⚫︎『77年の興亡』に込めた日本政治への批判
ではこれから今日の本題に入りますが、まずこの図表をご覧ください。「77年の興亡」なるものの概念図を表したものです。1945年の日本敗戦の年を起点にしまして、遡ること77年前が明治維新の1868年です。一方、敗戦の年から二つ目の77年間が経った時が2022年になります。これまで、様々な学者たちが近代日本の歴史を概観して、「分析的見立て」を論議の俎上に乗せてきましたが、そのうちの代表的なものです。つまり、第一の77年は、1905年を一つのピークにして近代日本が天皇中心(菊の御紋を御旗)に「軍事力増強」路線を走ってきたと位置付けられています。その結果、日清、日露戦争に負けなかったアジアの後発国日本が、先進列強に伍する位置を開国から40年ほどで勝ち取ったといえるのです。
これはもっと細かくいうと、軍事力拡大だけでなく、ほぼ20年ごとに普遍性路線と土着性路線とを交互に繰り返してきたと見る説(加藤周一氏)もあります。①のいわゆる文明開花、自由民権運動の時代②その反動としての教育勅語の時代③それから大正デモクラシーの時代④またも暗黒の軍部独裁の時代と流れて敗戦に行きつくといった風に、4つに分けられるとの捉え方です。中々味わい深いアプローチです。
これが前半77年を集約した見方ですが、一方後半の77年間はどうでしょうか。この時代は、戦前と違って、戦敗国として米国に占領され、いわば星条旗の下での不自由な半独立国家、半民主主義国家としての77年が続くのです。ざっといいますと、こっちは、軍事力を米国に預けた格好にして、経済力至上主義の道を歩みます。占領期の7年を含む40年後の1985年がプラザ合意の年で、その後1990年代初頭のバブル絶頂期を迎えることになります。要するにこの40年は、高度経済成長とその余波の時代だったのです。この頃には日本がGDPでアメリカを脅かすような位置にまで成り上がり、ジャパンパッシングという名のアメリカによるいじめ、懲らしめにあう契機になっていったと見られています。
表にあらわしましたように、戦後期前半の40年は、大きな政府(つまりケインズ主義)的政策展開で日本は経済的に繁栄を謳歌していくのです。ただ、この辺りからのち後半は一転、世界の経済秩序が変化していきます。「新自由主義」なる名の下に、小さな政府による政策展開が主流となっていきます。政治的には、ソ連の崩壊、9-11の世界同時多発テロによる米一極の時代から米中対決を経て多極化の時代へ。日本は、バブル崩壊と共に、あらゆる意味で収縮期に入ってしまい、少子高齢化のどん底へと落ち込みましたが、現実にはそれに加えてコロナ禍、ウクライナ戦争、ガザ紛争などが続いてきているのです。
⚫︎「朝日」「毎日」のサイト版に12本の寄稿で大論争を提起する
実は拙著『77年の興亡』は、正確には看板に偽りありで、本の中身は図でいうところの戦後史のうち、公明党誕生以後のこの60年の変遷に力点が置かれており、戦前の77年はおろか、戦後の77年も正確には書かれていません。書いているのは、いわゆる「保守対革新」の一昔前の「自民対社共」といった〝イデオロギー対決〟の政治により庶民大衆が忘れ去られているとの観点で、公明党が結成された背景から説きおこしています。つまり、昭和39年(1964年)からの日本の政治が60年経ったけれども、本格的な政治改革ができていない、いったいどうしたのかという、日本政治の根本的批判を公明党の見地から書いたものです。一言で言えば、こんなことでは公明党の看板である「中道政治」が泣くぞという叱咤激励の内容でした。
そして続編としての『新たなる77年の興亡』は、2022年の1年かけて、朝日新聞のサイト版『論座』と、毎日新聞の『政治プレミアム』に交互に1本3000字〜4000字づつ6本の合計12本寄稿したものを集めたのです。これは、よくやったぞと自分自身を褒めてやりたいと思っています。両社の幹部を知っていたこともあるのですが、よくぞ掲載してくれました。「書くも書いたり載せるも載せたり」でした。
何を書いたか。一言で言えば、自公の政権与党はこの国をどうしたいのかとの国家ビジョンを明らかにすべし、国家論なき「選挙互助会的連立政権」ではダメだということに尽きます。両党が、そして国民が、憲法について、国家のありようについて、皆んなで大論争を起こそうという提案をしたのです。しかし、残念ながらほとんど反響はありませんでした。世に問うたという意味では「自己実現」ではありましたが。(つづく 2025-7-10)