【35】変わらざる人間と変わりゆくAI━━あの「降伏調印式」から80年/9-5

    1945年夏の敗戦から80年が経った。僕はこの1ヶ月間あれこれと「戦争」にまつわるドキュメンタリー番組を見てきた。80歳の自分としても、あの「敗戦」を直接見聞きした先達の振る舞いや言葉を残しておきたいとの衝動に駆られている。時折りに書いていきたい。これはその第一回。切り口は1945年9月2日。米戦艦ミズーリ号上で行われた「降伏調印式」である。1941年12月8日の真珠湾攻撃で始まった「対米戦争」も、4年後の8-15のあの昭和天皇の「玉音放送」で終わりを告げた。と、誰しもが思っていたが、現実にはその後の数日間に、日本の中枢・東京、そして北海道・千島列島から沖縄に至る各地で「戦闘」は続いていたのである。それら全てが漸く終わり、決着がついたのが9-2だった。この「敗戦式典」での日本の主役は、当時の外相・重光葵(しげみつまもる)。そして脇役は外務省筆頭随員だった加瀬俊一。このうち重光は、外交官の中で僕が尊敬してきた大きな存在のひとりである◆重光は、1932年4月29日、上海蛇口公園での天長節祝賀式典において、朝鮮独立運動・尹奉吉のテロ攻撃に遭い重傷を負った。彼は同年1月に起きた第一次上海事変の後始末の一環として欧米諸国の協力のもと、中華民国との停戦交渉をまとめ、協定調印を残すだけという状況下にあった。その渦中の事件で激痛に耐えながら「停戦成立が実現しないと日本国の前途は取り返しがつかなくなる」と口走ったとされる。事件の1週間後に右脚切断の大手術をするのだが、その直前に停戦協定の署名役を果たした。朝鮮との絡みで、同国関係者(安重根)の恨みを買って狙撃死したといえば、伊藤博文初代首相のことだが、戦後世代の私にとっては、杖をつき義足で歩く重光の姿を映像や写真で見てきた分だけ、身近に感じる人物である。降伏の署名者としてこれを「不名誉の終着点ではなく、日本再生の出発点だ」と捉え、その心境を「願くは 御国の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んだ人物だと後に知って深い感動をした。岡崎久彦(外務省初代情報調査局長)に『重光・東郷とその時代』なる著作があるが、重光の名を讃えるひとりでありたいと、私も思っている🔹さてもう1人の加瀬俊一については、ミズーリ号上で署名する重光の横で介添役をする写真を眼にすることが出来る。当時42歳前後。それから20年程が経ち慶應大学の日吉キャンパスで彼の謦咳に僕は接した。特別講師としての講演を聴いた。細かいことは忘却の彼方だが、その声の響きと確信に溢れた振る舞いは60年ほどが経った今も記憶に残っている。戦争前後の日本史の生き証人のひとりの話を聴くにしては、随分と気楽だった我が身を恥じいるばかりだ。この人、あの頃から随分長い間にわたり新聞やテレビなどで活躍された。101歳で鬼籍に入られたのだが、その後お会いする機会がないままになったのは残念だ。せめて彼が残した『晩年の美学:「残灯期」の愉しみを語ろう』というインタビュー記など読みたいと、今頃になって思っている◆つい2日前に、中国は「抗日戦争勝利80年」を記念する軍事パレードを北京で行った。これには、ロシアのプーチン大統領、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党総書記が参加。旧ソ連時代を含めて中露朝3カ国のトップが公式の場で一堂に会するのは1959年以来のことだと、大いに話題になった。ひときわ図体が大きい習近平と、気負った風な歩き方の金正恩に比して、プーチンが精彩を欠いたように僕には見えた。ふと、『隠し砦の三悪人』というフレーズだけが不思議にも頭をよぎった。日本がしでかした「戦争」がすべて終わったあの日から3ヶ月足らずで生まれた僕がもう直ぐ傘寿を迎える。この80年間の自分自身と人間の本質の「変わらなさ」に愕然とする一方、凄まじい勢いで進みゆくAI(個人的にはチャットGptで実感)に、「変わりゆく」人類への希望を抱く。(敬称略 2025-9-5)

 

 

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