【56】現代の義士とは何か━━「赤穂義士祭」を前に考えたこと/12-15

 

 現代日本における「義士」とは一体なんだろうか?小春日和に恵まれた12月14日。恒例の「赤穂義士祭」に僕は観客として参加して、あれこれと考えた。これには、ひとつの「きっかけ」と「伏線」とでもいうようなものがあった。やがて、すぐ身近に現代の義士というべき存在がいたことに気付いた。

⚫︎「松村義士男」という引き揚げの神様

 「義士」を改めて考えるきっかけは、12月8日にNHKBSテレビで放映された『昭和の選択━━引き揚げの神様と呼ばれた男』を観たことだった。驚いた。こんな人物がいたとは知らなかった。その名もズバリ、「松村義士男」(1911-1967)という。先の大戦が1945年8月15日に一応の幕を閉じた後のこと。満洲を始めアジア全域に進出していた民間人たちの引き揚げのドタバタ劇が始まった。戦闘が終わったとはいえ、日常は変わらない。震災後の余震が続くように、絶え間ない悲劇の予兆が人々を駆り立てた。

 朝鮮半島38度線の北から南へと脱出せねば、生命が危ういかもしれない、と。無秩序、無政府状態の中で、知恵の限りを尽くして、艱難辛苦を乗り越えて数万人ともいう人々の引き揚げを実現させたのは、左翼運動家・松村義士男(日本窒素興南工場勤務)によるところが大きい。奇跡の連続だった。歴史学者・磯田道史の司会で、元外交官の藪中三十二と駒沢大教授の加藤聖文が口を揃え、この人物を抜群の交渉能力、企画力を持つと、褒めちぎっていたが、僕は初めて聞く史実に圧倒されるばかりだった。

 「神様」と呼ばれるに至った経緯については、城内康伸の『奪還』に詳しい。義士と聞くと、「義を見てせざるは勇なきなり」との論語の一節が思い浮かぶ。目の前に苦悩に沈む人を見て救済に立ち上がる人こそ義士に相応しい。隠された昭和史の一面を見せつけられて考えるきっかけとなった。

 ⚫︎「大石内蔵助」という赤穂義士の神様

 さて、「赤穂義士」である。戦国の世が徳川三代の手によって収まる機縁となった関ヶ原の戦いからほぼ百年。元禄14(1701年)の江戸城・松の廊下で起こった、浅野内匠頭による吉良上野介への刃傷沙汰は、些細な事の発端とは裏腹に歴史に衝撃を与え、「時代の空気」を揺さぶる。大石内蔵助以下47士の動きは「忠臣蔵」の一大ドラマを作っていった。大石は当初、浅野家復興と吉良家処分を狙ったが、共に叶わず、やがて決死の討ち入りへの準備の1年半にと変化して行く。この過程の中で、浪士が義士へと変化して、やがて内蔵助は神社に奉られる「神様」になった。

 この歴史をどう見るか。僕が赤穂にまつわる出来事を考える際の伏線を形成してきたのが福澤諭吉の主張である。赤穂事件から150年ほどのちに、近代日本の幕開けに際して、冷静極まる眼差しで時代の行く末に光をあて、成り行きを解説し、大衆の生き方にアドバイスをし続けたのが福澤諭吉だった。その福澤は赤穂義士をめぐる世間の捉え方に異論を唱えた。

 それは一言で言うと、主君の仇討ちという価値観は近代化の流れのそぐわないということである。「明治維新」という日本史の一大転換期に、『学問のすすめ』で大衆の蒙を開き、『文明論之概略』で支配層を刮目させた福澤は、個別の事象に種々の問題提起を投げかけたのだった。この異論もそれなりの位置を占めるものの、忠臣蔵の人気の前に、徒花であることは如何ともし難く、混戦状態が続く。

⚫︎病苦に悩む人に坑道ラドン浴という救済のメス

 「松村義士男」をきっかけに、「赤穂義士」にまつわる時代を超えた賛否両論を伏線にした僕の考えは、どう収束していったか。言い換えると、300有余年前の「赤穂義士」と、80年前の「松村義士男」から、何を学ぶかに落ち着く。義士祭の大名行列や、動くトラックの上にしつらえられた、討ち入りから切腹にいたる名場面が動かぬ姿で展示されていた(写真左)。これを見ながら、考え続けた。今に生きる僕らが必要とする「義士」は、どこにいるのか、と。

 こう思ってると、灯台下暗し━━その具体的人物は、僕のそばに厳然といた。近きが故に見逃していた。45年ほど前に知り合って以来昵懇にしている亀井義明がまさにその人だ。彼は生まれも育ちも赤穂の人間だが、15年ほど前から、姫路市北部の安富町富栖の里にある旧金山跡地に、坑道ラドン浴施設を作ろうと着眼した。いらい一意専心努力し続けてきている。60歳を越えて数年後、一企業家としての身から、少量の放射線が健康にいい影響を与え得ること気づき、岡山大や熊本大などの専門分野の学者に次々とアタックし、連携を強めつつ遂に日本で唯一の施設を作り上げた。

 この施設を利用することで健康増進を果たせたとの体験を持つ人たちは数多い。このたび、映画『ラドンの奇跡』を制作し、県下各地で上映、明年は全国へと広げていく構えだ。様々な原因不明の病に対して、西洋医学に限界を感じる向きは多い。私財を投げ打って取り組もうとする彼の熱意に賛同する声は引きも切らない。この間、彼の献身的な振る舞いを見続けてきた僕としてはただ頭が下がる思いだ。

 彼には紛れもなく赤穂義士から出発して、大義に生きる精神が宿っていったに違いない。過去の歴史から学ぶことにも増して、日本今に生きる人々の中に義士を見出すことはもっと重要であると、僕は考えるに至った。身近に有意義な存在を発見し得て、満足度は高い。(敬称略 2025-12-15)

 

 

 

 

 

 

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