「申し訳ない」と「恥ずかしい」とのあいだ

舛添要一東京都知事がやっと辞任しました。一連の出来事を報道で見たり聞いたりしているなかで都民だけではなく全国民が様々なことを感じました。16日の朝刊各紙を見ると、同知事が辞任に追い込まれたことに対して「公明党にやられた」と口にしたといいます。恐らく都議会与党の自民、公明両党の間で協議がなされ、例えばリオ五輪までは持たせるという風な了解がそれなりにあったのでしょう。それが違ってしまいました。舛添氏の言葉には公明党が「不信任決議案」提出に踏み切ったことが流れを変えたとの恨みが込められています▼しかし、こういうのをお門違いというのでしょう。舛添氏を都知事として推薦し、与党として支えてきた政党として、その責任は大きいものがあります。いちいちあげつらうことはしませんが、都民を裏切る恥ずべき行為の連続が天下にさらけ出されてしまっては守るにも限度があります。公明党としてこんな知事を皆さんに推薦してしまったことへの「申し訳ない」という思いが当然あるでしょう▼実は舛添さんとは現役時代に少しだけですがご縁がありました。憲法に関する自公での議論の場で同席し、意見をぶつけあったり、NHKの国会討論会にはそれぞれの党を代表して席を並べて出演したことがあります。彼はその後厚生労働大臣になったり、自民党と袂を別ったりするなど八面六臂の活躍をするわけですが、今回週刊誌報道に接触するまでは正直そんな「せこい」ことをする人物だとは知りませんでした。今となっては、私を含めてそれを見抜けなかった人たちすべて「恥ずかしい」と大なり小なり思ってるはずです。厚労省の当時の官房長などは最もその思いが強いのではないでしょうか▼舛添さんは自分のやったことに「罪をおかしてはいない」との思いが強いのでしょう。しかし、そこは仮に百歩譲ったとしても「恥ずべきことをした」との思いは持ってほしいものです。昨今の様々な不祥事にまつわる当事者たちの会見を見ていて気付くのは、「恥じる」という言葉がでてこないことです。皆さん、「申し訳ありません」とはいっても、「恥ずかしいことをしてしまいました」とは言わないのです。不思議です。恥の文化の凋落は日本の前途を暗いものにしてしまいます▼舛添都知事は「文春にやられた」とのみ言っておけばいいのです。そんな週刊誌に名を成さしめるまで知らなかった私たちは「舛添都知事にやられた」と臍を噛むしかないのです。舛添さんを支持してこなかった野党の皆さんも偉そうに「製造責任論」などを言って、与党に罪を擦りつけてる場合ではありません。都知事のカネにまつわる呆れかえる性癖による一部始終を知らなかったことでは同罪なのですから。(2016・6・16)

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