中国に帰る少壮の学者(ジャーナリスト)との別れの茶会にて(下)

李海さんとの別れの茶会のひとときでの語らいと、そこから得たものを私風に再現してみよう。彼の日本への留学、滞在は19歳の年から18年に及ぶ。もともと四川省の地方都市・眉山で生まれ育った彼は、遠く離れた日本に憧れた。勉学を通じて自分の運命を変えたいとの志を持ち、日本留学に挑戦した。最初は日本の中国・広島県福山市で一年半の間、日本語を勉強し、その後香川大学で法律を学んだ。そして、名古屋大学で日中比較文学、ジャーナリズムを研究する。博士論文(『日本亡命期の梁啓超』=桜美林大学北東アジア総合研究所から出版)に挑む間に、香港衛星テレビで働くようにもなり、東京支局長となった。結婚もした。そんな彼にとって、日本における最大の思い出は、名古屋大学での恩師・楊曉文先生との出会いと別れだという。この人のもとで一緒に研究をしたいとの欲求が敢え無く先生の急逝(2014年7月 享年51歳)によって潰えた。彼が博士号を取得した僅か3ヶ月後のことだった▼実はこのほど駐日中国大使になった孔鉉佑氏は上海外国語大学で楊先生とは同級生だった。先般大使就任の際にお会いした李海さんはお祝いの言葉を述べた。話題は楊先生のことに及び「若くして彼は逝ってしまった。本当に残念だなあ」としんみり述べられたという。哀愁が漂う表情でのツーショットになってしまいました、と私にその時の写真を見せてくれた。写真の二人に見つめられた私は、瞬時に楊先生になり変わったかのような錯覚をしてしまった。彼はこれから中国の貴州民族大学に向かう。そこで何をするのか。日本文学と日本事情を学生たちに教え、語る。意欲満々の表情を漲らせた。彼の地での様々な民族の若者たちが日本について学ぶとは素晴らしい。日中相互理解に彼ほど見合う教官はいないと確信する▼私は実は中国に過去に二度ほどしか行っていない。創価学会青年部第一次訪中団と公明党第十三次訪中団の随行記者としてである。もう40年ほど前のことである。以来行っていない。なぜか。中国への贖罪意識が否定できないからとでも言えようか。江沢民氏の「反日教育」や習近平氏らの「中華民族の栄光」と云った言動を見聞きすると、大袈裟だが、どうしても「中国の報復」を意識してしまう。そう語った私に爽やかな笑顔で「そんなことはありませんよ。もう総て終わっています」ときっぱり。〝一知全解〟というわけにはいかないものの、彼の懐の深さと巨大な国家・中国の多面性を改めて知る思いであった▼日本についてどこがいいと思うかと訊いてみた。平和で比較的安全で、安心なところだと指摘すると共に、「製品やモノの出来具合い、サービスや人間の修行に至るまで、皆が極めているかのように見える」ととても嬉しい言葉が返ってきた。いささか褒めすぎのような気がする。もちろん、厳しい見立ても。「だけど、もはや日本人にはワクワクする思いが持てないように思われます。特に若者にエネルギーが感じられない。東北の大震災とりわけ福島第一原発の事故は、日本の国家イメージを決するような重大な関心事だけれど、どうこれを解決していくのか。再チャレンジ可能な社会作りに向けて若者のエネルギー溢れる社会になってほしい」との注文は私の耳に、中国の山あいからのこだまのように切れ切れに響く▼私は「日本社会40年変換説」を改めて彼に説いてみた。明治維新から日清・日露戦争の勝利を経て、敗戦からバブル経済へ。さらにそれの崩壊から少子高齢化の極みへと負の時代が続く、と。興隆を続ける中国を横目に、漂流する日本の現状を語ることは、同じ時期に政治家だった私には、多額の借財を突きつけられたかのようでとても辛い。平成の30年は結局日本にとって変革が望まれながら、ついに全て先送りした「失敗の時代」だったとの認識を示す他ない。では令和の時代はどうなるのか。これまでの価値観を改めて、軍事・経済力はほどほどに、文化、芸術、教育に一意専心する国作りが必要ではないかとの持論を語った。米国との同盟関係を堅持するのか、中国との新たな交流に身を委ねるのか。アジアにおける日本の選択について訊かれた。それには、どちらにつくか、つかぬかではなく、真の自立国家として、巨大な米中両国家の狭間で狡猾に生き抜く逞しさを持ちたい、と。こう語り合って、春秋に富むいい友人を中国に持った喜びをしみじみと実感する。近い将来彼の地に行ってみたい。だが、私には残された時間はもうあまりない。(2019-8-5)

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