Monthly Archives: 11月 2020

「コロナ禍中の世界」を見極めることからの出発ー日韓関係の今を巡って(下)

●ある韓国専門家の落ち着いたまなざし

1960年代半ばに私は大学生活を送りましたが、当時は「中国文化大革命」華やかなりし頃でした。同級生に後に慶大教授になる小此木政夫がいました。彼は中国政治史の専門家である石川忠雄先生のもとで、学問の道に進むのですが、研究のテーマに「韓国」を選ぶように恩師から言われ、いささか面食らったと、後に述懐していました。正直言って我々クラスメイトの間でも「なんだ、小此木は中国じゃなくて、韓国をやるのか」と不思議がる雰囲気がないわけではなかったのです。所詮これも〝出来ない奴の嫉妬〟に過ぎなかったのですが、「地域研究」の分野でも差別意識がそれなりにあったことは認めざるを得ません。

彼はそんな状況のなか、大学院では大阪市大から招聘されたばかりの『朝鮮戦争』の著作で著名な、神谷不二教授の薫陶を受けます。しかる後、韓国・延世大学に留学し、その道の第一人者への道をひた走ることになりました。私が政治家への道に向けて悪戦苦闘している40歳台半ばには、もう押しも押されぬ韓国問題の専門家になっていました。当選後に外交安全保障分野の仕事をするようになって、しばしば勉強会に招いて講義をしてもらったり、情勢分析に耳を傾けたりしたものです。今から5年ほど前に二人で韓国をめぐる対談をして『隣の芝生はなぜ青く見えないのか』と題し、電子本として出版しました。手前味噌ですが、電子本の気安さもあって、二人とも個人的体験を大胆に述べて、興味深い内容になっていると自負しています。

小此木は、合意や約束を守ることが重視される日本と、その合意や約束の「内容が正しいかどうか」を問題にする韓国とでは真逆の対応をしばしば招くと指摘。その実例として、1910年の日韓併合を不法とする韓国は、1965年の「国交正常化条約」ではそれが認定されていないとして問題視し続けていることを挙げています。そういう文化を持つ国と、長きにわたって向かい合ってきたことを淡々と語るのですが、学者の真骨頂を見る思いでした。

●無視することの有用性

2019年に彼は『朝鮮分断の起源 独立と統一の相克』と題する著作で、第31回アジア・太平洋賞(大賞)を受賞しました。国際政治学者の五百旗頭真・兵庫県立大理事長も毎日新聞紙上で高い評価を下す読後感を述べています。単一の著作を殆ど彼は発表してきていないだけに、過去の研究業績をまとめたものにせよ、いきなりの大賞を得たことには、仲間と共に驚き、喜びあいました。日本での韓国を巡る論壇では、昨今、いわゆる保守派による韓国叩きが横行していますが、彼は中庸に位置する論考や分析をすることで定評があります。若き日より一貫して変わらぬ落ち着いた大人の佇まいで、韓国に対する見方もバランスの取れた位置を守っているように見えます。「反日」「嫌韓」の風潮が勢いを増す中で、彼のニュートラルな立ち位置が一層貴重に思えるのです。

「韓国の嘘つき文化は国際的に広く知れ渡っています」で始まる、李栄薫の『反日種族主義』ー昨今韓国内部からも厳しい批判の眼差しが向けられるようになりました。日韓関係も依然として真逆のスタンスのぶつかり合いが続いています。韓国に対しては「無視するのが一番」で「相手にしないのが最善」との見立てが通り相場です。しかし、それではことは一歩も進みません。ここは小此木がいうように、「リアリズムを土台にする外交が日韓の『戦略共有』を可能にし、創造的外交を促進する」ことになり、「それが定着すれば一世代後に日本人と韓国人の『意識共有』が可能になるかもしれない」(毎日新聞2020年10月8日付け『激動の世界を読む』)のです。朝鮮海峡を挟んで罵り合い、角突き合わせる状態が続くなかでの精一杯の展望予測に、楽観的に過ぎるとの評価は酷と言えましょう。

●韓国映画の凄さに驚く

日韓関係を思いやるにつけて、私が最近痛切に感じるのは韓国映画の凄さです。2020年のフランス・カンヌ国際映画最高賞などを受賞したポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』を観て、心底から感じ入ったのは私だけではないはず。日常的な格差と不条理という社会経済的課題を、ここまでエンタテイメント性を盛り込んで見事に描いた映画を今まで観たことがありません。要するに、笑いの中でどきどきハラハラさせるユニーク極まりない面白さです。韓国料理はいまいち苦手な私ですが、この映画の味には痺れました。後半の展開には首肯し得ないところ(無用な殺戮場面)があり、後味の悪さは否めないのですが、前半の痛快さ、面白さはずば抜けており文句なし。こんな映画を作れる国(他にもあげればキリないぐらいの秀作あり)を蔑んではいけないと思う次第です。

これより先に、日本の是枝裕和監督の『万引き家族』がやはり前年のパルム・ドールを受賞し、話題になりました。映画も勿論、人それぞれの好みで種々の見方があります。『万引き家族』への一定の評価はわかりますが、暗くじめじめした肌触りが特徴のこの映画に、私は高い得点を与える気にはなれません。「万引き」というテーマの選択に、生理的嫌悪感も感じてしまうのです。黒澤明、小津安二郎監督らから宮崎駿監督に至る、数多の感動的な作品を残してきた日本映画の歴史と伝統。これらを、真っ当に受け継いでいく作品が昨今極めて少ないように思われるのは残念です。

●コロナ禍への欧米と東アジアの対応から

新型コロナウイルスの突然の襲来で明け、蔓延する中で暮れようとする2020年は、後年恐らく人類にとって大きな転換の年に位置付けられるものと思われます。「破綻」への坂道を転がり堕ちるのか、「蘇生」へと濁流を泳ぎ切れるのか。その分岐の鍵を握るのは、「国際社会の連帯」です。人間相互の関係において、ソウシャルディスタンスをとり、密を避けることがコロナ禍を脱するための基本的対応ですが、今後の世界のあり様を想起すれば、皮肉にも相互に離れず接近することの重要性が求められます。つまり、コロナ対応は、個別、渦中には「分断」、全体、終焉後としては「連帯」の〝合わせ技〟しかないのです。

〝アメリカ・ファースト〟を呼号し「自国第一主義」を掲げたトランプ米大統領の登場から4年間、世界は振り回され続けました。その最終コーナーで、コロナ禍に足元を救われた感のするトランプ大統領は、政治的分断を煽る一方、マスクなしで〝密を容認〟するかのごとき振る舞いに見るように、〝合わせ技〟を取り違えてしまいました。

アメリカを先頭にヨーロッパ先進国家群が圧倒的な感染者数と死者数に喘いでいます。それに比し、中国、韓国、日本、台湾の東アジア各国は、内容に差異はあれ、比較的に被害数字は低い状態にあります。とりわけ、台湾、韓国はなかなか見事な対応ぶりだとの評価を受けています。先に述べた韓国映画の卓抜さに加えて、コロナ禍でのこの国の健闘ぶり(他にもAIの分野始め枚挙にいとまない)も特筆されるといえましょう。

赤と青に色別に区分けされた、米大統領選挙での獲得選挙人数分布図を見て、見事な〝分断の絵図〟に改めて驚きました。この国は南北戦争以来、表面上はともかく、隠れての分断が底流にあったのですが、それが中央部分の共和党の赤色によって、東西の青色の民主党が二つに分断されているように見えます。と同時に、東西ドイツの統一実現から30年経った今、38度線で南北に分けられた「朝鮮分断」の存在が際立っています。

福澤諭吉の「脱亜入欧」を挙げるまでもなく、日本は東アジアに位置し「極東」と言われながら、「極西」を志向してきたと言えなくもない近代史を持っています。視点を変えると、この75年、アジア大陸に隣接しながら、背を向け、目は太平洋の遠き彼方にあるアメリカに向け続けてきたといえるのです。そんな日本にとって、今回のコロナ禍直撃に唯一の効用があるとするなら、世界に対する目線を普通の状態に戻す必要を迫ったことかもしれないと、私には思われます。(2020-11-24一部修正 =敬称略)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「未来志向」という、ごまかしの背景ー日韓関係の今を巡って(上)

●赤羽国交大臣の発言騒ぎ

いささか旧聞に属しますが、一年ほど前に姫路に住む友人から、赤羽一嘉国交大臣が「韓国は日本に文化を伝えた恩人の国である」と発言したことについて、ネット上で非難轟々の抗議が上がり、炎上寸前だとの知らせがメールでありました。詳しい事情がわからなかったのですが、大臣発言のフレーズを聞くだけで、私はその背景は直ちに読めました。その友人は、どうして赤羽大臣はそんなバカなことを言うんだろう?韓国を持ち上げるのも程がある。こういう発言は利用されるだけ。韓国なんておよそ国家の名に値しない存在なのにーこういった「反韓」感情剥き出しで、文句タラタラだったのです。

事情を調べると、赤羽大臣は、東京で開かれたある会合に、外務省政務官や自民党の河村日韓議連幹事長らと共に出席して、挨拶の中で先の発言をしたと言います。私は、文句を言ってきた友人に、赤羽発言は本人の思いもさることながら、創価学会SGIの基本的な認識、捉え方であり、同大臣は強い確信のもとに言ってることは間違いないよ、と伝えました。併せて世界の歴史とりわけ東アジアの歴史を辿るなら、この認識はごく自然で当たり前のことを言ってるだけ、あなたの怒りは昨今の日韓関係の歪みに左右されすぎてますよ、とも。

仏教はインドから中国、朝鮮半島を経て日本に伝わってきたのであり、言語を始めとする文化一切も中国発朝鮮半島経由でのものが殆どだといえます。それに対する素直な捉え方を赤羽大臣が発言したことに、一部の人々が反発をしたことの背景には中々一筋縄では捉えられないものがあるように思われます。ここでは韓国と日本という〝近くて遠い〟両国関係の今についての私なりの考察を述べてみます。

●「未来志向」は先のばしの別名

日韓関係を巡っては、これまで日本政府は「未来志向」なる言葉を多用してきました。これは、未来に目標を定めて向かうこと、というのが本来の意味でしょう。ちなみに対中国関係にあっては「戦略的互恵」なる言葉がしばしば使われてきました。こっちの方は、政治における信頼関係を醸成し、互いに未来において相互に利益を感じる関係を構築するとの意味合いがあります。かつて第一次安倍晋三内閣(2006年合意)から福田内閣(2008年共同声明)にかけて日中間での取り決めでこの言葉が使われました。従って、より関係が成熟した二国間で用いられるニュアンスが強いのが「戦略的互恵」であり、「未来志向」の方は、過去に拘らずに前向きで行こうとの単純な意味合いが強いものと思われます。

かつて私は民主党政権時代に外務委員会の場(2010年)で、時の外相に日韓の外交関係における「未来志向」なる言葉の構成要件はなにかと問いかけたことがあります。「日韓併合100年」にあたっての「日韓図書協定」の批准についての質疑をした際のこと、その大臣が短い間に十数回も「未来志向」という言い回しを繰り返したからです。彼は答弁で「安全保障、政治、経済、文化の各分野での相互交流」というだけ。恐らくは、過去にばかり目を向けず、未来に向けて広範囲な分野で目標を定めて、交流に取り組むと言いたかったのだと思われます。しかし、現実には韓国の「過去偏重」とでもいうしかない姿勢の前に、なすすべもないというのが当時の日本の民主党政権下の対韓外交の実態でした。基本的には今もなおこれと大差ない状況を引きずっているようです。

●菅首相誕生で局面打開の期待

日韓関係は、従来からの「慰安婦問題」に加えて、元徴用工に関わる訴訟で日本企業に韓国最高裁が賠償を命じて(2018年)からというもの、一段と悪化してきています。菅義偉首相が誕生して、文在寅韓国大統領との間で、電話協議を20分間行ったことが、9ヶ月ぶりの首脳間協議だとして話題になる程、両国関係は冷え込んでいるのです。この関係を改善するには、「基本的な価値と戦略的な利益を共有する最も近い友人」(文在寅大統領)との認識を共有したうえでの、「対話の加速」化が求められます。両国関係は、これまでの経緯からして、理念的なるものが介在すると暗礁に乗り上げるのは必至で、ひたすらリアリズムに徹することが大事と見られています。

その点からいうと、理念が先行しがちだった安倍晋三前首相の後継者であるものの、より現実の損得勘定に敏感な面を持つ菅首相の登場は、二国間関係の変化をもたらすチャンスかもしれません。内政面において、菅首相は就任早々から携帯電話料金値下げなどの問題始め、「小さな声を聞く」公明党のお株を奪いかねないほどの庶民生活感覚に溢れた施策の展開を売りにしようとしています。一方、外交にあっても、ベトナム、インドネシア訪問を先行させるなど、手堅くしぶとい手際を見せており、次なる手は韓国との融和に向けての一歩が期待されるところです。

●理由なき優越感と贖罪意識

実は私の父は1910年生まれでした。この年は日韓併合の年。以来35年後の1945年に私は生まれました。つまり、韓国の人々がいうところの「日帝35年」の時の流れがちょうど、我々父子の〝生命のリレー〟とダブります。それが影響したのかどうか。恐らく戦後生まれの日本人に共通するであろう、いわゆる対韓蔑視感情と贖罪意識がない混ぜになって我が体内に混在しています。それは「日清・日露」の戦勝をピークとする近代日本の形成の有り様に深く関わっています。占領国家・国民の優越性を自覚し、非占領下の民族を哀れむ感情と無縁ではないものと思われます。陰に陽に、家庭の中で、そして学校内で、これは培われていったのです。

これをいささか戯画化風にまとめてみます。明治期の最後に二つの大きな戦争を戦い、負けなかったことで、日本人は民族の優越性を、隣接する他民族との比較の中で実感しました。一転、第二次世界大戦での壊滅的敗北で、米国という新興・巨大国家に対する劣等感に打ちのめされたのです。私の幼年期に母が「上見りゃキリない、下見りゃキリない」とよく口ずさんでいました。日常生活の厳しさを、他者との比較ではなく、ありのままに受け止めるしかないと自らを戒め、子供達にも教えたつもりだったのでしょう。ただし、私には単なる生計の苦しさについてだけではなく、民族相互の見立てにも通じるかのような響きを持って聞こえ、印象深く記憶に残っています。

戦後民主主義教育は、戦前の日本がいかに隣接するアジア各国の民衆に残虐なことをしたかを教えました。遅れてきた植民地主義国家として、欧米列強の尻馬に乗って、いかに周辺国家を痛めつけたかということをも。そうした見方が同時にいかに一方的で、正鵠をいていない捉え方であるということを知るに至るのですが、それはまたずっと後のことです。その結果、私たち戦後世代の中には、いわゆる〝対韓贖罪意識〟が抜けきれないところが未だにあるといえましょう。(以下、つづく 2020-11-17 )

 

 

 

 

 

 

 

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「大阪都構想」敗退と、米大統領選の結末とーこれからへの影響

二度目の「大阪都構想」を問う住民投票が、約2万票の差を持って結末を迎えて数日が経ちました。選挙投票日直前に、私はその構図を「維新、公明」対「自民、共産」という、大阪をめぐる新旧の政党の枠組みによる争いと規定し、日本政治への影響少なからぬことを発信しました。前者が勝てば、つまり大阪都構想が実現すれば、当然ながら『維新』の中央政治に及ぼす影響も大きくなろうと見たのです。しかし、結果はノートと出ました。松井一郎大阪市長は任期を終えたのちの政界引退を表明、近く党代表も降りる方向を示唆しています。最初の住民投票の敗北で橋下徹氏、二度目は松井氏が引退をすることになり、もう三度目はないといいます。この躓きで『維新』はどうなるのか、大いに注目されるところです▲菅義偉首相誕生後の最初の国会での予算委論戦を観ました。率直な印象は立憲民主党の迫力の無さです。日本学術会議問題を主たるテーマにした4日の枝野幸男党首の質問も精彩を欠きましたし、元党首の岡田克也氏は、北朝鮮問題や核廃棄問題を取り上げたのですが、「老いたり」という他ない寒々とした内容でした。それに先立つ2日の衆議院の質問の江田憲司、今井雅人氏らから、5日の参議院の蓮舫氏に至るまで、次々と同じ問題を取り上げる質問戦略には首を傾げざるを得なかったのは(蓮舫氏は「一般社団法人問題」など、本来の〝予算審議〟に時間をもっと割くべきだった)、私だけでしょうか。私個人としては、辻元清美氏の変わらぬ歯切れのよさと、「学術会議」を取り上げなかった玉木雄一郎国民民主党代表に新鮮味を感じた次第です▲国民民主党と日本維新の会の接近が取り沙汰されていますが、これは日本政治における必然の流れのように思われます。小池百合子都知事や前原誠司氏らによる「希望の党」の騒ぎの際にも、感じたのですが、自民党ではないもう一つの保守政党の台頭を待望する底流は、日本社会にあって否定できない流れと思われます。こうした動きを、単なる数合わせとか、権力闘争お決まりの離合集散と切り捨ててしまうだけではならないと思います。公明党も口の悪い向きから「自民党山口派」などと揶揄されることがママありますが、〝本家中道主義の党〟としての矜持を持ちたいと強く思います。「学術会議」問題でも、納得できる説明を求める程度では弱すぎるという他ありません▲他方、米国の大統領選挙の決着が注視されています。日本時間の6日朝現在、民主党のバイデン氏が優勢と伝えられていますが、この選挙戦を見ていてつくづく米国社会の〝分断の深刻さ〟を感じます。「二大政党制」に憧れる向きが日本にもないわけではありません。つい数年前までは、「自民党対民主党」の構図が米国の「共和党対民主党」のそれに擬せられることが一般でした。今や悩める民主主義の実態に世界中が呆れ、脅威を抱いているといっても過言ではないといえましょう。米国にも第三の党があるとのこと。殆ど数量的には意味をなさないのでしょうが、このままの〝不毛の激突〟を見せられるより、もう一つの流れに期待をしたいと思います。日本にとって、この米国の事態は、〝宗主国の内乱〟とばかりに、対岸の火事視するだけではいけません。独立した「自主・自立国家」への今後を切り開くいいチャンスと捉えて、対応を急ぐ必要を痛切に感じます。(2020-11-6)

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