前門にも後門にも待ち受けるー「テロとの戦い」の時代は終わらない➀

 27日午後アフガニスタンの首都カブールで自爆テロとみられる爆発があり、100人を超える市民が犠牲となった。世界各地でテロが日常茶飯事となっているにもかかわらず、アメリカはテロへの対応にひと区切りをつけ、むしろ大国間軍拡競争に回帰しようとしているかに見える。転換期を迎えた「テロとの戦い」の時代を考える。
 2001年9月11日ーアメリカでの同時多発テロで、いわゆる「テロ戦争」と言われる、「テロとの戦い」の時代が幕を開けた。あれから16年余り。相変わらずテロの横行がやまぬ中、アメリカでは「テロとの戦い」の時代認識を変えようとしている。恐らくその変化の背後には、イラクのイスラム国(IS)拠点壊滅という事態が影響しているものと思われる。それだけではない。北朝鮮、中国をめぐる北東アジア情勢や、シリア、ロシアを中心とした中東情勢など、世界の焦点と思しき地域での伝統的な軍事大国の復権が関係していることも無縁ではない。2月2日には「核態勢見直し(NPR)」を公表、新型の小型核兵器と核巡航ミサイルを導入するとした■前世紀末にソ連の崩壊によって、「米ソ対決」の冷戦の構図は終焉を迎えた。新たな「米国一強」の時代の到来で、国際情勢に大きな変化が訪れるかに思われたが、それは長続きしなかった。21世紀の幕開けと共に、「フラット化する世界」(トーマス・フリードマン)と呼ばれるように、国家から企業、企業から個人へと、経済主体の大転換が始まった。国境を越えて移動するヒト、モノ、カネの動きは、戦争の形態まで国家主体から共同体や個人主体のものへと劇的な変化を促してきたのである。1990年代から今日までの25年ほど低迷を続けたソ連崩壊後のロシアは、今や昔年の雄姿を彷彿とさせるまでに回復したかに見える。そしてほぼ同じ時期に、軍事力を蓄え続けてきた中国は、今や名実ともに経済大国にのし上がってきた。テロとの戦いにかく乱され続けてきたアメリカは、今やテロという前門の虎と中露という後門の狼というように、新旧取り混ぜた戦争要因に囲まれる自身を自覚せざるをえないのである■なんのことはない。冷戦から新冷戦の時代を経て、今や世界は大混乱の時代を迎えたという他ないのではないか。私が現役時代に国会にテロ対策特別委員会が設けられた。国家間相互の戦争に代わって、テロ組織グループや自爆テロによる国家への挑戦といった動きが顕著になってきたことへの対抗措置であった。全く新たな形態を持つ戦争にどう対応するか。毎国会ごとに論議が交わされた。とりわけアフガンやパキスタンなどの地でのタリバンをめぐる動きに、多国籍国家群によるインド洋における給油活動をどう進めるかなど、多くの時間が割かれたものであった。またソマリア沖での海賊活動をどう取り締まるかについても激論が交わされた。そして2014年に過激派組織ISが「建国」を宣言するに至って、その戦いは頂点に達した■日本にとって、「テロ戦争」の主戦場は遠く離れた地だとの認識が一般である。中東、欧州は言うに及ばず南アジアでテロが発生しても対岸の火事と見る傾向は根強い。テロよりもむしろ北朝鮮の核弾道弾ミサイルの標的になる可能性についての問題の方が、国民の危機意識は大いに煽られる。しかし、テロへの対応を放置したままでは奈落の底に突き落とされる可能性は高い。2020年の東京オリンピックが標的になるかもしれないと、随所で真剣に囁かれている。いつなんどき我々の住む地が悲劇の主舞台になるかもしれないのである。近隣国家による軍事力攻撃にも、見えない敵の理不尽なテロ攻撃にも、双方に備える対応力が今強く求められているといえよう。(2018・1・27=一部修正1・29/2・5)

時代の下り坂をどう変えて上り坂にするか

23年目の「1・17」がやってきて、足早に過ぎ去った。あの時、私は衆議院議員に当選して1年半ほどが経とうとしていた。それ以来の日本の来し方を振り返るとまことに感慨深い。一言で言えば、あの震災で弾みがついたかのように、どんどんと時代は下り坂を転がる一方だということである。この数年あまり私は「40年日本社会変革説」や「80年周期日本危機説」を取り上げ、自分なりにそれへの処し方を考えてきた。ここでは、そういった議論の説明を繰り返さないが、論壇における未来展望の貧困さが気になる。例えば、1月15日付けの神戸新聞に掲載された文芸評論家の斎藤美奈子氏の「識者の視点ー近代の限界」である。この人は、あれこれと過去の具体例に触れた後、「経済は低迷、思想は戦前回帰、大地は揺れて科学技術の安全神話に疑問符がつく。近代にもさすがに限界が来たのか」と述べ、「次の40年をどんな形で上向かせるのか。2度目のどん底が来る(?)2025年の前に私たちは考えておくべきであろう」と結ぶ。おい、おい。貴女はどう考えるか、述べずに逃げるのかと問いたくなる■昨今の様々な論稿にうかがえる特徴として、この人のように、肝心のこれからどうするかを述べず(他のところで述べているかどうか寡聞にしてしらない)に、問題提起だけで終わるものが極めて多い。終りの数行を冒頭に持ってきて、そこから議論を始めてほしいものである。恐らくは誰しもその主張に決定打を欠き、世に問うだけの自信がないものと思われる。私の見るところ最近最も輝いている佐伯啓思氏でさえ、「矛盾をはらんだ日本の近代」(異論のススメ=朝日新聞)との論考で「福沢を後継する『新・文明論之概略』はでてこず、彼の危惧した『独立の気風』の喪失も問題とされない」風潮を嘆いている。阪神・淡路の大震災、東北の大震災の犠牲者の真の意味での追悼は、これからの日本をどう上り坂にするのかとの大議論を巻き起こすことだと、私は思う■これまで、私は日本の新しい国家目標を定めるべきだと主張してきている。明治の「富国強兵」、昭和の「富国強経」に代わる、平成の「富国強芸」とでも言えるものを、と。「強経」とは経済至上主義を指し、「強芸」とは芸術に力を注ぐことを意味する。尤も昨今の社会的状況は芸術ではなく芸能に傾きすぎてる感が強い。年末年始のテレビを観ていると、芸人のオンパレードでよくもまあとの感が強い、と思うのは私だけではあるまい。勿論芸術オンリーというわけではない。しっかりとした経済力と他国の侵略を許さない軍事力を背景に、したたかな外交力と成熟した文化を持つ、芸術に勤しむ国民、国家といったイメージである。勿論、これには異論があろう。私の尊敬する評論家の山崎正和氏も「国家目標などいらないでしょう」と、先年に私が持論を持ちかけた際にやんわり諭されたものである。確かに国家が人間の内面に関わることを目標として掲げると碌なことはないものと思われる。ただ、一つの方向としてはあっていいのではないか。その意味で、安倍自公政権が「一億総活躍社会」を掲げていることは興味深い。ただ、何でもって活躍の手だてとするかについてはあまり議論された形跡がないし、聞こえてこない。皆が元気で豊かに頑張れる社会作りということでは、政界に特有の当たり障りのないキャッチフレーズと同様に思われてしまう■最近になって”悪友”・飯村六十四(医者)と健康について語り合った。これまで、健康には食事、運動、笑いの三つが大切」(高柳和江との電子書籍鼎談『笑いが命を洗います』)というのが結論だったが、彼は、それに「音楽を加えよう」という。私も音楽、絵画など芸術に我を忘れて熱中することがいかに人間にとって重要かを考えてきただけに、もとより異論はない。というように、これからの日本の在り様に芸術志向を組み込むことは大切だ。音楽こそ民族、国境を越えて、言語、人種の違いを乗り越えて、平和のカギを握ると強く意識しているからだ。勿論、その背景には健全な思想の興隆(ワーグナーとナチスドイツとの関わりを想起するまでもなく)が欠かせない。過去の二回のどん底期(明治維新と昭和維新=斎藤さんは一回分を見損なっている)に勃興したナショナリズム、皇国思想がまたぞろ蠢いているとの感がぬぐえないだけに、なおさらそう思う。(2018・1・19)

同時代を別世界で生きた同年代ー星野仙一の「逆算」

新年早々に、元プロ野球選手(中日、阪神、楽天で監督)の星野仙一さんが亡くなったとのニュースが流れた。各紙の評伝は「熱血と愛情の闘将」「反骨の闘将」「燃える男」「厳しさの裏に厚い情」と異口同音に熱い響きで褒め称えた。万人共通の印象を私も抱いていた。彼とは生前に一度だけだが話を交わしたことがある。私が厚生労働副大臣時代。某製薬会社のパーティに招かれた。その会社のイメージキャラクターとしてイチロー選手と星野さんが来ていた。イチローさんとは別室でツーショットに収まり(その写真は今も私の机の片隅を飾っている)、星野さんとは同じテーブルを囲んだ■昭和40年代初頭、慶大で4年間を過ごした私はご多聞にもれず、六大学野球のとりこになった。春と秋の神宮球場に足を運び、手を叩き声をからした。当然ながら矛先は専ら早慶戦。当時の慶応には我がクラスメイトの藤原真、早稲田には谷沢健一、荒川堯らがいた。一方、法政には田淵幸一、山本浩二ら。そして明治には星野。後にプロ野球の世界で綺羅星のごとく輝いた連中だ。星野さんとは束の間だったが、当時の思い出を、共通の友人をあれこれと語った。さして興味を惹かなかったはずだろうに、彼はにこにこと相槌をうってくれそれなりに応じてくれた■かねて子どもの世界では「巨人・大鵬・卵焼き」が人気の定番とされてきた。が、反骨ならぬへそ曲がりの私など、南海(阪神でないところがミソ)や柏戸贔屓だった。要するに強いもの、皆が祭り上げるものに抵抗したい傾向があった。後に、「巨人・東大・自民党」に反発する思いから、就職先に公明党機関紙局を選んだのも無縁ではなかった気がする。この辺り大いに星野さんと軌を一にするものと自賛している。尤も、今や巨人に昔年の面影なく寂しい限りではあるが■星野語録で最も共感するのは、「阪神タイガースの監督を引き受けた時から優勝を大前提にし、何をやっていくかを考えた」(平成16年2月の大阪市内でのセミナー)というものだ。目指すゴールから逆に今なすことを考える方式だ。実は私の政治家としての大先輩である故市川雄一氏も、選挙の世界での「逆算方式」の大事さを何時も語っていた。当選するには何票必要かを目標として立て、そこから一切を逆に組み立てていくというやりかたである。当たり前のことに思えるが、これがなかなかに難しい。自身の一念に未来の結果を強く、深く、刻印してから、その後の具体的戦略と戦術を実行することなのだ。同時代を別世界で生きてきた同世代の死。見事な生き方を前に、我が逆算の答は未だ出そうにない。(2018・1・15)

食べ飽きたおせちみたいー新年元旦号の各紙を比較する

新聞メディアの苦戦が伝えられているなかで、新年元旦号への各紙の取り組みぶりを私なりに評価してみたい。取り上げる基準はあくまで私が感動したかどうか、で極めて恣意的であることはあらかじめお断りしておく。まず、いきなり番外編から。神戸新聞の3日付けトップ記事は面白かった。「雄県」兵庫際立つ個性との見出しで、新五国風土記「ごのくにのかたち」が始まった。➀県民性が惹きつける。47都道府県を擬人化した漫画「うちのトコでは」(飛鳥新社)で設定される兵庫のキャラクターはなんと5つ。他の46都道府県が一つづつなのに、唯一の例外県なのである。摂津、播磨、丹波、但馬、淡路の5地域がひとまとめにしがたいということなのだ。そのうち、我が播磨は、「やや保守的で頑固、剛毅、姫路城がプライド」とある。確かに、と妙に納得する。尤も、摂津が「おしゃれで進取的で洗練されたナルシスト」とくると、いささか嫉妬の気分も起こってくるが。兵庫の各地域の振興に特段の関心を抱く私としてはこれからの連載が楽しみだ■元旦号に戻ろう。まず、ニュース記事で目を引いたのは読売のトップ「中露企業 北へ密輸網」。北朝鮮が石油精製品を公海上で積み替えて密輸している実態を中露朝の密輸ネットワークとしてすっぱ抜いた。契約文書を入手し、タンカー提供で決済の仲介ぶりを明らかにし、国際制裁の抜け穴ぶりを暴露してみせた。このあたりは、いかにもさもありなんと思われることを実証してみせ興味深い。これと並ぶ話題をピックアップしたのが毎日の「拉致解決 資金と交換」。先年韓国に亡命した北朝鮮の元駐英公使の単独インタビューで、金正恩委員長が巨額の資金援助を受けることができれば拉致解決に前向きになるというもの。まことにこの国らしい身勝手な論理だが、同問題の進展の糸口になるやもと、気を引かせる。2面では、「軍の統制が核頼み」であるとの証言も引き出している。産経は、2面で朝鮮半島有事シュミレーションを、元海将や元空将のシナリオ予測で描く。見出しは「米の北攻撃3月18日以降「武力行使 条件整っている」とこの新聞らしい扱いで分かりやすい■一方、こうしたものと全く違うものをトップに持ってきたのが朝日と日経。朝日は、去年からの連載「平成とは 第一部時代の転換」の3回目。➂幸福論とあり、「成功とは違う、ハッピーの道みつけた」の見出し。2面は平成のライフスタイルの変化を挙げ、「一人カラオケ」に迫る。なんだか内向きが過ぎるとの印象は否めない。ここはやはり北朝鮮ものだろう。一方、日経は「パンゲアの扉 つながる世界」と題する連載の一回目。パンゲアとはギリシャ語を起源とする「すべての陸地」の意味で、かつてはみな繋がっていたということだという。「デジタルの翼に解き放たれた、小さな国、小さな企業、小さな個人が境界を溶かす」「もう誰も後には戻れない」と、この新聞社らしくグローバリゼーションの行末を見据える■こう見て来ると、各紙各社の日頃のスタンスが窺えて、なんだかありきたりに思われる。それぞれ中のページには様々の工夫が凝らされてはいるものの、定番ぶりが気になる。朝日は社説の「来るべき民主主義」で「より長い時間軸の政治を」とうたい、末尾に「先を見据えよ。憲法は、そう語っているように思われる」と訴える。いかにもの結論で、食べ飽きたおせち料理みたいだ。その点、「初めから同質の国はない」との見出しでの毎日の社説「国民国家の揺らぎ」には新味があり読ませた。ただ、同じ3面の「公明、改憲『目指す』削除」と、連立合意で自民を押し返していたことを明らかにしている記事は踏み込みが足りない。せっかく気を引く記事なのに扱いも中途半端だ。一方、読売も産経も対談や鼎談で登場する人物がお決り過ぎる印象が濃い。何時もの同じ人物が登場するのでは面白くない。特集記事では日経の「明治150年 維新再び」で「新しい日本へ8つの提案」が注目される。他の各紙に比べてきちっ時代の節目に対応しようとしているところはわたし的には大いに交換が持てるが、さて中身はどうか。これは今後のお楽しみに。(2018・1・4)