それはまさに突然の悲しい知らせだった。さる11月13日、前の兵庫県知事・貝原俊民さんは、自動車の後部座席に乗っていて、横合いから突っ込んできたクルマに頭を強打し、亡くなった。同氏は、平成2年11月から10年8か月ほど兵庫県知事を務められた。その死を悼み、功績を称える県民葬が24日に行われ、生前に何かと交流のあったものとして私も参列させていただいた。佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団による「G線上のアリア」の献奏で始まり、途中、ご親族やその友人たちによるショパンの「別れの曲」ヴァイオリン献奏を挟んで、再び管弦楽団の「ダニー・ボーイ」の献奏で終わるという、美しい音の調べに満ち溢れた格調高い素晴らしい葬儀だった▼貝原さんを語るとき、忘れられないのは平成7年1月17日の阪神淡路大震災だ。就任されて4年余り、二期目に入られたばかりのことだった。以後、それこそ亡くなられる時まで、震災後への対応から「創造的復興」へと全身全霊を捧げられた。「災害文化」の発信において他の追随を許さない兵庫県を作りあげられた。震災直後の知事の立ち上がりが若干遅かったのではないか、とのある種”誹謗中傷”に近いような個人攻撃もあったが、その後の立ち居振る舞いはそうした論難を吹き飛ばして余りあるものだったと私には思われる▼今の知事である井戸敏三氏が私とは同い年の昭和20年生まれで、親しい友として何でも話せる仲だが、貝原さんは若干近寄りがたいものがあった。12歳、一回り上ながら父親のような厳しく煙たい存在であったのは、恐らく井戸知事も私も同様だったのではないかと思われる。しかし、それも知事を任期を一年ほど残して退任されてからはがらっと違った印象を受けた。介護を必要とされるようになった奥さんのために、その職を辞されたことを知って、大いに人間臭さを感じたものである。余力を残して第一線を退き、後方からの支援活動をすることも政治家の一生にとって極めて大事だとの教えを頂いたような気がしている▼それにしても彼の死が自動車事故死というのはなんとも痛ましい。かつて私は、兵庫県ではなぜ全国的にも稀な悲惨な事件が多いのかと悩み考えたことがある。児童の首切り事件や、死体をばらばらにして袋に入れ川に流すとか、高速道路上で死体を遺棄するなど、救いようのない事件が続出している。最近でも尼崎の家族内の連続殺人などが思い浮かぶ。阪神淡路大震災以降、ひとの心が荒んでいるからではないのか、と思うこともある。井戸知事は、兵庫県は日本の縮図だからだというのだが。知事経験者が交通事故にあうということも、県民に事故への警鐘を乱打しているように思えてならない。81歳の尊い生涯を無駄にしないためにも、災害からの安心・安全を訴え切った貝原氏の志を受け継いで生きたい。(2014・12・25)
民衆のなかに育った党だけが持つ文化
大川清幸さんが亡くなった。公明党の元参議院議員であり、元都議会議員の重鎮だった。晩年は公明党の全国のOB議員団組織・大光会の中心者の一人だった。私も個人的にお世話になった。草創期の公明党にあって功績を残しながらも、その後の人生で様々な欲望に捕らわれて倒れていく先輩たちが少なくないなかで、常に変わらぬ熱い思いを持ち続け、戦い切られたひとだったと思う。公明党の50年を見守り、35議席を勝ち取る戦いを見据えて、その直後になくなるなんて、流石だと妙な関心をするのは私だけではあるまい。享年89歳だった。まだまだ後輩たちに範を示して頂きたかったと惜しまれる▼先日、兵庫県南あわじ市に住むある先輩OB議員が高齢者叙勲を国から貰うかどうか悩んでいるとの話を聞き、大光会仲間と3人でお宅を訪問した。日本の叙勲制度は複雑多岐にわたっているが、春秋の叙勲を授与される機会がなかった功労者に対して、年齢が88歳に達した際に授与されるものを高齢者叙勲という。公明党はこうした叙勲についてはすべて辞退をすることにしている。民衆の中から選ばれ、手弁当で熱き思いを持った人びとに当選させて貰って、その中で生き抜きそして死んでいくものにとって、国家による勲章は必要がないというのがその精神である。私はこれこそ公明党が天下に誇るべき文化だと思う。そんな話をその先輩議員にお話ししたところ、改めてその趣旨を理解いただき、こころよく辞退されることを決意された▼そのやり取りのなかで、私はある提案をすることを思いついた。国家による勲章ではなくて、我々仲間たちが先輩の88歳・米寿を祝うささやかでも心の籠った場をもってはどうか、というものだ。私が代表を務める兵庫県の大光会には200人近い先輩OB議員がいるが、そのうち88歳をすでに超えたり、近くその年齢に達するひとたちが20人ほどおられる。このひとたちは若き日に懸命の戦いをして地域に貢献されてこられた方々だ。今なおかくしゃくとしているひとは少しづつ少なくなってきている。その方たちに後輩としてお祝いの気持ちをあらわし、励まして差し上げたいと思う▼国家からの叙勲を授かるということは名誉だとの思いは、そう不自然ではない。とりわけ天皇への畏敬の念を持つ思いが強い年配の世代にとってはなおさらだ。しかし、それをご遠慮する、そこまでお気遣いをいただかなくとも結構ですというのも、また不自然ではないと思う。公明党の持つ他の党にない独自の文化は他にもある。例えば、勝手に個人的な海外旅行には行かない、どうしても必要な時には許可を求めるということもある。また、株式投資についてもすべきではないとの不文律もある。ともに、民衆のなかで戦うものにとって、普通のひとたちとの間に意識のかい離を生みださないように、との考えからだろうと思われる。窮屈ではないか、それでは自由がなさすぎないかとの批判もあろう。しかし、これも民衆の党としての文化、伝統なのだ。(2014・12・20)
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さあ、自民党との合意形成という戦いが始まる
総選挙が終わって三日が経つ。新聞やテレビなどの一般メディアによる第一報的総括も出尽くしたものと思われる。今後は週刊紙誌や月刊誌が後追いすることだろう。細かい数字的な分析は公明新聞など正規な媒体に譲り、ここは独自の視点を提供してみたい。あくまでこれから日本の政治を公明党はどうしたいのか、どうするのかということが私たちの最大の関心事だが、その初っ端としてのとらえ方を確認しておきたいのだ▼ある評論家が、今回は”逆桶狭間の戦い”だとして、大きい与党が小さい野党に奇襲攻撃をかけたものだと言っていたが、小さい与党にとっても厳しい戦いであった。同じ与党だといっても、巨大な自民党との狭間で埋没するわけにはいかず、中道・公明党は保守・自民党と、同一政権のなかで、不断に戦うことが宿命づけられている。常に自民党とはどこが違い、庶民目線から遠いものについては、それをどう正すかの視点が求められているからだ▼選挙戦中に聞いた演説で、きわめて印象的だったのが、兵庫2区の赤羽かずよし候補が「与野党の対立軸が政策的には見えにくいというが、政党政治家の態度という面でいうと、あまりにも明確に違う」と言っていたことだ。彼は、福島の原発現地対策本部長を2年間にわたって懸命に取り組み、大変な評価を得たが、なんと民主党政権時代にはそのポジションに10人を超える人間が入れ代わり立ち替わり就いたという。酷いのにいたってはついに現地に足を運ばない現地対策本部長もいたというのだ。ここまでとは私も知らなかった。赤羽氏は、「震災復興に真面目に立ち向かう与党か不真面目でいい加減な民主党など野党か」の対立軸があったというのである。いい加減な民主党政権時代の実態に改めて怒りを覚えた。これは一例だが、民主党には野党第一党としての資格がないということに尽きる▼今回の選挙の結果、公明党はなぜ与党に加わっているのか、これだけ巨大な自民党なのだから、もう連立せずともいいのではないかと問う人もいよう。しかし、参議院では与野党の伯仲状況が続いている。質の面だけではなく、量の面でも公明党の存在は欠かせないのである。私は、公明党がいるから、だらしない野党であっても、自民党政治の暴走にブレーキをかけ、悪いところはチェックすることが出来ると確信している。しかし、本来の民主政治にあっては、健全な二大政党、政治勢力がある程度交互に政権を担うことが望ましいとされる。いわゆる政権交代可能な政治システムを確立させようという観点から、今の選挙制度も導入されたはずだ。しかし、当面は今の民主党、維新の党、共産党などの野党に、もう一つの大きな勢力を作れといっても無理だという他ない。「早く生い立て民主党」などと寝ぼけたことを言っても(私自身がかつて言っていた)追いつかないのだ。国の内外で待ったなしの政治課題が山積しているのに、「自前で再建か他野党との再編か」で、これからゴタゴタが続くのだ。ならば、公明党がその代替役をするしかないといえよう▼戦後日本の政治の歴史は、自社両党の不毛の対立(表でぶつかり裏で取引するというもの)の残影が根強い。しかし、与野党の間で、対立するばかりで何も生みださないということでは国民があまりにも不幸だ。裏では壮絶な議論の戦いを経てしっかりとした合意を形成し、表ではそれを粛々と実行するという姿が望ましい。これこそ自公の政治である。来年の5月ごろには集団的自衛権にまつわる閣議決定の法制化の作業が始まる。ここでは、公明党が憲法9条の枠内で出来ることに限定した法整備を進めうるかどうかが最大の焦点なる。集団的自衛権の全面容認への未練を持ち、9条の枠を壊したい自民党との戦いが待っている。また、憲法改正も早晩日程に上がってこよう。9条の改悪などではなく、あくまで、環境権など多くの国民や与野党の合意を得やすいテーマを加えていく加憲を実施することから着手する必要性がある。これも大変な戦いを強いられる。自民党内に反対論が根強い消費税の「軽減税率」導入も実現するはずと思いこむのは危険だ。空理空論を弄んだり、反対だけが実績の既成野党には、巨大与党の自民党との間に意味ある議論を集中させることが出来るだろうか。かっこよく大言壮語は出来ても、合意を形成することなど到底期待できそうにないのである。(2014・12・17)
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“野党いらず”なのは公明党のせいかも
今回の選挙戦のさなかにある自民党の幹部が公明党候補の応援に来てくれた。その際に短い時間だったが色々と意見交換をし、それなりに面白かった。一つは野党第一党の民主党をどう見るかということ。二つは公明党の役割をどう考えるかということ。三つは安倍首相をどうとらえるかということであった。その人(仮にX氏としておく)は自民党が単独で300議席を獲るのは必至だとの報道ぶりを否定せず、むしろ負けるところを探すのが難しいとまで自信を漲らせていながら、選挙後の政治の展望に首をかしげていたのは印象に残った▼民主党はひょっとすると、今度の選挙で大敗し、なくなるのではないかというのがX氏の見立てだった。私はかねてから、「早く生い立て民主党」と叱咤してきたことを披瀝し、二大政党が並び立たないと日本の政治が危ういと思うとの考えをぶつけた。X氏は公明党がむしろ与党内で野党の位置をしめているがゆえに、民主党以下の野党の出番がなくなっているということを指摘していた。とりわけ「集団的自衛権」論議は、実に鮮やかであったと言っていた。石破茂氏が自公の合意に不満を抱き、国会答弁で首相との不一致が露呈することを避けたいという理由で、安保担当相を固辞したことがなによりもそのあたりの事情を裏書きしている、と。つまり、民主党以下の”野党いらず”の事態を公明党の頑張りが生み出しているということだ▼すなわち公明党が与党の中にあって十二分に野党の役割を果たしているというわけである。消費税でも「軽減税率導入」を主張する戦略は見事で、あたかも増税ならぬ減税を訴えているかのごとくに見えて大いに有権者・庶民の錯覚を引き起こしているとまで苦笑いしながら言っていた。ただ、自民、公明の連立政治が未来永劫続くことはあり得ないというよりも、あってはならない(政権交代可能な仕組みが民主主義の必然)だけに、長期的展望をどうするのかという贅沢な悩みでお互いに一致したのは皮肉な限りだといえよう▼安倍首相は「集団的自衛権」や「秘密保護法制」などで、公明党の主張を巧みに取り入れながらも、強いナショナリスト的側面を隠そうとしない。このことについて危惧を抱く人は自民党にも勿論公明党にも多い。首相レース対抗馬の第一人者である石破地方再生担当相は、かつて新進党結成に自民党を出て参加した弱みを持っているうえ、先に述べた「集団的自衛権」問題で見せたような専門家特有の頑なさ(石破氏は自公合意に本心は反対)から、しばしば抜け出しえないところがある。つまり、今もこれからも日本の政治リーダーは、”帯に短し、たすきに長し”的状況は否定しえないというわけである。自民300対公明30では彼我の対比は10%だ。これをせめて20%ぐらいにまで引き上げたいものなのだが。(2014・12・12)
今の日本の政治状況において、与野党の対立軸の見えないことは、公明党がむしろ与党の中にあって自民党政治に異議を唱えているからであるとの認識で一致したことだった。左右の対立というものがともすれば理想論同士の不毛の対決に終わるのに比して、中道政治が現実的な道筋を提起することによってより適切な合意を得ることが多いと考える▼二つは自民党のなかで安倍政治に対抗する動きが見えにくいことだ。
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お風呂も景気もエアコンも上から熱くなる
公示から一週間が経とうとしている。連日友人,知人に電話をしたり、自宅や会社を訪ねたりして、選挙戦をめぐる対話を重ねている。この道50年の超ベテランになってしまったが、いつもながら選挙は楽しい。大げさに言うと、人間と対話をする醍醐味を味わえるからだ。ま、懐かしい人に会える喜びと言ったほうが早いか。勿論、嫌な思いをしたり寂しい気持ちになることもままあるが、それは仕方がない。この世界いろんな人がいると思うしかない▼この50年間にした経験で驚いたものを幾つかあげてみる。候補者時代。戸別訪問をしている最中に、ある家で、「あなたここから先、入ってくると選挙違反で訴えるわよ」と言われたことがある。しばらくもみあったが、すぐに辞した。重大な勘違いをされたのか、それとも単なる候補者撃退法を駆使されたのかは未だに分からない。また、後援者から握手を拒否されたときは少々傷ついた。曰く「私はいかなる人でも男性とは握手しない」と。かなりの潔癖症な方とお見受けした▼つい先日のこと。友人がそのまた友人を私に紹介しようとしてある事務所に連れて行ってくれた。アポイントを取っていなかった弱みがこちらにはあったが、その相手の対応は酷かった。「なんの用事。で、どなた」「いや、元衆議院議員を紹介しようと思って」「今何しているひと?」「いや、ま、特に。元議員だから」「それがどうしたの。今忙しいの」ー唖然とした。私への仕打ちよりも、紹介してくれた友が気の毒になって仕方がなかった▼これまでの選挙戦では議論になるよりも、ニコニコポンが多かったが、今回は一味違う。アベノミクスなる景気・経済政策の是非が真っ向から問われているからだ。庶民の生活実感がまだまだデフレ脱却からはほど遠く、加えて物価高の様相で貧富の差が拡大していることは否めない。それがアベノミクスの失敗なのか、未だ途上であるがゆえの事態なのかを見極めることが最大の争点だ。私は明らかに後者だと確信する。お風呂でも景気でも、そしてエアコンも通常は、まず上から熱くなるのが道理だ。全体に恩恵が行きわたるにはまずは富裕層や大企業から出発するのはやむを得ない。これから最前線に景気上昇のうまみが行き渡る。今少しの辛抱だろう。それが叶わなかったら、今の政権は潔く敗北を認めるしかない。この辺りを懸命に訴えていきたい。(2014・12・7)
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税理士会の猛反対は覚悟の上の「軽減税率」導入
衆議院総選挙が今日公示された。公明党が初めて衆議院選挙に挑戦したのが昭和41年12月27日投票のとき。いらい、今回で17回目になる。私が公明党員になったのが前年の3月で、党が創立された翌年のことであった。東京都議会の黒い霧解散で、初のリコール選挙であった。続く衆議院選挙も黒い霧解散といわれ、第一次佐藤内閣のもとでの選挙であった。ほぼ50年の間に実に様々な選挙戦を戦ってきた。まったく普通の有権者として選挙に臨んだのはこの一回目だけで、二回目からは公明新聞記者として報道に携わり、9回目の平成2年1月の選挙からは自身が候補者として臨んだ▼いらい7回選挙をやり、前回からは再び一有権者、一OB議員としての選挙戦をしている。こうした経験を通じて選挙のあり方について思うことは、候補者の有権者との接触の少なさについてである。かつては選挙人の立会演説会があった。候補者の政見を見聞きし、それぞれを比べる機会があったのだ。狙いとは裏腹に対立候補の演説への露骨な妨害などが目に余り、やがて廃止の憂き目をみることになった。思えばこうした機会の解消と国会での演説力の低下とは無縁ではないような気がする。選挙期間も順次短くなり、候補者自身との接触は少なくなる一方だ▼公示の前日、私はかねて懇意の税理士事務所(姫路市内)を訪ねた。以前に紹介をしていただいた娘さんの嫁ぎ先(神戸市北区)に選挙支援の依頼にいった際の報告をするためである。挨拶も終わらぬうちに、「軽減税率はいかん。あんな面倒極まりない計算を必要とするものを導入するのは断固反対だ」と厳しいお言葉をいただいた。税理士の立場からすればそうだろう。この春先に5%から8%へと上がって大変な混乱を余儀なくされたのに、そのうえさらに次の10%への引き上げの際に、複数税率になると、食料品の定義自体から始まって難題山積みだ、と。公明党が余計な注文をつけるから安倍首相も前向きに検討するといっている。これでは先行きが思いやられ、前途真っ暗であるとも▼そうした反対の声は税理士だけではなく、中小零細事業者からもその計算の煩雑さを盾に上がっている。しかし、消費者の側からすればなんとか食料品など生活必需品には軽減税率を当ててほしいとの声は切実なものがある。ここは八方美人的対応は許されない。税理士さんには頭をひねっていただき、難しく煩雑な計算に耐えうる作法を編み出していただくしかない。先に、公明党もすでにそうした類似の税制度を導入している外国の実態を視察,調査するなどしてきており、これからも鋭意研究する姿勢だ。庶民の生活を守るためには、税理士会の猛反対は覚悟の上のことである。(2014・12・2)
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与野党の対立軸ではなく、与党内の違いに目を
衆議院解散から一週間。週明けにははや公示を迎える。この間私もあちこちと奔走せざるを得ず、なかなかキーボードに向かう暇もなかった。ようやく週末の間隙を縫って今回の総選挙の意義やら、日本の政治の課題めいたものを考えてみたい。安倍首相の狙いは,道半ばのアベノミクスをなんとか立て直し、本格的な軌道に乗せたいというところにある。このままではじり貧になり、デフレからの脱却はおろか経済は再び暗闇に迷い込む。それを逆手に取り前進させるには、衆議院解散という劇薬しかないとの判断と見られる。消費税の先送りは要するにきっかけに過ぎない。何よりも選挙態勢がとれていない野党を叩くには今が最適というわけだ▼確かに野党各党は惨憺たるありさまだ。全部で7党あるようだが、その名前をすべて正確に言える人はよほどの事情通か暇人としかいいようがない。それよりもその実態だ。およそ政権政党に対する対立軸を提示するに至っていない。これで選挙をして国民有権者に選択を迫ると言うのは到底無理があるというものだ。この50年の間というもの現実政治に関わり、その都度”日本の今”に向き合ってきた身としては、きわめて嘆かわしい。だが、「与野党の対立」という視点にこだわり過ぎなくてもいいのではないかと思わないでもない▼今の政治の本質は与野党の不毛の対立ではなく、「与党内の対立」にこそ実質的な重みがあるのではないか。前回にも述べたように、集団的自衛権問題で言えば、全面容認か全面否認かは全く意味がないと言える。「日米同盟の絆」という現実の中にあって、後者を選択することは非現実的以外何ものでもない。そこは自ずと限定的容認ー憲法9条の範囲内でできることをやるという公明党主導の道が開けてこよう。消費税でも、ただ上げる、いやあげないどころか撤廃だというのは無責任のそしりを免れない。公明党の軽減税率の有効性が格段に光ってこよう。原発も近い将来の原発ゼロを目指し、新エネルギー開発に力を注ぎつつ、漸次その依存率を減らしていくというのが王道ではないのか▼こうみると、与野党の対立というのは、かつての自社対立と変わり映えがしないのであって、より大事な対立は自民党と公明党の間の主張にあるといえないか。そこを与党内の対立だからと軽く考えないで、現実的な対立にこそ重要なポイントがあるとみるべきではないか。メディアの政治を見つめるまなざしに乗せられてはならない。公明党と自民党の違いの中にこそ、あるいは公明党と野党の主張の違いにこそ大事な問題が提示されていると見なければならない。所詮、政治は「黒か白か」とか、「賛成か反対か」という思考方法にだけとらわれ過ぎてはいけない、と言いたい。(2014・11・29)
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公明党50年の佳節に「中道」待望論
衆議院解散を今日正式に安倍首相が記者会見で発表する。いやはやなかなか大胆だ。通常の感覚では考えられないが、あの麻生首相での解散先送りによる大惨敗がトラウマになっているのだろうし、首相としては自分の手で一度は解散権を行使したいに違いない。彼は前回には病気途中退場だっただけに猶更のはず。ところで、この解散は公明党にとってどういう意味を持つか、50周年の佳節に期せずしてぶつかったことの背景を考えてみたい▼公明党が衆議院に進出したのは昭和41年12月の黒い霧解散と呼ばれる佐藤首相のとき。あれから今日まで計16回の解散がなされており、今回は17回目。そのうち、与党として解散に立ち会ったのは過去4回。森,小泉(第一次,第二次の二回)、麻生と続いた(前回は野田民主党のもとで野党としての総選挙だった)。この4回はいずれも自民党の主導で公明党は巻き込まれたというか、かなり受け身の総選挙だった。しかし、今回はかなり違う。勿論、安倍の主導は当然のことだが、政権運営への公明党の関わり方がかなり主体的で、政治課題への取り組みの独自性が際立つ。ここは、大いに公明党らしさを強調できる大チャンスだ▼先日、元防衛大学校の教授で保守の論客・佐瀬昌盛氏が読売新聞紙上で面白いことを言っていた。「冷戦が終わりマルクス主義の権威は地に落ちたが、相変わらず白黒二分法の考えで、中道嫌いは今も続いている。中道とは足して二で割った考えではなく、それ自体の独立した価値がある。言い換えれば、人間性の洞察に基づく健全な常識のことだ。21世紀にこそ中道が根付いてほしい」(11・7付け 「冷戦終結25年」)と。これには文字通り我が意を得たりとの感が強い▼佐瀬さんは知る人ぞ知る「集団的自衛権」問題の権威で、日本の防衛問題の代表のひとりである。この人が中道の重要性を強調することに大いなる意義を感じる。結党いらい中道の旗を掲げ続けてきた公明党こそ21世紀の政党として本格的な出番だ。具体的な中道政治の現れ方は、「集団的自衛権」では「限定容認」だったし、「消費税」では「軽減税率の導入」であり、「原子力発電」では、「段階的撤廃」だ。こうした自民党とは明らかに一線を画し、健全な常識に基づく政治決断,政策選択こそ公明党の真骨頂と弁えて、大いに選挙戦に乗り出していきたい。(2014・11・18)
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衆院解散を最も早く予測したのは「読売」ではない
衆議院解散の空気が濃く漂っている。一昨日12日のテレビ朝日「報道ステーション」を観ていると、キャスターの古舘伊知郎氏が冒頭に喋った言葉が印象に残った。机の上にその日の全国紙6紙を並べたうえで、今日はこのように各紙とも、衆議院解散総選挙が近いと一斉に報じているが、元をただせば、昨日の読売新聞が、「消費増税先送りなら衆院解散」といった意味のスクープを書いたことが発端だ、と述べた(その日の読売新聞紙の下から前日付けのものを取りだしつつ)。首相に近い位置にある同紙が書いたものだから、勿論のこと各社とも追っかけた、と。朝日新聞系列の同局としては、口惜しそうな言いぶりだったが、解散記事を抜かれた側からすれば、当然だろう▼ただ、私のように一週間前の水曜日(5日)に関西テレビで放映された「アンカー」を観ている人間は受け止め方が違った。コメンテイターである青山繁晴氏が、その日の番組のなかで、明確に「11月解散12月総選挙」が間違いないとの予測を微に入り細にわたってやっていたのだ。おまけに彼は12日の夕刻にも、ダメ押しするごとく、勝ち誇ったように自分がすでに指摘した通りに、解散・総選挙が間近にあることを報じていたから、10時台のテレビが何を間の抜けたことを言っているのかという風にとらえたのである。この番組を毎週欠かさず観ていると、首相を含む政権中枢と密接な関係にあることが十分に読み取れる。勿論、彼はかなり辛辣に安倍政権を批判もしており、決して”首相の提灯もち”ではない。毎週、独特の読みを十二分に駆使したきわめて見ごたえがある番組なのだ▼ただ、以前にも書いたように、東京のメディア関係者には滅法評判が良くない。かつて共同通信記者時代の行状を持ち出して、およそ記者の風上にはおけない人間のように誰しもが言うのだ。私は百歩譲って、そういう噂や見方が事実に基づくものだとしても、もはや時効であって今の彼の仕事ぶりを見て判断すべきだと思う。彼の時折涙を交えての真摯な語りが、いかに芝居がかっているにせよ、全てそれを単なるパフォーマンスというのは言いすぎだろう。毎回必ずと言っていいほど、メディア批判を大胆に切り込むところが視聴者の共感を呼ぶのだが、同時にそれはメディア側には、彼への侮蔑を高めているのかもしれない▼しかし、今回の解散総選挙を予測する報道に限って見ても、勝劣は明々白々ではないか。もう報道機関もそろそろ彼の鋭い見方、仕事ぶりを認めてやってもいいのではないか、とさえ思う。これは彼が兵庫県出身であり、なかんずく中高時代を姫路で過ごしたという同郷意識がなせるものでもない。細かいところを挙げずとも、私などとは国家観も違うし、主義主張は異なる。現に彼が講演の場で公明党に批判のまなざしを憚らずに向けたので、後刻さしで誤解をとくよう努めたこともある。要するにこの国を真に憂う国士の一人だと思うだけに、メディアのバッシングが解せないのだ。(2014・11・14)
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仏様ならぬ習近平氏の「仏頂面」の意味
日中首脳が3年ぶりに会談をした。安倍・習会談の中味よりも、出会いの場面の習近平中国主席の顔つきが話題になっている。無愛想で不機嫌な顔をしていたことから、報道では、「仏頂面」という言葉が躍った。これは、どういうところからきた言葉なのか、語源由来辞典を引いてみた。まず「仏頂」とは「仏頂尊」のことで、お釈迦様の頭上に宿る広大無辺の功徳から生まれた仏という意味で、その面相は、知恵に優れ、威厳に満ちているが、無愛想で不機嫌に見えることから、使われてきたとされる。ロシアのプーチン大統領や、韓国の朴槿恵大統領らとの握手の際の顔つきがニコニコとしているのと対照的なだけに一段と考えさせられる▼日中間には、二千年の交流をもってしても未だ理解しあえない異文化間認識ギャップがあるとされる。例えば、日本人は死んだものには鞭打たない、と一般的に考える。一方、中国人は死んでも悪人は悪人で、むしろ死んでからさらに鞭打って糾弾して死者をも暴くというのが通常だという。私の学問上の師であった故中嶋嶺雄先生は、その著作のなかで(『日本人と中国人はここが大違い』)、日中関係は「同文同種」ではなく、「異母兄弟」の関係だとして、ひとたび摩擦が起き、対立が生じると、他人以上に和解しがたい関係になると述べている▼近過去の歴史を振り返れば、昭和47年の日中平和友好条約の締結いらい40年余。周恩来や胡耀邦、鄧小平氏といった優れた指導者の時代と違って、江沢民氏以来のリーダーたちは、内政上の不都合を対日関係に転化させていく手法に拘泥しすぎているように思われる。経済的な側面でいかに成長をとげようとも、国家の品格という観点からはどうにも首をかしげざるをえない行動が多すぎる現状に、多くの国が戸惑いを隠せない。とりわけ遠い遠い昔のことではあるけれど、中国に対して「あれだけ愛し、慕ってきたあなたなのに」と幻滅を感じているのが日本の普通の大衆ではないか▼しかし、ものは考えようであり、捉え方しだいだ。「仏頂面」であるにせよ、交渉の場に出てきたということは、日中関係打開への姿勢と期待があるということである。ああいう風な顔をするというのは、写真や映像でにこやかなふりをしてはならない、という事情があるのだろう。世界の常識では、いかなる内部の、家庭の事情があっても、人の世のお付き合いは、友好を、礼儀をもって旨とするはず。それを破るというのは、人道に反するということにほかならず、やがて世間の、世界の非難の対象となろう。尤も、「仏頂面」とは、仏の知恵に優れ、威厳に満ちた面相のことらしいから、習近平氏には単なる内部向けの造作ではなく、それ相当の戦略があるに違いない、と思っておくことにしようか。(2014・11・12)
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