「コロナ以後」の社会像や人間像の変化について

新型コロナウイルスの感染が終息を迎えたら、それ以前と以後とではどう社会が違っているのか、というテーマは考えるに値する重要な問題だと思います。前回私は、大まかな予測として、アメリカの時代の終わりと自民党政権の時代の根源的変化を挙げました。誤解を恐れずにいうと、国の内外における常識的な見方がひっくり返るようでなければ、感染症パンデミックに襲われがいがないと思うからです。つまり、多くの人々が突然に人生を中断される悲劇に会うのですから、騒ぎの後で元のままに戻るというのは、何かおかしいとの受け止め方です。

それは、企業倒産、雇用喪失、失業などの経済、生活における壊滅的打撃を受けている人たちにとって、聞き辛いことかもしれませんが、単にV字型の回復を願うという次元ではなく、質的な変化、これまで幾たびか繰り返されて提起されながら、放置されてきた問題をこういうときにこそ、実現を願うということがあっていいのではないかと思うのです。

具体的に言いましょう。全体と個という二つの観点から挙げます。一つは、経済成長一本槍の思考からの転換です。これは政治経済分野での環境、エネルギー政策と関連してきます。例えば、原発は、安全性に気をつけてやはり推進することが経済にとって重要だという考え方が一般ですが、そうではなく、全面的に廃止して、持続可能な新エネルギーに全面的に切り替える必要があると思われます。また、リニアモーターカーのようなものも、果たして必要なのかどうか。立ち止まって考え直す必要があるのではないでしょうか。これらは共に極端だとの意見があるかもしれませんが、まさに一考を要します。経済成長万能の考え方からの脱却という意味で、この二つは反成長のシンボル的意味合いがあるので、挙げてみました。

もう一つは、人生の価値をどこにおくかという観点と絡む問題です。共に、自己中心的な生き方ではなく、他者救済的な志向を意味します。例えば、これまで、弱者救済を口にし、障がい者に手を差し伸べることを訴えてきた私たちですが、人との接触を極限まで避けよと言われて、自宅に居続けることが常態になって、改めてその不自由さに気づくということがあります。あの『五体満足』の著者である乙武洋匡さんに、健常者の落し穴的思考を示唆(毎日新聞)されて、恐らく初めて気づく人が多いのです。また、沖縄と本土との格差というテーマも、私自身、「沖縄独立論」を主張してきましたが、本土のエゴと指摘(毎日新聞)され、改めて自分勝手な押し付け的側面が強かったことを認めざるを得ません。たとえ、それが「対中国揺さぶり戦略」だとの持論であるにせよ、です。

以上に挙げた角度の問題はいずれも従来、正論であっても無理筋だとして、脇に追いやられて来ていたものばかりです。これ以外にも勿論山ほど、私たちが向き合わなばならないのに、日常の忙しさや、いわゆる常識に左右されて、棚上げしてきているものがあります。私の想像力の貧弱さもあって直ちに列挙できませんが、「コロナ以後」に予測される新たな自画像、社会像といったものに思いを致す必要性は極めて高いと思われます。

その点で、フランスという国は一味違うなあと思います。というのは、「コロナ以後」にあるべき社会をめぐり、市民的議論のプラットホームを超党派の国会議員が立ち上げたというのです。日本も見倣う必要はあると思うのですが。(2020-4-26)

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