだが、これも日常性を打破する意外性が受ける一つのポイントかもしれない▼日常的に経験することだが、扉を押しても開かないので、引いてみたら開く。つまりは押してもだめなら引いてみなということは数限りなくある。先日旅先で離れの部屋のカギを閉めようとしたらどうしても閉まらない。慌てて従業員を呼んだら、なんのことはない。鍵穴が二つあって、もう片方が見えていなかったのだ。また、同じくホテルでお湯を沸かそうとしてもどうしても湯沸かし器の使い方が分からない。これもホテルマンを呼ぶと、いとも簡単なことが気づいていなかった。要するにちょっと見方を変えてみると疑問が氷解することは少なくない。硬直化した捉え方に捕らわれてばかりいると、らちがあかないということを痛切に感じる。(2014・11・8)
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保守、左翼、中道の3総合雑誌を比べ読む
3種の総合雑誌を月ごとに購入し出してほぼ一年が経った。あまり読まないことも多いが時に熱中することもある。11月号はかなり読む機会があったので、気に入った読み物だけを紹介したい。3種類とは、保守系の『文藝春秋』、左翼系の『世界』、そして中道の『潮』だ。三つ併せ読めば、バランスを欠くこともないか、との思いからだ。かつては、『諸君!』や『中央公論』もよく読んだものだが、前者は廃刊になり、後者は「読売」がバックについてから、精彩を欠いているように思われてならないから殆ど読んでいない。ちなみに新聞は、『日経』、『神戸』の二紙だけしかとっていない▼雑誌作りのうまさというのをいつも感じるのはやはり、『文春』だ。今月の総力取材は、「世界の『死に方』と『看取り』 12か国を徹底比較」という特集だが、なかなか考えさせられた。ジャーナリストの森健氏による報告のうち、脳卒中で倒れた老教授が13年間もの長きにわたって延命治療うけ、90歳を目前にして管につながれたまま亡くなったという話はインパクトが強い。当たり前の発言だがエイジング・サポート実践研究会を主宰する人の「医師の仕事は病気や怪我を治すことですが、老化は治せない」との言葉は重く響く。だから「終末期は治そうとするより、生活の質を高め、維持する医療のほうがよほど負担が少ないし、QOLも高い」のだ。死と向き合おうとせず、準備教育を怠ってきたツケは大きい▼『世界』は学生時代からしばらくはよく読んだものだが、ソ連崩壊あたりから読まなくなった。つい数年前の表紙のセンスのなさといえば信じがたいものがあった。このところようやくまともになった感がする。”朝日岩波文化人”という言葉が象徴するように、お高いところからの政権、政治社会批判が鼻についてならなかった。が、このところの左翼退潮が結果的に絶滅品種を守らねばとの思いを駆り立てたのかどうか、読ませる記事が多い。というか、大事な視点を提供してくれて面白く感じる。今月は特集「ヘイトスピーチを許さない社会へ」のうち、「メディア・バッシングの陥穽」が迫力があった。朝日新聞問題に事寄せて、その他新聞各社をはじめ、「現下の雑誌や出版における反知性主義の氾濫」は目を覆いたくなるという主張には全く共感する。しかし、そういう反批判も度が過ぎると首をかしげざるを得ない。「融合一体化する政府権力とメディア」を元毎日新聞記者の西山太吉氏に書かせたのはいいが、ここはむしろつい最近岩波書店から『戦後責任』を出版した大沼保昭さんを登場させてほしかった。『文藝春秋』が大沼さんに「慰安婦救済を阻んだ日韓メディアの大罪」を書かせていたのはさすがだと思った▼こういう二誌が時の話題を執拗に追っているのに比べて『潮』は、少々角度が違う。「結党五十年ー公明党の使命と責任」の狙いどころはいいが、識者に1000字メッセージを書かせるという切り口が機関紙・公明新聞や理論誌『公明』とさして変わらないのはいかがなものか。ここは他党の幹部やかつて公明党議員に苦しめられた閣僚を登場させるなど、もっと意表を突く企画はなかったか、と思う。むしろ上野千鶴子との対談『「アグネス論争」から27年』や黒川博行と後藤正治の記念対談が興味深かった。『潮』が営々として築き上げてきた出版界における実績は本当に凄いと思うだけに、時々の課題にもっと鋭く切り込んでほしいとは思う。(2014・11・1)
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