大激戦の末に兵庫は勝った。いや勝たせて貰った。一方で埼玉、神奈川、愛知の三選挙区が涙を呑んだからだ。全選挙区が勝って喜び合いたかったとの思いが日々募る。以下、兵庫選挙区の喜びを抑えて、全国的観点からあえて異形の私的感想を述べてみたい。
⚫︎選挙区の厳しさへの変化に臨機応変さが必要
公明党的に今回の選挙で最大の激戦区とされたのは、高橋光男の兵庫選挙区であった。機関紙上で連日、異常と言わざるを得ないほど危機が叫ばれた。機関紙の宿命として全候補平等とはいかず、自ずから差をつけなくてはならない。7人の候補のうち、一頭抜いて兵庫に力が入っていたと見えた。その理由はひとえに定数が兵庫が3(他に福岡選挙区も)で、他は4(他に大阪も)であることが挙げられよう。しかし、ここに選挙戦略的に見て無視し得ないミスが潜む。
選挙報道の枠組みの強弱が「定数の差」という一点に縛られることの危うさである。兵庫は泉房穂が無所属で出馬すると決めた段階から超有力視され、選挙戦に入るとダントツに票を集めるに違いないと見られてきた。過去3回にわたって自公維三党が独占してきた経緯が兵庫にはあるものの、「泉参戦」でその構図が崩れ、現職が弾き飛ばされることは必至と見られてきた。だが同時に、「泉暴風」は投票ラインの低下を招く。低い得票数でも当選可能との「異形予想図」が浮上してきていたのである。
それを想定して臨機応変に対応する必要が党中央にはあった。選挙区の事情変化に支援の強弱を振り分けずして、何のための選対本部か。一旦決めたら、方針は変えてはならぬのか。戦略の有り様を云々する資格は当方にはない。だが、選挙期間中の報道如何は支援者の心理を大きく揺り動かす。難事中の難事に口挟む非礼を知りながら、敢えて苦情を提起したくなる。
先の都議選でも超激戦区よりも、その周辺区が憂き目を見た。今回も同様に見える。公明党の選挙報道の陥穽ではないのか。パターン化しているなどとは言わない。だが、かえすがえすも惜しまれる。
⚫︎候補者の実績、存在感を取り巻く広報のバランス
兵庫選挙区は蓋を開けると、案の定というべきか、泉が80万票を越える票を掻っ攫い、2位の高橋以下とは50万票もの差がついた。高橋の票は恐るべきことに20万票ほども前回までより激減した。そんな折に、多くの友人から「兵庫は凄いですね、おめでとうございます」と言われても、素直に喜べない。泉の大量票獲得のおかげで、当選ラインが大幅に下がったゆえの当選なのだ。
高橋の幸運さはそれだけではない。「令和の米騒動」も、県知事選に絡む「維新の失態」も、大いに味方した。前農水政務官としての立場を如何なく発揮した。備蓄米を放出するお膳立てを党をあげてやって貰った。石破首相や小泉農水相に対し、わざわざ高橋光男「必勝シフト」を敷いて貰う発言を他幹部が迫ったほどだった。これは何も高橋の僥倖を羨んでいるのではない。激戦区候補であるが故の手立てが度を越していたのではないのか。つまり他地域の候補とのバランスを欠くほどのものだったとの気がするということなのだ。
選挙戦は候補者の実績を軸にした存在感というものがとても大事である。かねて高橋に僕らは、ひとりででも50万票を得るぞとの心意気で挑むことの大切さを問いかけた。組織支援に甘えるなと、訴え続けた。彼はそれらをしっかりと踏まえ、「百万人たりとも我行かん」との心意気で、呼応してくれた。
また政府自民党の積年のコメ行政の悪弊に囚われることへの危惧を周囲は感じた。与党であるがゆえの「お側用人化」を恐れたのだ。もっと厳しく政府をチェックせよとの辛口アドバイスも複数の議員OB仲間と共にやった。これらに彼は敢然と応えた。謙虚さと執念を持って乗り切ってくれたのだ。
これらを通じて、惜敗を喫した議員たちの存在感の薄さが気になる。これは遠く離れた地域の議員への勝手な見立てだ。だが、3地域の落選候補者の訴え、アピールは、高橋の浴びた脚光よりも弱かったように思える。他方、福岡選挙区の下野六太の教育問題における強烈な存在感も印象深い。こういった観点からも激戦区対応にバランスを欠いていたことを指摘せざるをえない。以上あえて偏見を承知で、思いにままに心情を吐露した。(敬称略 つづく 2025-7-22)