Monthly Archives: 12月 2014

こんなことも、私はやってきた(下)

さて次に七月。私が現役の頃から関わっている骨粗しょう症ネットワーク(高石佳知代表)のセミナーの例会があり、参加した(三日)。これには大阪市大の医学部や大阪歯科大の関係者が毎回講師として来られ、高齢者に様々な面で参考になる話をしてくれて好評を博している。高石代表とはもう15年近く親しくしていただいている。歯に骨密度が象徴的に表れ、骨粗しょう症の予兆を見て取れるとの仮説を立て、それを解明するソフトを考案されたひとだ。他方、議員を辞めてから顧問をしている(株)クレスの社長・小田桐将彦氏が創価学会に私のいざないで入ることになった(六日)。この会社は、放置自転車などで崩されがちな都市の景観を、自転車のシェア化を進めることで大いに高めようと、全国の自治体に働きかけている意欲的な企業だ。自転車の活用促進に熱心な国会議員や地方議員に紹介したりしてきた。最初は苦戦したが、最近になって大きく脚光を浴びだしている。創造性溢れるダイナミックな小田桐氏が正しい信仰を得て大いに羽ばたくことを心底期待している▼八月。瀬戸内海の観光振興の一環として(株)ジェノバがこの夏兵庫県の南と北でクルーズを展開した。私はここの相談役を担っており、七月の淡路島・小豆島クルーズ(20、21日)に続いて、八月は但馬海岸でのシーカヤック体験(27、28日)に参加した。新温泉町の沿岸部から初めてジオパーク見学にも挑み、大自然のもつ威力の壮大さに圧倒された。瀬戸内海を日本海との比較でとらえようという試みだが、作家の石川好さんを中心に展開されて既に観光振興に大きな威力を発揮している「北前船寄港地フォーラム」との連動も考えられる。海原を目前に様々な思いを巡らせる旅になった▼九月。AKR共栄会の河田正興専務理事と一緒に兵庫県庁を訪問し、石井産業労働部長らと懇談した(25日)。AKRとはオール小売り連合の頭文字をとったもの。「共同仕入れ、共同搬送、共同保険」で、中小零細市場を大手スーパーから守る戦いを展開してきた実績を持つ。この日は、兵庫県下の中小企業信用取引の現場で,この仕組みを応用して使うことによって、売掛債権の重圧に悩む人びとを救済できると、政策提案した。後日、井戸県知事にも直接説明(10月22日)、大いに共感を得ることができた。今後のライフワークにしていきたいと決意する▼十月。現役時代に私は、衆議院予算委員会分科会でカイロプラクティックにまつわる誤った認識を糺せと、厚生労働省に迫ったとがある。一般社団法人・日本カイロプラクターズ協会(JAC)の統合医療顧問を現在している村上佳弘氏から厚労省副大臣時代に要望を頂いたことがきっかけだった。長く悩んできた私自身の腰痛も完全に治してもらった恩人だ。この村上さんらと厚生労働省医政局医事課長に会い、JACが公認するカイロプラクターズの名簿を届けることができた(16日)。いい加減なカイロプラクターのせいで、世間では危険なイメージが漂っている。その愚さを正していきたいとの思いを共有する私にとって、ささやかな一歩だが安堵することができた▼十一月。尼崎市公明党の土岐良二市議からの要請で党員支部会に出席した(6日)。彼が支部長を務める小田支部は、公明党支持者の密度が濃いところで、ある意味日本最強の地域だ。姫路以外でのこうした会合に出るのは引退後は珍しく、貴重な機会だった。彼は、私が初めて衆議院選挙にでた平成2年の選挙(次点で落選)で遊説隊長(当時姫路独協大生)をしてくれた頼もしい男だ。この日の講演で、私は衆議院解散の可能性に触れ、およそありえないと述べてしまった。わが身の不明を恥じるのはそれから10日もかからなかった。常在戦場をあらためて肝に銘じる▼十二月。総選挙投票日の14日まで、一気呵成で夜に日をつぎ走り回った。主に兵庫2区の赤羽かずよし候補を支援する戦いだった。彼は母校慶応大の13年後輩で、わが弟分になる。自民党代議士の応援を度々受けたが、小泉進次郎氏を迎えたJR新長田駅前は寒い中大勢の聴衆が集まってくださった(5日)。彼の演説は衆議院本会議で初めて聴いて以来だが、ひとの心を掴むのに長けており、ひょっとすると父親純一郎氏を既に上回っているかもしれないと思わせた。さらに、神戸国際会館での大集会開会前の名刺交換会には石破茂地方再生担当相がきてくれた(7日)。控室で20分ほど二人だけで懇談したが、今後の政局展望にとって味わい深い彼の考えを引き出すことになった。もちろん、これは明かせない。「先輩,先輩」といって、いつもおだて、たててくれる彼の前途に幸多からんことを祈る。(2014・12・31)

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この一年、私はこう動いた(上)

この12か月のわたし的活動のハイライトを取り上げて、一年の締めくくりにしてみたい。まず、一月。年来の友人からB型肝炎の訴訟を起こしたいので弁護士を紹介してほしいとの依頼を受けていた。担当してくれる玉田欽也弁護士(私の母校長田高出身)を伴って姫路市野里の福田宅へ(8日)。患者本人を含むご家族三人一緒にこれまでの医療機関とのやりとりを聴く。この患者は生来の重度身障者。すでに60歳を超えられたが、25年ほど前の私の初めての選挙いらい、いつも熱心に支援の闘いをしてくれたひとだ。なんとかこの訴訟は成功させたい、と決意▼二月。淡路島西海岸の海若(わたつみ)荘で、万葉学者の中西進先生らを招いて瀬戸内フォーラムが開催(公明党主催)された(9日)。私は、議員を辞めてから、瀬戸内海に内外の観光客を呼び集めるために奔走することに執心している。このため、裏方として参加したが、遠山清彦氏を始め党の生きのいい若手が多数参加してくれて大いに盛り上がった。必ず近い将来に大きく飛躍させたい、と誓う▼三月。今年始めから私は電子書籍の発刊に取り組んでいる。これはNPO法人デジタルファーストの副理事長としての仕事で、まず手始めに自ら友人との対談集を刊行することに。高校時代の友・高柳和江さんと飯村六十四君との鼎談(笑いが命を洗います)を皮切りに、中学校時代の志村勝之君との対談(この世はすべて心理戦)と続き、第三弾は小学校時代の竹馬の友で、今は住友ゴムの会長を務める三野哲治君と対談(運は天から招くもの)をした(19日)。これで、あとは大学時代の級友で慶応義塾大名誉教授・小此木政夫君、雅叙園社長の梶明彦君との対談へと続く。いよいよこの仕事も佳境に入り、大いに満足している▼四月。井戸敏三兵庫県知事と持田周三大阪朝日新聞代表(現、同顧問)とを合わせるために神戸の鯰学舎で会食する。知事とは同郷、同年齢とあって気が無類に合う。持田氏はかつての市川雄一公明党書記長の番記者で、私とも大変に親しい間柄。この二人、勿論相互に面識はあるが、私の仲介にのってくれ、この日の集いになった(22日)。知事は毎年の六甲山縦走に挑戦するほどの健脚。私は、姫路城周辺を毎朝一時間は走るほどの健脚。どちらが上かとばかりに,その場でスクワットで競い合ったりしてしまった。持田氏曰く「こんな70歳って,なんか変だね」と驚くことしきり▼五月。伊吹文明前衆議院議長が議長公邸に私を呼んで食事を戴きながら時局を論じた(29日)。これは、春先に偶々私が京都に出かけた際に、彼の個人事務所に立ち寄ったことから持ち上がった。伊吹さんとも長い付き合いで、大いにウマが合う。というよりも合わせてくださってきた。市川雄一先輩と太田昭宏国交大臣、井上義久党幹事長の三人も呼んでいただき、期せずして市川元公明党機関紙局長配下の仲間たちが集まった。先方は、大島理森副総裁、逢沢一郎議院運営委員長が同席。時あたかも集団的自衛権問題が山場にさしかかってきたころだったので、自公両党の腹の探り合いになった▼六月。私が顧問をしている日本熊森協会は、実践自然保護団体として極めてユニークで大事な戦いを展開している。初めてこの団体を知ってから20年近い。今、奥山保全のトラスト活動のために公益法人化が課題になっている。皆で力を合わせてこの目的成就に向けて立ち上がろうと理事会が開かれた(21日)。「クマたちの棲む豊かな森を次世代に」をスローガンに掲げるこの団体の同志たちのために私も貢献したいと立ち上がる決意をした。(2014・12・30)

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「災害文化」を発信し続け、事故死した貝原前兵庫県知事

それはまさに突然の悲しい知らせだった。さる11月13日、前の兵庫県知事・貝原俊民さんは、自動車の後部座席に乗っていて、横合いから突っ込んできたクルマに頭を強打し、亡くなった。同氏は、平成2年11月から10年8か月ほど兵庫県知事を務められた。その死を悼み、功績を称える県民葬が24日に行われ、生前に何かと交流のあったものとして私も参列させていただいた。佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団による「G線上のアリア」の献奏で始まり、途中、ご親族やその友人たちによるショパンの「別れの曲」ヴァイオリン献奏を挟んで、再び管弦楽団の「ダニー・ボーイ」の献奏で終わるという、美しい音の調べに満ち溢れた格調高い素晴らしい葬儀だった▼貝原さんを語るとき、忘れられないのは平成7年1月17日の阪神淡路大震災だ。就任されて4年余り、二期目に入られたばかりのことだった。以後、それこそ亡くなられる時まで、震災後への対応から「創造的復興」へと全身全霊を捧げられた。「災害文化」の発信において他の追随を許さない兵庫県を作りあげられた。震災直後の知事の立ち上がりが若干遅かったのではないか、とのある種”誹謗中傷”に近いような個人攻撃もあったが、その後の立ち居振る舞いはそうした論難を吹き飛ばして余りあるものだったと私には思われる▼今の知事である井戸敏三氏が私とは同い年の昭和20年生まれで、親しい友として何でも話せる仲だが、貝原さんは若干近寄りがたいものがあった。12歳、一回り上ながら父親のような厳しく煙たい存在であったのは、恐らく井戸知事も私も同様だったのではないかと思われる。しかし、それも知事を任期を一年ほど残して退任されてからはがらっと違った印象を受けた。介護を必要とされるようになった奥さんのために、その職を辞されたことを知って、大いに人間臭さを感じたものである。余力を残して第一線を退き、後方からの支援活動をすることも政治家の一生にとって極めて大事だとの教えを頂いたような気がしている▼それにしても彼の死が自動車事故死というのはなんとも痛ましい。かつて私は、兵庫県ではなぜ全国的にも稀な悲惨な事件が多いのかと悩み考えたことがある。児童の首切り事件や、死体をばらばらにして袋に入れ川に流すとか、高速道路上で死体を遺棄するなど、救いようのない事件が続出している。最近でも尼崎の家族内の連続殺人などが思い浮かぶ。阪神淡路大震災以降、ひとの心が荒んでいるからではないのか、と思うこともある。井戸知事は、兵庫県は日本の縮図だからだというのだが。知事経験者が交通事故にあうということも、県民に事故への警鐘を乱打しているように思えてならない。81歳の尊い生涯を無駄にしないためにも、災害からの安心・安全を訴え切った貝原氏の志を受け継いで生きたい。(2014・12・25)

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民衆のなかに育った党だけが持つ文化

大川清幸さんが亡くなった。公明党の元参議院議員であり、元都議会議員の重鎮だった。晩年は公明党の全国のOB議員団組織・大光会の中心者の一人だった。私も個人的にお世話になった。草創期の公明党にあって功績を残しながらも、その後の人生で様々な欲望に捕らわれて倒れていく先輩たちが少なくないなかで、常に変わらぬ熱い思いを持ち続け、戦い切られたひとだったと思う。公明党の50年を見守り、35議席を勝ち取る戦いを見据えて、その直後になくなるなんて、流石だと妙な関心をするのは私だけではあるまい。享年89歳だった。まだまだ後輩たちに範を示して頂きたかったと惜しまれる▼先日、兵庫県南あわじ市に住むある先輩OB議員が高齢者叙勲を国から貰うかどうか悩んでいるとの話を聞き、大光会仲間と3人でお宅を訪問した。日本の叙勲制度は複雑多岐にわたっているが、春秋の叙勲を授与される機会がなかった功労者に対して、年齢が88歳に達した際に授与されるものを高齢者叙勲という。公明党はこうした叙勲についてはすべて辞退をすることにしている。民衆の中から選ばれ、手弁当で熱き思いを持った人びとに当選させて貰って、その中で生き抜きそして死んでいくものにとって、国家による勲章は必要がないというのがその精神である。私はこれこそ公明党が天下に誇るべき文化だと思う。そんな話をその先輩議員にお話ししたところ、改めてその趣旨を理解いただき、こころよく辞退されることを決意された▼そのやり取りのなかで、私はある提案をすることを思いついた。国家による勲章ではなくて、我々仲間たちが先輩の88歳・米寿を祝うささやかでも心の籠った場をもってはどうか、というものだ。私が代表を務める兵庫県の大光会には200人近い先輩OB議員がいるが、そのうち88歳をすでに超えたり、近くその年齢に達するひとたちが20人ほどおられる。このひとたちは若き日に懸命の戦いをして地域に貢献されてこられた方々だ。今なおかくしゃくとしているひとは少しづつ少なくなってきている。その方たちに後輩としてお祝いの気持ちをあらわし、励まして差し上げたいと思う▼国家からの叙勲を授かるということは名誉だとの思いは、そう不自然ではない。とりわけ天皇への畏敬の念を持つ思いが強い年配の世代にとってはなおさらだ。しかし、それをご遠慮する、そこまでお気遣いをいただかなくとも結構ですというのも、また不自然ではないと思う。公明党の持つ他の党にない独自の文化は他にもある。例えば、勝手に個人的な海外旅行には行かない、どうしても必要な時には許可を求めるということもある。また、株式投資についてもすべきではないとの不文律もある。ともに、民衆のなかで戦うものにとって、普通のひとたちとの間に意識のかい離を生みださないように、との考えからだろうと思われる。窮屈ではないか、それでは自由がなさすぎないかとの批判もあろう。しかし、これも民衆の党としての文化、伝統なのだ。(2014・12・20)

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さあ、自民党との合意形成という戦いが始まる

総選挙が終わって三日が経つ。新聞やテレビなどの一般メディアによる第一報的総括も出尽くしたものと思われる。今後は週刊紙誌や月刊誌が後追いすることだろう。細かい数字的な分析は公明新聞など正規な媒体に譲り、ここは独自の視点を提供してみたい。あくまでこれから日本の政治を公明党はどうしたいのか、どうするのかということが私たちの最大の関心事だが、その初っ端としてのとらえ方を確認しておきたいのだ▼ある評論家が、今回は”逆桶狭間の戦い”だとして、大きい与党が小さい野党に奇襲攻撃をかけたものだと言っていたが、小さい与党にとっても厳しい戦いであった。同じ与党だといっても、巨大な自民党との狭間で埋没するわけにはいかず、中道・公明党は保守・自民党と、同一政権のなかで、不断に戦うことが宿命づけられている。常に自民党とはどこが違い、庶民目線から遠いものについては、それをどう正すかの視点が求められているからだ▼選挙戦中に聞いた演説で、きわめて印象的だったのが、兵庫2区の赤羽かずよし候補が「与野党の対立軸が政策的には見えにくいというが、政党政治家の態度という面でいうと、あまりにも明確に違う」と言っていたことだ。彼は、福島の原発現地対策本部長を2年間にわたって懸命に取り組み、大変な評価を得たが、なんと民主党政権時代にはそのポジションに10人を超える人間が入れ代わり立ち替わり就いたという。酷いのにいたってはついに現地に足を運ばない現地対策本部長もいたというのだ。ここまでとは私も知らなかった。赤羽氏は、「震災復興に真面目に立ち向かう与党か不真面目でいい加減な民主党など野党か」の対立軸があったというのである。いい加減な民主党政権時代の実態に改めて怒りを覚えた。これは一例だが、民主党には野党第一党としての資格がないということに尽きる▼今回の選挙の結果、公明党はなぜ与党に加わっているのか、これだけ巨大な自民党なのだから、もう連立せずともいいのではないかと問う人もいよう。しかし、参議院では与野党の伯仲状況が続いている。質の面だけではなく、量の面でも公明党の存在は欠かせないのである。私は、公明党がいるから、だらしない野党であっても、自民党政治の暴走にブレーキをかけ、悪いところはチェックすることが出来ると確信している。しかし、本来の民主政治にあっては、健全な二大政党、政治勢力がある程度交互に政権を担うことが望ましいとされる。いわゆる政権交代可能な政治システムを確立させようという観点から、今の選挙制度も導入されたはずだ。しかし、当面は今の民主党、維新の党、共産党などの野党に、もう一つの大きな勢力を作れといっても無理だという他ない。「早く生い立て民主党」などと寝ぼけたことを言っても(私自身がかつて言っていた)追いつかないのだ。国の内外で待ったなしの政治課題が山積しているのに、「自前で再建か他野党との再編か」で、これからゴタゴタが続くのだ。ならば、公明党がその代替役をするしかないといえよう▼戦後日本の政治の歴史は、自社両党の不毛の対立(表でぶつかり裏で取引するというもの)の残影が根強い。しかし、与野党の間で、対立するばかりで何も生みださないということでは国民があまりにも不幸だ。裏では壮絶な議論の戦いを経てしっかりとした合意を形成し、表ではそれを粛々と実行するという姿が望ましい。これこそ自公の政治である。来年の5月ごろには集団的自衛権にまつわる閣議決定の法制化の作業が始まる。ここでは、公明党が憲法9条の枠内で出来ることに限定した法整備を進めうるかどうかが最大の焦点なる。集団的自衛権の全面容認への未練を持ち、9条の枠を壊したい自民党との戦いが待っている。また、憲法改正も早晩日程に上がってこよう。9条の改悪などではなく、あくまで、環境権など多くの国民や与野党の合意を得やすいテーマを加えていく加憲を実施することから着手する必要性がある。これも大変な戦いを強いられる。自民党内に反対論が根強い消費税の「軽減税率」導入も実現するはずと思いこむのは危険だ。空理空論を弄んだり、反対だけが実績の既成野党には、巨大与党の自民党との間に意味ある議論を集中させることが出来るだろうか。かっこよく大言壮語は出来ても、合意を形成することなど到底期待できそうにないのである。(2014・12・17)

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“野党いらず”なのは公明党のせいかも

今回の選挙戦のさなかにある自民党の幹部が公明党候補の応援に来てくれた。その際に短い時間だったが色々と意見交換をし、それなりに面白かった。一つは野党第一党の民主党をどう見るかということ。二つは公明党の役割をどう考えるかということ。三つは安倍首相をどうとらえるかということであった。その人(仮にX氏としておく)は自民党が単独で300議席を獲るのは必至だとの報道ぶりを否定せず、むしろ負けるところを探すのが難しいとまで自信を漲らせていながら、選挙後の政治の展望に首をかしげていたのは印象に残った▼民主党はひょっとすると、今度の選挙で大敗し、なくなるのではないかというのがX氏の見立てだった。私はかねてから、「早く生い立て民主党」と叱咤してきたことを披瀝し、二大政党が並び立たないと日本の政治が危ういと思うとの考えをぶつけた。X氏は公明党がむしろ与党内で野党の位置をしめているがゆえに、民主党以下の野党の出番がなくなっているということを指摘していた。とりわけ「集団的自衛権」論議は、実に鮮やかであったと言っていた。石破茂氏が自公の合意に不満を抱き、国会答弁で首相との不一致が露呈することを避けたいという理由で、安保担当相を固辞したことがなによりもそのあたりの事情を裏書きしている、と。つまり、民主党以下の”野党いらず”の事態を公明党の頑張りが生み出しているということだ▼すなわち公明党が与党の中にあって十二分に野党の役割を果たしているというわけである。消費税でも「軽減税率導入」を主張する戦略は見事で、あたかも増税ならぬ減税を訴えているかのごとくに見えて大いに有権者・庶民の錯覚を引き起こしているとまで苦笑いしながら言っていた。ただ、自民、公明の連立政治が未来永劫続くことはあり得ないというよりも、あってはならない(政権交代可能な仕組みが民主主義の必然)だけに、長期的展望をどうするのかという贅沢な悩みでお互いに一致したのは皮肉な限りだといえよう▼安倍首相は「集団的自衛権」や「秘密保護法制」などで、公明党の主張を巧みに取り入れながらも、強いナショナリスト的側面を隠そうとしない。このことについて危惧を抱く人は自民党にも勿論公明党にも多い。首相レース対抗馬の第一人者である石破地方再生担当相は、かつて新進党結成に自民党を出て参加した弱みを持っているうえ、先に述べた「集団的自衛権」問題で見せたような専門家特有の頑なさ(石破氏は自公合意に本心は反対)から、しばしば抜け出しえないところがある。つまり、今もこれからも日本の政治リーダーは、”帯に短し、たすきに長し”的状況は否定しえないというわけである。自民300対公明30では彼我の対比は10%だ。これをせめて20%ぐらいにまで引き上げたいものなのだが。(2014・12・12)

今の日本の政治状況において、与野党の対立軸の見えないことは、公明党がむしろ与党の中にあって自民党政治に異議を唱えているからであるとの認識で一致したことだった。左右の対立というものがともすれば理想論同士の不毛の対決に終わるのに比して、中道政治が現実的な道筋を提起することによってより適切な合意を得ることが多いと考える▼二つは自民党のなかで安倍政治に対抗する動きが見えにくいことだ。

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お風呂も景気もエアコンも上から熱くなる

公示から一週間が経とうとしている。連日友人,知人に電話をしたり、自宅や会社を訪ねたりして、選挙戦をめぐる対話を重ねている。この道50年の超ベテランになってしまったが、いつもながら選挙は楽しい。大げさに言うと、人間と対話をする醍醐味を味わえるからだ。ま、懐かしい人に会える喜びと言ったほうが早いか。勿論、嫌な思いをしたり寂しい気持ちになることもままあるが、それは仕方がない。この世界いろんな人がいると思うしかない▼この50年間にした経験で驚いたものを幾つかあげてみる。候補者時代。戸別訪問をしている最中に、ある家で、「あなたここから先、入ってくると選挙違反で訴えるわよ」と言われたことがある。しばらくもみあったが、すぐに辞した。重大な勘違いをされたのか、それとも単なる候補者撃退法を駆使されたのかは未だに分からない。また、後援者から握手を拒否されたときは少々傷ついた。曰く「私はいかなる人でも男性とは握手しない」と。かなりの潔癖症な方とお見受けした▼つい先日のこと。友人がそのまた友人を私に紹介しようとしてある事務所に連れて行ってくれた。アポイントを取っていなかった弱みがこちらにはあったが、その相手の対応は酷かった。「なんの用事。で、どなた」「いや、元衆議院議員を紹介しようと思って」「今何しているひと?」「いや、ま、特に。元議員だから」「それがどうしたの。今忙しいの」ー唖然とした。私への仕打ちよりも、紹介してくれた友が気の毒になって仕方がなかった▼これまでの選挙戦では議論になるよりも、ニコニコポンが多かったが、今回は一味違う。アベノミクスなる景気・経済政策の是非が真っ向から問われているからだ。庶民の生活実感がまだまだデフレ脱却からはほど遠く、加えて物価高の様相で貧富の差が拡大していることは否めない。それがアベノミクスの失敗なのか、未だ途上であるがゆえの事態なのかを見極めることが最大の争点だ。私は明らかに後者だと確信する。お風呂でも景気でも、そしてエアコンも通常は、まず上から熱くなるのが道理だ。全体に恩恵が行きわたるにはまずは富裕層や大企業から出発するのはやむを得ない。これから最前線に景気上昇のうまみが行き渡る。今少しの辛抱だろう。それが叶わなかったら、今の政権は潔く敗北を認めるしかない。この辺りを懸命に訴えていきたい。(2014・12・7)

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税理士会の猛反対は覚悟の上の「軽減税率」導入

衆議院総選挙が今日公示された。公明党が初めて衆議院選挙に挑戦したのが昭和41年12月27日投票のとき。いらい、今回で17回目になる。私が公明党員になったのが前年の3月で、党が創立された翌年のことであった。東京都議会の黒い霧解散で、初のリコール選挙であった。続く衆議院選挙も黒い霧解散といわれ、第一次佐藤内閣のもとでの選挙であった。ほぼ50年の間に実に様々な選挙戦を戦ってきた。まったく普通の有権者として選挙に臨んだのはこの一回目だけで、二回目からは公明新聞記者として報道に携わり、9回目の平成2年1月の選挙からは自身が候補者として臨んだ▼いらい7回選挙をやり、前回からは再び一有権者、一OB議員としての選挙戦をしている。こうした経験を通じて選挙のあり方について思うことは、候補者の有権者との接触の少なさについてである。かつては選挙人の立会演説会があった。候補者の政見を見聞きし、それぞれを比べる機会があったのだ。狙いとは裏腹に対立候補の演説への露骨な妨害などが目に余り、やがて廃止の憂き目をみることになった。思えばこうした機会の解消と国会での演説力の低下とは無縁ではないような気がする。選挙期間も順次短くなり、候補者自身との接触は少なくなる一方だ▼公示の前日、私はかねて懇意の税理士事務所(姫路市内)を訪ねた。以前に紹介をしていただいた娘さんの嫁ぎ先(神戸市北区)に選挙支援の依頼にいった際の報告をするためである。挨拶も終わらぬうちに、「軽減税率はいかん。あんな面倒極まりない計算を必要とするものを導入するのは断固反対だ」と厳しいお言葉をいただいた。税理士の立場からすればそうだろう。この春先に5%から8%へと上がって大変な混乱を余儀なくされたのに、そのうえさらに次の10%への引き上げの際に、複数税率になると、食料品の定義自体から始まって難題山積みだ、と。公明党が余計な注文をつけるから安倍首相も前向きに検討するといっている。これでは先行きが思いやられ、前途真っ暗であるとも▼そうした反対の声は税理士だけではなく、中小零細事業者からもその計算の煩雑さを盾に上がっている。しかし、消費者の側からすればなんとか食料品など生活必需品には軽減税率を当ててほしいとの声は切実なものがある。ここは八方美人的対応は許されない。税理士さんには頭をひねっていただき、難しく煩雑な計算に耐えうる作法を編み出していただくしかない。先に、公明党もすでにそうした類似の税制度を導入している外国の実態を視察,調査するなどしてきており、これからも鋭意研究する姿勢だ。庶民の生活を守るためには、税理士会の猛反対は覚悟の上のことである。(2014・12・2)

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