日本独自の歴史観を持たない悲しさ

米朝の交渉見ていて立ち上がる思いは、トランプ大統領の米国と同盟関係にある身の頼りなさである。思えば、明治維新とセットで語られてきた文明開化とは、西欧文明に日本が目を見開き、遅れた科学技術の振興に懸命になる一方、政治経済における欧米風の制度の導入に躍起となったことを意味する。日清、日露戦争のそれなりの勝利を経て、第二次世界大戦の明々白々たる敗戦で、日本は米国に占領される〝一国滅亡の憂き目〟にあった。これはまたペリー来航から80年越しの日米反目の歴史に決着がついたと見ることも出来る。以来、7年の占領期を経て、日本は〝平和憲法〟下の国家として今日に至っている。これは、国の安全保障は米国任せで、自らは経済発展にのみ取り組むとの“半独立国家”の姿という他ない。自由民主主義に生きる国家として世界で二番目の豊かさを誇って見たところで、その実、真の意味での自立を奪われた哀れな敗戦国家の悲哀を今になお引き摺っているのだ。戦後は真には終わっていず、“日米150年闘争状態”は続く■この間、日本はヨーロッパ近代の思想に絡めとられ、煎じ詰めれば、歴史観も自前のものを持てず、自然観、人間観すら欧米風に染まってしまっていることに気づく必要がある。例えば「人間主義」なるものを取り上げよう。組織偏重ではなく、一人ひとりの生身の人間を大事にしようというような浅い次元で捉えることを言いたいのではない。「人間主義」とは、人間と自然とを支配、被支配の関係において、人間を自然よりも上位におくことを意味する。こうした考え方の起源はヨーロッパ近代の思想に起因し、キリスト教哲学に淵源を持つ。北東アジアに位置し、神道から仏教、儒教を取り込んで、その豊かな思想を形成してきた日本では、人間と自然は本来は対立するものでなく、共生するものとの捉え方が本来のもである。このことを想起すれば、彼我の相違がはっきりしてこよう■また、経済至上主義も科学技術万能主義も人間優先の世界観からくるものであろう。これまで、様々な論者がもっとスローで地に足つけた社会の発展を目指そうと主張してきたが、未だ世に定着してはいない。つい先ごろ、山崎正和氏が読売新聞紙上で、米朝交渉を見据えたうえでの「日本の針路」に関する興味深い論考を発表していた。そこでは、多くの賢明な日本人が、「人口減少や高度高齢化、資源枯渇、環境悪化を憂え、もはや経済成長を諦めて『定常型社会』をめざそうと提案」し、「『慎ましい大国』への転身」を図ろうとしていることに論及。その上で、“経済成長主義”と決別することなど、格差是正という現代最大の課題を解決しない限り、幻想に過ぎぬとの鋭い刃を多くの識者に突きつけていた。同氏は具体的には「国家百年の税制改革」を考えることを提案しているのだが、私にはそれだけではまだ足りないものがあるように思われる。つまり、根底的なものの考え方、捉え方における彼我の差を埋める必要があるのではないか、と■経済成長なきゼロ成長社会とでもいうべき「定常型社会」を求める声は今や定着しつつある。だが、どのようにそこに至るかの道筋は山﨑氏の見立て通り、明確になっていない。しかし、迂遠のように見えても、そこには社会背景としての日本独自の歴史観や自然観、人間観が打ち立てられる必要があると考える。近代ヨーロッパ思想による呪縛からわが身を解き放ち、日本自前の思想哲学の裏付けを持たねばならない。でなければ、その求める豊かさは上滑りし、いかにもがいても結局は欧米の掌の範疇から逃れ出ることは出来ないのではないか。何を書生論めいたことを、と思われるかもしれない。だが、非人道的国家の専制独裁のものにせよ、背後に中国の影があるにしても、独自の歴史観を持つものたちの思い込みを目の当たりにして、我が胸を去来するものは少なくない。米国を相手に瀬戸際外交を展開する北朝鮮の金正恩氏の外交的巧さを思うにつけても、日本の思想的自立への渇望の思いが募ってくることは如何ともしがたい。(2018・6・19)

 

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