「生活保護」をめぐる攻防
政治家の日常的仕事の最大のものは、支持者や地域住民の要望を聞くことー住民(市民)相談である。公明党の所属の議員にとっては、かなりのウエイトを占めるのが生活保護の受給をめぐる問題だということは今も昔も変わらない。かつて自民党のあるベテラン代議士が、当選直後の私に対して、「共産党と公明党の両党議員が生活保護の道筋を積極的につけるものだから、財政が厳しくなる。困ったものだ。公明党のみなさんも、相談を受けても直ぐに頼らせず、自立する生き方の大事さ、自己責任を分からせて欲しいよ」と言われたことが鮮明に記憶に残っている。共産党の専売特許の雰囲気があったこの分野に、後発の公明党が参入して以来、両党が競い合うので、政府・自民党は迷惑すると言いたげだった。
元々究極の生活困窮者の救済の手立てとして、生活保護は位置付けられ、それなりに運営されていた。しかし、高度経済成長の頂点としてのバブル崩壊を経験する前後あたりから、徐々に風当たりが強くなっていく。市民にとって生活保護の対象となり、公的機関から助けを受けることは恥ずかしい、自らの努力で解決すべきだとの考え方の台頭である。生活保護は最後の手段、出来うることなら貰わずに済ませたい。尾花打ち枯らし、ニッチもサッチも行かなくなってから受給するものと、多くの人は思っていた。それがいつ頃からか、生活保護を取り巻く状況が変わってきた。「生活保護を貰っているくせに、派手な生活をしている」とか、「生活が苦しいのはお互い様。それをすぐお上に頼るなんて」などの声に代表されるように、生活保護者が一般の市民から攻撃を受ける対象になってきた。加えて、生活保護を受けて暮らす人を横目に、歯を食いしばって生きながら力尽きてしまい、将来への不安から自殺の道を選ぶ人が後を絶たないという現状も取り沙汰されてきている。つまり、本当に生活保護を必要とする人は誰か。何が障害になっているのかとの疑問が起きてくるのだが、明確な答えが出されぬまま、自公政権下で、生活保護費の切り下げだけが着実に進んできているのだ。
本当の弱者とは誰なのか
かねて、社会的弱者を救済する党という言いぶりで、公明党は福祉の分野での第一人者、第一党の名を欲しいままにしてきた。確かに、大衆福祉という言葉を政治のど真ん中に押し上げ、多彩な政策を縦横無尽に展開してきた。いかにバラマキ福祉と詰られ非難されようとも、「地域振興券構想」などそれなりの手応えはあった。だが、民主党政権3年から安倍政権が7年続いている今、果たして十全たる対応がなされていると言えるのか。
実は、かの55年年体制下でも、自民党は当時の野党・社会党や公明党の提起する弱者救済の具体的方向を事前にキャッチし、それを先取りしてきた歴史がそれなりにある。2000年以降、公明党の連立与党化に伴って、政権の政策決定過程に組み入れられ、よりスムーズに福祉政策が陽の目を見てきた。その動きは、民主党に政権の座を奪われて以降の3年間がピークとなった。政権交代劇のもと、現与党と前与党の間で、福祉政策を互いに競い合うという側面が際だったのである。どちらが先に手を染めたか、との政党間の実績争いは時に激しくぶつかり合う。尤も、勝負は渾然一体化し見極めがつけ難いというのが偽らざるところだ。
例えば、2017年の衆議院選挙で、幼稚園、保育所を無償化するためや、大学や高校の授業料の軽減に消費税を使うとの主張を自公政権が掲げた際に、当時の民進党が政策のパクリだと指弾したことを思い出す。与野党が真剣に有権者の生活の安心・安全に意を注げば、自ずと道は重なり合おうというものだろう。どっちが先に言いだしたか、どっちが体系だった主張かというのは聞き苦しい。もはや、生活の保障に向けての政党間の争点は殆ど区別がつかなくなってきている。
かつて私自身、本当の弱者とそうでもない弱者を区別し、線引きすべきだとの主張をした記憶がある。その当時は、それが可能だと思い込んでいた。が、よく考えれば、それは至難の業に違いない。膨大な予算の投入を講じないと難しい。有り体にいえば、弱者の位置付けを茫漠と曖昧にしたままで、実際に必要としているところには救済の手が届いていなかった。それなのに見て見ぬ振りをしたのではなかったかとの苦い思いが蘇る。
既成政党の枠組み超える動きが急浮上
既成の政党(公明党も今や立派な既成政党だ)が、福祉政策を巡ってツノ突き合わせている現状の間隙を縫って、「れいわ新選組」なる新しい勢力が不気味な動きを見せている。昨年夏の参議院選挙で、身体に障がいを持つ人たちを候補に立て、当選させた。これは大衆の声が十分に届いていないと見る国会に向けて、機能していない代議制への根源的な挑戦だと思われる。山本太郎氏の特異なパフォーマンスに過ぎぬと切り捨てていると、意外なしっぺ返しを受けかねない。安倍自民党が、伝統的な政治家の犯罪に加えて、「桜を見る会」や「統合型リゾートIR」などの汚職事件を繰り返しながらも、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。その状況に対して効果的な攻撃を加えられない既成野党のだらしなさに大衆はうんざりしている。そこに、付け入ってくる可能性は高い。
山本氏は、野党に対して「消費税5%切り下げ」による共闘を呼びかけ、叶わぬなら「消費税ゼロ」を、と訴える構えだ。消費税でなく、大企業の法人税や大金持ちの所得税から代わりにとればいい、との議論である。これはもう既に言い古された論法の蒸し返しだ。その実現のためにはかなりの高税率が求められよう。しかし、今や経済・社会の時代状況が一段と厳しくなっているだけに、人々の胸に深く入り込んでくる可能性なしとしない。消費税をどれくらいあげるか、それともあげないかとの議論が次の衆議院選挙の争点にまたぞろなりそうだ。その際に、改めて財政論の根本にまで立ち至って「税と社会保障のあり方」を問い直す議論がなされるべきではないか。経済成長が半永久的に期待できず、「日本はもはや先進国ではない」との指摘も、特段耳新しくは聞こえない様相を呈してきている。今までの延長線上ではなく、後進国となった日本の福祉をどうするか。既成の与党目線ではなく、新たな大衆目線で公明党は福祉に再挑戦、再起動すべきでないのか。政権の主体者が遠い昔の成功体験に酔ったままではならない。旧態依然とした福祉論では、新型コロナ禍で大きく動揺する社会、経済状況に太刀打ち出来ない。格差はさらに拡大し、真の弱者は置き去りにされたままの事態が続くほかないと、懸念される。(この項終わり)